第41話 出立(28)

 

 「しげ。ちょっとそこへ座りなさい」

 母に呼びとめられて、

 「はい」

 ――いとさんのことで、なにか言われはしまいか…

 びくつきながら、母のそばに座り込んだ重信であった。

 「…ばあやがねえ。あのを追い出しにかかってねえ…いびるのさ。だから、ばあやに辞めてもらったから」

 重信の母は、ばあやが彼女に言って聞かせた悪口を、すべて息子に語った。 

 「そんなことがありましたか…」

 重信の、思ってもみないことであった。

 「あの女、今まで私に隠していたいやなところを、ずいぶんさらけ出したねえ。あんなのを見てしまったら、しょうがない…それでね、いとさんに此処ここで働いてもらうことにしたよ」

 「はい…」

 「でもさあ…、あの娘に、『このばばあに気をつけろ』とわからせるつもりでねえ、ばあやが私に吹き込もうとした悪口を、あの娘に聞かせたのだよ…必要なことだったと思うけど、気の毒なお嬢さんに、申し訳ないことをしたねえ…」

 重信は、なんともやりきれぬ心地となった。彼がいとを此処に連れてきたことで、いとはへんな悪口をされて嫌な思いをし、ばあやは職を失い、重信の母は女どものこうした嫌な寸劇を見た。

 『女人というものは、三人寄ればかしましいぐらいがちょうどよいな。こういうことになろうとは思わなかった』

 それが重信の、素直な感想であった。

 「しげ」

 「はい」

 「わたしゃ、あの二人の女のどちらかの肩をもつことはしないよ。でもねえ、あんたを信じているのだからね。あんたが連れてきた娘だから、いとさんを信じる気になったのだよ」

 「…面目次第もございません」

 重信は、母に深々と頭を下げた。

 「そこは、『ありがとうございます』でしょ」

 「はい…」

 重信は、母を見つめた。彼女は、口はまだまだ達者であった。しかし、その顔に生気せいきはなかった。

 「母上、」

 『元気になってください』というその言葉を、重信は言えない。彼の知識が邪魔をして、言えない。

 「…なんだい」

 「ありがとうございます」

 どこか、あらたまった様子で、重信は言った。

 『生んでくれて、ありがとうございます』

 『慈しみ育ててくれて、ありがとうございます』

 きっと、この機会がなかったら、「ありがとう」という言葉じたいを、この人に言うことがなかっただろう。

 「…しげ」

 「はい」

 「…わたしゃ、幸せもんだよ。あんたが息子でさあ」

 重信の母は、呟くように言った。

 所詮、重信は、この人の息子だ。どういう心持ちで彼が『ありがとう』を言ったか、この母にはきっといる。

 ――ばれてもいい…ばれたが、いい。

 重信は、そう思っている。

 医者になるべく、母をおいて家を離れたものの、に見舞われて師匠のもとも離れざるを得なかった。戻ってきたら母は病におかされていた…

 『俺がずっとそばにいたら、母の病に気づけたかもしれない』

 そのことで、ずっと自らを責めている重信だ。所詮、重信はこの人の息子だから、そうした彼の心の鬱屈まで、きっと母には見破られている。

 母は、己が命がもう長くないことも、わかっている。それを重信が察して、わざといつもと変わらぬ素振りをしていることも、きっとわかっている。

 心は目に見えぬものだから、互いの心を全てわかりあえているかなど、わかりっこない。

 「あんたはまだ若い。これから、辛い目にあうこともあるだろう。自分を責めたくなるときもあるだろう」

 「…はい」

 「でもね、お前は所詮神仏ではない。衆生しゅじょうを救うための水かきをその手に持っていない。ゆく川の水のすべてを、お前はことはできない…」

 「はい」

 「でもね。お前はきっとその手で、誰かの命を救うだろう。あんなにちいちゃかった手が、ずいぶん大きく力強くなった。そのお前の、人としての精一杯のが、私の喜びだ。気の毒なお嬢さんをまず助けたね。お前は医者として、これからも誰かの親を救ったり、誰かの子を救ったりするだろう…私が、どんなに嬉しいか、あんたにわかるかい。お前は、私の誇りだよ…」

