第39話 出立(26)

 

 いくあてのない、頼りになる身寄りもないをどうすればよいか、重信にはわからなかった。家には母がいるが、病を得て寝込んでいる。手を煩わせたくない。次に思い当たったのは、彼の家で働いているの知恵を借りることであった。年嵩としかさの女なら、こうした時にどうすればよいか、わかるだろう。

 「そうだ。ばあやに聞いてみよう。今なら、自分の家にいるだろう。俺と同じ登谷で娘さんと二人で暮らしているから、いとさんも気楽だと思う。しばらく泊めてもらえるよう、俺が頼んでやろう」

 そういうことになった。

 登谷のぼりやに向かう途中、

 「お侍さま…お侍さまは、恩人です。お名前は、なんと仰いますか。お聞かせ願えませんか」

 いとは、そう尋ねた。

 「俺か。井澤重信だ(※1)。いとさんは俺を侍と言ったが、違うぞ」

 「では…?」

 「医者だ」

 いとは吹きだした。医者は、人の怪我や病を治すはずだ。この男は、人に怪我をさせる名人であった。こんな物騒な医者が、いるものか。

 ――ああ、この人は、笑いをとってまで、私を慰めてくれようとしている。なんていい御方だろう。

 しかし、当の本人は、傷ついた面持ちをした。それもそのはず――重信は、。笑いをとっていない。

 ひどいめにあった女の子を笑顔にさせるべく、へたな笑いまでとってくれた…そんな優しい男に、

 「ありがとうございます。これからは前を向いて、頑張って生きていこうと思います」

 清々しい表情で、いとは微笑んだ。その眼には、いきいきとした光が宿っていた。そして、

 「なぜ、古河公方さまの奥方さまが亡くなったことを御存知だったのですか?」

 さきほどから気になっていたことを、尋ねた。

 「その御方の病を診ていたのが、俺の師匠だったからだよ。俺も、先生の診察にはついていっていた」

 「えっ、…」

 いとは驚き、己がとんでもない不調法ぶちょうほうをしでかしたことに気づいた。

 「俺は、さっきの商人をかついでやろうと、奥方さまを年上のように言ったのだ。『商人が、訳も分からずにでたらめを言っているならば、ころりと知ったかぶりをして、俺の嘘に乗ってくる』となぁ…だいたい、いとさんの手を見れば、『この人は、遊び暮らしてばかりの人でない』とわかる。それをああも悪しざまに、手の付けられぬ娘のように言うのだ。どちらが嘘をついているかなんて、すぐにわかったよ」

 これを聞く彼女の顔はみるみる青くなり、

 「申し訳ありません…あまりにあなた様がお強くて優しいから、てっきり…」

 そう、平謝りに謝ったことだった。

 「いいさ。善意で勘違いしたのだろう」

 「はい…」

 「ほんとうの奥方様は、まだ若い人だったよ。もともと体が弱いうえに、と気苦労が重なったのだろうな…名医と言われた先生がどんなに手を尽くしても、この乱世は彼女にきつすぎた。お前さんは上方の方だから知るまいが、ここは戦がたびたび起こるのだ…だめだったよ。先生といて患者に死なれたのは、あの御方が初めてだった」

 その声は、悲しみや辛さが滲んでいた。

 「でも、…でも、助けようとなさったではありませんか。あなた様や先生は、尊いことをなさったと思います。父や母が体を悪くしたとき、お医者様がどんなにありがたかったことか…」

