第40話 出立(27)

 

 人には、己の行動について、『どうしてこうなったのか』を、面倒ながらも周囲の者に納得するまで言って聞かせなければならない時がある。

 今の井澤重信が、まさにそうだ。

 「しげ。ちょっとそこへ座りなさい」

 こう命じられて、内心びびりながら、

 「はい」

 重信は、母のそばに座った。

 しばしの沈黙があった。その間、重信はよほど、

 「母上、お加減はいかがですか」

 と訊こうと思ったが、これはさきほど使っている。ならば、

 「本日もよいお日和ひよりで」

 などと言ってみようかと思ったが、言ったが最後、こんどはなにを言われるのかわからない。ために、こちらも黙っていた。

 この家には、使用人はのみである。そのばあやがおらず、かわりのいとも表で洗い物をしていた。彼に助け舟をだしてくれる人は、誰もいなかった。

 「…あんた、子供のころ、かわいい子犬を拾ってきたね」

 「はい」

 「ぷるぷる怯えきった子犬を連れてきて、『こいつはひとりぼっちだから』とか『あのままだと死にそうだから』とか、さんざんを並べていたね…覚えているね?」

 「はい」

 「犬ならまだわかるよ。でもねえ。あんた、人間さまを拾ってくるやつがあるかい。だよ」

 「…面目次第もございません」

 重信は、ただただ頭を下げるよりほかなかった。

 井澤重信は、並の大人の男よりすこし大柄の、腕っぷしの強い男である。悪人どものこずるい嘘を見破る頭脳も持った男だ。しかし、母の前では、いつもであった。腕力では、母にもちろん勝てる。頭脳でも、たぶん勝てる。しかし、心の根っこのところで、この人には勝てぬ。勝つ気がない…そうとも言える。

 「何があったか、言いなさい」

 「はあ…」

 「きれいなだねえ。まさか、もうずっと前からそういう仲で、はらませてしまったから連れてきたなんて、言わないだろうね?」

 「!…なんということを言うんです、母上…」

 重信は、なんとも情けない声をあげた。ここまで勘違いされては、たまったものではない。柳河原の一件や、いとから聞いたその身の上を、重信は母に話した。

 ――この勘違いさえも、じつは母上の計略で、俺の口を割らせるために勘違いをしたふりをしていたのかもしれない…それくらいなことを、この人はする…

 そう思いながら、逐一ちくいち、話した。

 すべてを黙って聞いたあとで、

 「…あんた、昔から変わらないね」

 母は、そう言った。

 「はあ…」

 母は、『いとをうちに入れていい』とは言わなかったが、『駄目だ』とも言わなかった。彼女としては、

 「この家の当主はなんだから、あんたが決めたならいいよ」

 そういうはらであった。だが、それもこの母はあえて口に出して言わなかったので、しばらくの間、重信は彼女に何を言われるかびくびくし、母は母で、息子のそうした態度をにやにやと面白がることができたのであった。

 

 女の勘というものは、たしかにある。ばあやがいとを気に入らなかったのは、それが働いたせいかもしれぬ。

 ばあやは、いとに井澤の家の敷居をまたがせた己の嘘を後悔した。彼女ができたのは、三日ほどたって重信に怪しまれなくなったころに、井澤の家に行き、

 「先日は、お薬をありがとうございました」

 としおらしく重信に頭を下げたあと、再びそこの家事を行うことであった。

 しかし、その家事というのも…お天道様が高く上がり彼女が来た時には、ほとんどがいとがすませてしまっていた。やることがなくなったばあやは、いとをいびってここから追いだそうとすることや、いとの悪口を『奥様』に吹き込むことに力を注いだ。

