第38話 出立(25)


 「叔母さんは、いい人かね?」

 そう重信に問われ、いとは返事に困った。

 「…いいえ…違う気がしますが、ただ一人の近しい親戚だったので、おばさんが私を古河まで連れていくことになっていたんです」

 彼女は、おばさんがきりだしたへんな縁談を、この男に話したくはなかった。

 「その叔母さんは、どうした? 今、どこにいる?」

 「ここに来る少し前の押米おしまいというところで、さっき逃げていった人たちの仲間に呼び止められて、『この人と話をしてからすぐに追いかけるから、先に行け』と言われました」

 これを聞いて、重信は嫌な顔をした。

 ――押米おしまいあたりで、彼女の命もお終いになってないだろうな。

 「いとさん…辛いことを言うぞ。話を聞く限り…お前さんの叔母さんは、あいつらとだ。俺はな、さきほどあやつらにも言ったが、古河公方の奥方様が亡くなったことを知っている。これは、ほんとうのことだ。死んだお方が侍女を必要としている…そんなを持ってきたのが、お前さんの叔母さんなのだ。古河まで連れていく手筈であったというが、その女子おなご、どこまで知っていたのかさえ、あやしいぞ。悪人に、うまく使われていただけなのやもしれぬ。このまま、さきほどの悪人どもについていっていたら、いとさんは、きっと酷い目にあっていただろう」

 もう、すでに叔母さんはこの世の人でないかもしれぬぞ。その言葉を、彼は呑み込んだ。

 「…はい」

 いとは、頷いた。思い当たるふしはある。亡き兄を偲ぶ言葉なんぞ、あの人の口から出てきただろうか? 叔母さんがもし善人だったら、お父さんにもいとにも、もっと優しかったろう。羽振りのいいときだけすり寄ってきて、具合が悪くなったらいなくなるなんて真似を、するだろうか? 第一、亡き兄を偲ぶ言葉なんぞ、あの人の口から出てきただろうか?

 「この話、いとさんの知らない話が、更に何かあるぞ。話を聞いていると、乙梨疎道という男の名が、やけに出て来る。『亡国の音』と自分でおとしめた曲を、やつは欲しがっているのやもしれぬ。いとさんのお父さんも言っていたろう。『乙梨に近づくな』『都から離れろ』…あれは、お父さんがお前さんにつけた、必死の知恵なのではないか? 叔母さんがぐるなら、いとさんがお父さんの曲を吹けるのをやつは知っているだろう。それで、こんな真似までしたのだ。やつは、きっと諦めないだろう。いとさんのことを、これからもきっと探すぞ」

 これを聞くと、いとは悲しい顔をした。

 「悲しいことです。父は一生懸命にこの調べを作ったために殺された…そうとわかると、父が気の毒で、つらくて、なりません。この曲が、恨めしい…」

 そう言って、さめざめと泣いた。

 「いとさん…」

 通りすがりの年老いた農夫が、ちらりとこちらを見て、変な顔をした。が女を泣かしていると思っている。当のは、事件に夢中で、やっぱりそれにも気づいていない。

 「それは違うぞ。この曲が悪いのではない。いとさんもわかっているだろう…どこの世界でも、優れた者や手柄をたてた者の功績が、かえって仇となることがあるのだ。俺だって…」

 「え?」

 「…いや、なんでもない。とにかく、こうしたことはよくあることだよ…そうだなあ。俺は歴史が好きだからこう言うのだが、菅原道真公は、その才能を認められてどうなった。幸せとなったか。判官義経公は、平家を討ってどうなった。幸せとなったか…違うだろう」

 重信は、こう語った。

 「…ひどい話です」

 いとは、しぼり出すような声をした。

 「ひどいさ…でもな。俺もお前さんも、こうした人々のことを覚えているぞ。今から何百年も昔の人々なのにな。皆の哀惜や思慕があるのだ。どんな悪意が滅ぼそうとしても、こうした人々の記憶を消すことは出来まいよ。同様に、…こんなことを言いたくはないが、平清盛がしてのけたことや、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた事実は…やはり手柄として、歴史に語り継がれている。人の営みが作り出したものは、滅ぼせないのだ。これから後に世に出る人々も、そうやって歴史に名を残してゆくのだろう。その時代、その土地に思い出を残していくだろう。こうした、苦界を懸命に生きた人々のことを後世に伝えていくことは、彼等を永遠に尊敬し、愛することにつながるのではないか…俺は、そう思う」

