第42話 出立(29)
それから何日も何日も、
「いとさん、これからどうする」
「どうしましょう」
この会話が繰り返された。
しだいに、この単調なる会話をする男と女の眼には、互いへの感謝よりも、隠そうとしても隠しきれぬ、或る種の情念がこもるようになっていった。そして、日が経つにつれ、それは深く強く、のっぴきならないものとなっていった。
「いとさん、これからどうする」
「どうしましょう」
この言葉以上の腹の探り合いを、若い二人は互いの眼差しで行っていた。
そんな日々のなかで、
――困ったなあ。どうしたものか…
重信は、己の感情を持て余していた。気がつくと、重信はいつもいとのことを考えているのだ。大好きな書物を読んでいるときも、いとのふとした所作が瞼に浮かんだ。日々の武芸の鍛錬をしていてさえ、そうだ。
医者でなくともわかる。
重症である。
「いとさん…いとさん…」
いとしいとしと言う心が、
「いとさん、これからどうする」
「どうしましょう」
まだ、そんな会話は続いていた。これが、若く、この道にかけては未熟であほな二人の
何か月も、そういう会話を繰り返しているうちに、――いとの腹が、膨れてきた。
いとは、急に肥満となったわけではない。
お互い憎からず思っている男と女が、ひとつ屋根の下で二人きりで暮らしているのだ。
そういうことになった。
そういうことになって、こういうこととなった以上、井澤重信は、
「いとさん、これからどうする」
なんぞとは、言えなくなった。
そういうことであった。
そうして
「あなたは、お優しい方です。ですが、あなたよく見ず知らずの私をお家に入れてくださいましたねえ。私が悪い女で、なにか物を盗って逃げていたらどうしていたのです」
『父のように、良人が底抜けのお人よしだったらどうしよう』
そう思って、
「あの時に、もうお前に惚れていたからな」
など甘やかな言葉を聞けるやもしれぬ。そんな女の打算もあった…そちらの方が、強かったやもしれぬ。
すると、重信は真顔で、
「ああ…その時は、気配でわかるから、お前さんを斬り殺していたさ」
こう言いきったことであった。
いとは、柳河原で重信が悪党に見せた武芸を思い出し、ぞっとして…
「女でもですか」
「ああ」
いとは、
良人の井澤重信こそは、いとにとって未知の男であった。この男のことを理解した心地となるには、彼女がこの男とこれまで過ごした時間は、あまりに短すぎた。言葉を交わしても、体を重ねても、彼女はこの男のすべてをわかった心地にはなれなかった。しかし、
――それでも、いい。
いとは、そう思った。
いとにとっては、あの柳河原で重信がしてくれたこと、いとの涙に困り顔となった不器用さや、周囲の者に向ける彼の真心が、すべてであった。
これは後の話だが、彼女が重信の嫁となって何年か経ち、
「じつは…」
重信が彼の家の由緒について語ってくれたとき、
「そうでしたか…」
すべてではないが、少しは、良人を理解できた心地となったいとであった。
そして、その頃には、その少しの理解で満足するぐらいに、いとはもうじゅうぶんに大人となっていた。重信を信じきり、愛しきってもいた。
もともと、男と女ほどに違ういきものの二人なのだ。それを思えば、重信のこのくらいの暗く恐ろしい部分なんぞ、なんということはなかった。
「おおい、久しぶりだな。飯食わしてくれぇ」
しばらくぶりに登谷を訪れた陸尊和尚のちの伯言は、家に入るなりそう言って…いとがぽつんとなにか縫物をしているのと眼が合った。
「!…どうもすいませんでした! 家、間違えましたっ!」
和尚は、慌てて家を飛び出し…あらためて家を確かめて、
「あれ? ここってやっぱり、井澤の家のはずだ…」
と首をひねっていると、家から当の重信が慌てた様子で出てきた。
「和尚、間違っておりませんっ! うちはここですよ、ここ!」
息せききって、和尚にむかって駆け寄った。
「あっれぇ…さっきのひとは…」
和尚が首を傾げていると、さっきの美人が膨れた腹を大儀そうにしてこちらにやってきて、深々と頭を下げた。