 「そういうのは聞きたくないね。耳をふさぎたくなるような話だ」

 重信の母は寝たきりであったが、頭のほうは非常にはっきりしていた。さっと顔を曇らせ、そう言ったことであった。

 「ええ。ほんとうにたちの悪い娘です」

 ばあやはそう応じ、訳知り顔に深く頷いた。

 「おおい、いとさん」

 重信の母は、女にしてはどすのきいた低い声で、いとを呼んだ。声には、怒気がみなぎっている。その様子をうかがうは、こずるい笑みを浮かべていた。

 「はあい」

 いとは、すぐにやって来た。

 「このばあやがねえ、お前さんのことを、『川向こうに住む不良娘で、親の言うことも聞かずに悪い仲間と遊びまわっているだ』っていうんだけれどねえ」

 「ええっ」

 いとは、愕然とばあやを見据えた。当のばあやは、まさかこうくるとは思わず、これまた愕然となり…目線を向こうへ泳がせていた。

 「私が重信から聞いた話と、ずいぶん違うねえ。わたしゃ、ここんところでお前さんの人となりは知ったつもりでいる。ばあやにいたっては、今回のことで愛想が尽きたねえ」

 「…ええっ」

 ばあやは狼狽うろたえた。

 「他所よそでうちのことを、こんなふうに言われたら、たまったもんじゃないね。このばあやには暇を出すからね…いとさん悪いけど、しばらくここで働いちゃあくれないかねえ」

 いとは一瞬、するどい一瞥をばあやにくれたあと、

 「はい。わかりました。せいいっぱい働きます」

 こう言ったことであった。

 重信の母は、ばあやに向かって、

 「そういうことだよ…あんた、出ていってくれ。性根の曲がったやつぁ、嫌いさね。わたしゃ、もうすぐくたばるだろうけどね。野辺の送りにゃあ、あんた、来なくていいよ。嫌な顔見たって、たいして嬉しくはないし」

 こう言い捨てると、ごろりと背を向けた。

 かくのごとく、重信の母は寝たきりであったが、頭のほうはしていた。そして、どこまでも食えない女であった。この女性にょしょうを、己ごときが手のひらで転がせると思ったばあやの落ち度であった。

 取り付く島もなく、ぷりぷり怒りながら、ばあやは去っていった。

 ――ああ。やっぱりこの人は、重信さまのお母上なだけのことはある。どこか、どこか…重信さまに似ている。あ、間違えた。重信さまが、この人に似たんだ…

 いとがそう思ってひっこもうとすると、外で、なにかもの凄い音が響いた。いとが外にたまたま出しておいた桶に、ばあやが足をとられたらしい。

 「いとさん」

 そう、重信の母が呼んだ。

 「はい」

 「もう、外で誰かがつまずきそうなところに、なにか出しておくのはおやめよ。誰か転んだら、どうするんだい。医者のところにきて、怪我をして帰っていくなんて、にならないよ」

 「はい」

 もう何人か、被害にあっている。

 「あとね…へんなこと、耳に入れちゃって悪かったね。でもねえ、さっきのばあやじゃないけど、足元に危ないものが転がっていることは、知っておいたほうがいいだろう、と思ってね。あの婆さんが言ったこと、気にするんじゃないよ。でも、ああいうのには、気をつけるにこしたことはないよ。道端に落ちてるものには、お前さんも気をつけるだろう」

 「…はい」

 「ごめんね。私がもし元気なら、女たちが立ち話をしているなかに入っていってさ。『この人をよろしくね』って、頼んであげられるんだけれどね。そうやって、お前さんを、うまくここの皆の輪にまぎれこませてあげたいけれど…そうしたいけれど、駄目なんだよ。わたしゃ、この寝たきりの体でねえ。守ってやりたいけれどさあ…体が駄目なんだよ」

 「…いえ…あの…」

 『その御言葉だけで、嬉しいです』という、その言葉が、どうしても出ない。泣きそうになって、出ない。

 「自分の居場所は、自分で作りなさい。いとちゃん、あんたはしっかりしてるよ。頑張んなさい」

 「…はい。ありがとうございます」

 ようやくしぼり出すように言った、その声が震えていた。

 「ところで、私にも聴かせてくれないかい…あの、重信に聴かせた曲を」

 「はい…」

 いとは、懐からあの笛を出した。かつて花の御所で奏でられ、『亡国の音』とさげすまれたあの曲に、いとはもうわだかまりを持たなかった。優しい言葉をくれたこの女の人に、なにかできるのが嬉しかった。

 やがて、すすり泣きが響いた。

 いとが慌てて演奏をやめると、

 「…いい曲だねぇ」

 それだけ、重信の母は言った。生きたぶんだけ、彼女は楽しかったことや厭なこと、さまざまなものを背負ってきている。さまざまな感情を押し殺して、生きてきている。その体は、とても小さく見えた。

 重信の母の、くぐもった、涙に濡れた声が、なにかを言った。

 誰かの名であるらしかった。

 いとは何かを察し、やりきれぬ思いでそっとその場を去った。

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