 こう言った重信の声は、おさえがたい愛惜に満ちていた。いとには、この男がなぜそんな顔をするのか、それが誰に向けられたものか、わからなかった。

 ――きっと、歴史が好きで、真面目な人だからこんな顔となるのだろう。

 そう思ったきりであった。

 「いとさん…。いとさんのお父さんのしたことだって、すごいことだぞ。都には、たくさんの寺があり、仏像があるだろう」

 「はい」

 「仏師は、どうやって名を遺す? 仏像を彫って、名を遺すだろう。そしてその仏像は、人々の祈りの対象となって、たくさんの人の心を救うだろう。いとさんのお父さんは音楽の世界で、そういう素晴らしいものを作ったのだと、俺は思うよ」

 「そうですか…そう仰って、いただけますか」

 重信は、強く頷いた。

 「そうさ。いとさんも、この曲を大切にして、お父さんのことを覚えていていれば、お父さんはそのあいだ、まことに死んだわけではない。お父さんも、自分の曲をいとさんが吹いてくれたらきっと喜ぶだろう。仏師は、作った仏が世にあるかぎり、けして忘れられはしないのだ。いとさんのお父さんも、その曲があるかぎり忘れられるものか」

 いとは、須極井寺すごいでらで仏像を見せてもらったときの父の言葉を思い出した。

 「お侍さまは、優しいことを仰りますね。昔、父と一緒に須極井寺で仏像を見せてもらったとき、父は言っていました。『いと、この仏さまはねえ。木の中で眠っていたのさ。それを木から出して、起こしてさしあげるのだから、仏師ってのは尊いねえ』…父も、その仲間入りができるのですね」

 その言葉に、重信はあたたかく笑った。

 「そうだとも。お前さんが、お父さんの曲を吹き続けるかぎりな。神のごとき技を持つ者だけが、そういう境地にたどり着けるのだろうよ(※1)。…だから、いとさんはその娘として、しっかり生きていかねばな」

 「哀れでさびしい死に方をした父ですが、そんなふうに言ってもらえて慰められましょう」

 その告げるいとの頬を、また涙が伝った。さきほどと違った涙であった。

 「でも、いとさんが、お父さんのそばにいてやれたのだろう?」

 「ええ」

 「なら、さびしい死に方ではないではないか。俺は、父の死に目に会えなかった」

 重信の眼が、悲しいものとなった。いとは、何も言えなくなった。

 「お父さんの友達が、背負って野辺送りをしてくれたのだろう?」

 「ええ」

 「なら、寂しかないさ。好きでもないくせに、世間体がどうとか言って来られる野辺送りより、ずっと良かったろうと、俺は思うよ」

 「…ええ…ええ…そうですね…」

 こう応じながら、いとはまた泣きたくなった。

 ――この人は、思いつくかぎりのいろいろのことを言って、私を悲しみから遠ざけようとする。下心なんぞないような真っすぐの心持で、私を泣かすまい、泣かすまいとしてくれる…

 「お侍さま」

 いとの声は、震えていた。

 「なんだ?」

 「…泣かさないでください」

 「ええっ?」

 ――なぜ俺が泣かしたことになるのか?

 重信は、腑に落ちない顔をした。

 不意に、彼は鋭い視線を感じてそちらを眺めた。

 すこし離れたところを、若い娘たちが連れだって通り過ぎていく。こちらを見て、なぜか重信が睨まれている。

 己がこのという女を泣かしているとみられている。今度こそ、それに気づいて、重信は再び、うろたえた。

 ――あれ? 俺、この娘を助けたのではなかったか? なぜ見ず知らずの女どもに、俺が睨まれるのだ?

 こういうのを、なんというのだろう。重信には、よくわからない。女心もわからない。世間というものもわからない。齢は数えで十九、女に弱い重信にとって、この世のすべては脅威と神秘に満ちていた。

 「いとさん、悪いが泣きやんでくれっ、頼むっ。ああ、もう…どうすればいいのだ」

 その困り顔を見て、初めては、ちいさく笑った。


(※1) ミケランジェロの存在を思い出した方がおいでなら…そうです。筆者は、ここの箇所をニヤつきながら書きました。


 

 

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