照れくさそうに、重信もぺこりと頭を下げた。
「家内です。そういうことになりまして…」
「どういうことだよ」
これには、和尚も開いた口が塞がらなかった。
「いと。こちらは、俺の師匠だ。武芸や、勉強や…ずいぶんお世話になったのだよ」
いとは、
「驚かせて、申し訳ございません」
また、頭を下げた。
「や。これはどうも…」
和尚は柄にもなく照れて、こちらもへこっと頭を下げた。
「あ。そうだ。かあちゃんは元気か」
「…亡くなりました」
「そうか…」
和尚が久しぶりの登谷でまずしたことは、重信の母の墓に手を合わせることであった。
井澤重信は、居心地悪そうにしながら、どういうことでこうなったか…柳河原での顛末や、いとから聞いたその身の上を、和尚に話した。
「なにか、こちらに見えてこないことがあるな」
それが、和尚の正直な感想であった。
「そうなのです」
「だが、その『亡国の音』とやらが、しげの言うとおり、とても素晴らしい曲で…それを乙梨とかいうやつが欲しがったのだろうというのは、…話としては通るな」
「そうでしょう」
「聴いてみたい、その曲を」
和尚にそう乞われて、いとは笛を持ってきた。
「おい、いとさんよぉ…」
驚いた様子の和尚の眼は、いとではなく、その笛に注がれている。
「はい?」
「その笛、ぜったいになくしちゃあいけないよ」
「…え?」
いとは、小首を傾げた。いととしては、この親しみやすい
「これまで、きっとお前さんを守ってくれたろうよ。たいしたお守りだ。誰からもらった。父ちゃんか?」
「いえ…父の友人です。父を弔ってくれた方です」
「そうか…いとさん、その御仁…」
「はい」
なにかを言いかけ、和尚はふっと顔を和ませ、
「いい御方だな」
言おうとしたこととは、べつなことを言った。そしてその笛の音色を、さきほどの言葉とは裏腹に、なんとも難しい表情で聴き入っていた。
その夜のことである。
いとは、二人で酒を飲むというのであれこれ世話を焼こうとしたが、
「腹に子がいるのだ。もう寝ろ寝ろ」
そう重信に言われ、奥でもう眠っている。
和尚としては、こんどの旅で仕入れた諸国の話を重信にしに来たつもりであったが、口にのぼるのは、いとや、いとの父親の話であった。
「…某、笛の音は、古河公方さまが、病の奥方さまを慰めるためにと楽人を呼んでいらしたので、幾度となく聴いてまいりました。ああした御方に呼ばれる楽人というのは、きっと腕がたしかと思われます。いとの笛は、そうした方々と肩を並べるほど巧みで、吹く調べはとても心を打つように思われます」
「そうだったな。よく練習された、いい音色だったな」
「いとから聞いた話は、『どこまでが本当で、どこからが嘘なのか…』というような話ですが、某はいとを信じたく思います。そして、これがもしまことなら、いとはまだ乙梨とやらに狙われているやもしれません」
重信は、いとをわざと突き放すような物言いをした。それがかえって、
――俺はもういとの話を信じているのだけれど、こういう言い方をしないと、『こやつは、女の言うことなら、何でもほいほい信じてしまう奴なのか』と、俺が和尚様に心配されてしまう…
という彼の心情を物語っており、和尚は面白そうに重信を見つめたことだった。
「うん。それがほんとうなら、そうだろうな。話の中では、ぞっとするほどねちっこい奴みたいだしな。それこそ、まるで親の仇か、子の仇のように、いとさんのお父上やいとさんをつけ狙っているぜ…化け物みてえだ」
「もしも都へ行くことがあれば、確かめてはもらえませぬか? そして、それがまことであった場合、乙梨家の者に、『嘉助の娘は、天涯孤独となった己が身を
重信は、言った。
『いとは、もう死んだ』
乙梨疎道とやらには、そう思わせるのが一番よい――そう、重信は思っている。
「…わかった。会いたくもねえが、そんな化け物がいるかどうか、確かめてやろうよ」
「ありがとうございます」
いとの良人は、和尚に深々と頭を下げた。
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