 「母上…」

 重信は、いま母の顔を見たら泣いてしまいそうなので、両の拳をぐっと握りしめて、その拳固げんこばかりを見つめた。

 ――母上の言葉は、俺がこれ以上悩まないようにするため、…俺を幸せにするために言ったものであったな。

 神仏ならぬ重信でも、それくらいは、わかる。

 

 数日後、重信は、いとが表へ出たところを見はからって近づき、息をひそめ…

 「いとさん。母の胸を、見たか」

 そんなことを、尋ねた。

 いとは、無言で頷いた。

 「…治してやりたいが、もう無理なのだ。俺がここに戻ってきたときには、ああなっていた。俺の先生にも診てもらったが、…もう、体じゅうに悪いものがまわっていて、下手に治療すると、かえって体にと…」

 これを聞いて、いとは顔を苦しげに歪めた。

 「あれはものではないだ。びっくりするかもしれぬが、ふつうのふりをしてくれぬか」

 言葉を選び、ぽつりぽつりと懇願する重信の声は、真情に溢れていた。

 「わかりました」

 「楽しいことばかりとは言わぬ。いつもあんなふうに平気そうにしているが、そうとう痛くて、辛いに違いない…ずっと、苦しんでおいでなのだ。それがまぎれるような、おだやかな話をしてやってくれ」

 「…わかりました」

 「ありがとう」

 重信は、ほっとした様子でそう言った。

 それ以降、重信の母といとの会話は、おもに重信の幼少時代の話となった。こそばゆい心地がして、苦情がましいことを重信が二人に言うと、いとはまた重信と二人きりになったときに、

 「あなたの母上さまと、いろんな話をしてみましたが、あの方がいちばん喜んで話すのは、あなたのことなんですよ」

 そう打ち明けたことだった。

 これにはもう、重信は、なにも言えなくなった。


 重信の母が亡くなったとき、いとは重信の涙を見なかった。けれど、顔が泣いていた。背中が泣いていた。いつもは美味そうに食べるいとの料理をまるで味がしないようなかんじで食べていたから、体じゅうで泣いていたのだろう。

 いとは、涙を流して泣いた。赤の他人の自分が泣いて悼んでいいのかもわからなかったが、泣いた。彼女にあたたかい言葉をかけてくれた人が亡くなったことも悲しかったが、重信が悲しんでいることも悲しかった。その己が心の動きで、いとはもう十二分に己が重信を愛していることを悟った。

 弔いを終えて、

 「いとさん…母が世話になったな。ありがとう。あんなにおだやかな最期を迎えられたのは、いとさんのおかげだ」

 重信は言った。母や父を看病し続けたは、重信の母の欲するところのものを先回りして用意することもあり、そのくせそれがちょうど鬱陶しくならない、心地よいぐらいの距離感で親身に彼女を看ていた。ために、ばあやの時のように声を張り上げて人を呼ばずに済み、重信の母はいつも心地よさそうにしていたのだった。

 「滅相もないことです」

 「いとさん、これからどうする」

 「どうしましょう…まだ、なにも思い当たりません」

 「何がしたい?…都に戻るのはやめたほうがいいが、他に何かしたいことがあれば、言ってくれ。俺が力になれることがあったら、力になるぞ」

 「はい」

 そう返事をしたの眼が、なにかを問いかけるように重信をのぞき込んだ。

 その眼を受け、重信はついと俯いた。

 寂しそうな眼を、いとはした。

 恋のやっこがつかみかかってきた時(※1)、朴念仁ぼくねんじんの男がどうするか――それをすぐにわかるほどに、いとはいなかった。


(※1) 『家にあるひつにかぎさしおさめてし恋の奴がつかみかかりて』(万葉集)

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