 いとは、二親のときを思い出して、そう慰めた。

 「…優しいことを言ってくれたな」

 そう小さく笑った井澤重信は、痩せて頬がこけ、やはり地味な様子をしていた。しかし、この男が自分を救ってくれた英雄であることを、いとはもう知っていた。

 ――この男には、どんな悪党もかなわないだろうな。

 あんなに怖がっていた東国に、彼女を救ってくれたお方がいた。こんな僥倖ぎょうこうがあったのだ。世の中、捨てたものではない。

 いとはしみじみと、

 「あなたさまには、この世にこわいものなんてないのでしょうね。あんなにお強いのですから」

 そんなことを言った。重信は、ちょっと考えて、

 「こわいものか…そういえば、ないかもなあ」

 こう答えたことであった。

 なるほど、この時この瞬間の井澤重信に、こわいものはないやもしれぬ。

 しかし、この男には、家に帰れば頭の上がらない人がいる。

 その上、こののちの数年のあいだに、彼に『こわいもの』はできたのだった。

 今、隣を歩いている女であった。


 「ばあや。頼みがあるのだ」

 「はあ」

 「ちょっとわけありだ。この娘さんを助けたんだ」

 「はあ」

 「若い娘さんだ。俺のところだと、いろいろ具合が悪かろう。悪いけれど、二、三日、ここに泊めてくれんか」

 そう告げる重信の横のいとを見て、ばあやは、嫌な顔をした。己が不満をすぐに顔に出す女であった。

 「申し訳ありませんねえ。お力になりたいのは、やまやまなんですけれど、私も娘も、ひどい風邪をひいて熱を出しておりまして。なんですよ。こんな悪い風邪をうつしてしまっちゃあ、他人ひとさまに申し訳ないことでございます」

 面倒ごとは、避けてとおる女であった。己が娘を重信に嫁がせ、大いばりで暮らす野望を抱えてここ数年を生きてきたばあやは、とつぜん現れた別嬪さんの存在じたいが気に入らなかった。こう言えば、よそへ行くだろう。とっとと、どこかへ行って欲しかった。

 重信は、せめてこれからをどうすればいいか聞こうとしたが、頭がふらふらの人間にそれを問うのも酷だと思い、諦めた。

 「…そうか、残念だな。そんなひどい風邪なら、しばらくうちに来ずに、寝ていたほうがいい。あとで薬をもってきてあげよう」

 「はあ、どうも」

 「困ったなあ。お前さんが手伝いに来ないとなると、今晩なにを母に食べさせたらいい…」

 困り顔の重信に、

 ――これで私のありがたみがわかるだろう。

 ばあやはほくそ笑んだ。

 「よければ、私がなにか作ります」

 いとがとつぜん言いだした。

 「いいのかい?…そうしたら助かるが…」

 「はい。母や父の病の世話をしてきましたから。お力になれると思います」

 いとは、力強く頷いた。こういうことでは、自分にも役に立てることがある。

 「そうか。なら俺は物置で寝るから、その間、お前さんはうちの母を見ていてくれまいか」

 「おまかせください。あと、私が物置で寝ますから」

 「いやいや…」

 ばあやは、自分の策略がみごと裏目に出たことを知った。

 「あ…あの…」

 弱弱しく口の中でなにか言っていた。そのうちにも、話はずんずん若い二人で進んでいき、

 「ではな。ゆっくり養生するんだぞ」

 重信はそう言い残すと、いとを連れて帰っていった。


 「母上、お加減はいかがですか」

 とつぜん連れてきた若い娘に目を剥いた母親と眼を合わせようとせず…、重信はこう尋ねた。

 「悪くないよ」

 「良かったです。ばあやが、ひどい風邪をこじらせたそうで、かわりに母上の世話をしてくれるひとを探してきました」

 重信に目で促されて、いとは、

 「よろしくお願いします。いとと申します」

 ぺこりと頭を下げた。

 『どこで拾ってきたんだい』という無言の問いかけを、母はした。それを察していながらやはり答えず、重信は、

 「いとさん、くりやはこっちだ。かわやはな…」

 それ以上のことを訊かれないように、さっさといとを連れて向こうへ行ってしまった。その態度は、彼が子供のころに子犬を拾ってきた時のそれと一緒のものであった。

 「…あんた、重信のかい? いつからそういう仲になったんだい?」 

 しかたなしに、あとで母はを呼び止めて尋ねた。いとは微苦笑して、

 「私は、さっきあの方に命を助けていただいた者です。あの方は、ばあやさんのところに私を泊めてもらおうとしてくださったのですが、ばあやさんが風邪を召していたので…」

 包み隠さずに、そう言った。これを聞くと、母は、「やれやれ」というふうに困ったように笑って、それ以上のことをいとに尋ねなかった。

 重信の口から、あとで聞くつもりなのだろう。





 (※1)当時の方の名は、いみな仮名けみょうなど、複雑ですね。この作品では混乱を避けるため、よほどのことがない限り、諱のみで通したいと思います。よろしくお願いします。井澤家は、の家なので、重信は武家に準じた名を持っています。


 





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