第37話 出立(24)


 いとは、己が家族に起こったことを井澤重信に語ったが、父・嘉助の身に振りかかった災難のすべての姿を知らなかった。彼女が知っていたのは、彼女の父が笛の名人であったこと。須極井寺で父が大成功をおさめ、都の人々の耳目を驚かせたこと。母が亡くなり、父が美しい曲づくりに没頭したこと。できた曲が『亡国の音』と、乙梨家の当主に糾弾されたこと。父が暴行を受けて死んだが、それをやったのが、父の口ぶりからして乙梨家の手の者であろうこと――

 黙って聞いていた重信は、

 「いとさん…そう呼んでいいか?」

 「はい」

 こう答えて、いとは己が頬が火照りだすのを感じた。そして、そうなった己を訝しく思った。今まで、さんざん人に自分の名を呼ばれてきたではないか。しかし、この若者の「いとさん」は、二親の「いと」の優しさではない。叔母や、その息子の「いとちゃん」の胡散臭さでもない。他のひとたちの「いとちゃん」「いとさん」の無関心でもない…彼女の心の琴線をふるわせる、なにかがあった。

 ――このふわふわした感情を、恋とするのはまだ早い。

 いとは思った。今は、それどころではない。助けてもらった感謝と、ときめきと勘違いするべきではない。そうも思った。

 そんな彼女の心の動きも知らず…、

 「そのお父さんの曲を、聴かせてくれるか。騒ぎの元となった曲を、聴いてみたいのだ」

 重信は、もの思わしげに言った。彼にとって、いとは確かに綺麗な女子おなごで、彼女を悪い奴等から救ったことに心は踊ったが、…こちらはこちらで、降ってわいた事件に夢中となっていた。そういう性分の男であった。

 「わかりました」

 ――どうせ、この人の強さや怒ったときの恐ろしさに、さっきの悪い人たちはうんと遠くに逃げているに違いない。この人以外、聴かれっこない。

 いとはそう思い、笛を取り出した。それに葉っぱが一つついているのをみとめ…、

 「それが、おとうさんの笛か。昔の笛の名人は、朱雀門の鬼と会ったと言っていたが、面白いな…まるで、その鬼と交換したような笛だ」

 重信は、こう言った。

 「えっ、鬼とですか?」

 いとは驚いた。いとは、父が朱雀門の鬼と出会ったことを言っていない。なぜ、お侍さんはそのことを知っているのだろう。その様子を、重信は違うように解釈し、

 「いやいや…とつぜんびっくりさせて、怖がらせてしまったかな。昔な、源博雅みなもとのひろまさという笛の名手が、朱雀門の鬼と笛を交換したのだよ。博雅があまりに上手に吹くものだから、鬼は笛を換えても彼が同じように吹けるか、試したくなったのだろう。このときの鬼の笛には、葉っぱが二つ、ついていたそうだ…それを思い出しただけだ。単なる軽口だよ。気にしないでくれ。鬼なんぞ、滅多にいるものでなし」

 そう言って、笑った。

 「そうですか…」

 いとは、これにどう答えていいかわからず、じつに曖昧に笑い、

 「これは、父の友人が、『おまもりだ』と言って、くださったものです」

 こう告げた。

 いとは、その父の友人の正体を若者に告げる勇気が、まったくなかった。

 じっさいの鬼と会話をしても、その心根の温厚をみてとって臆することなく、鬼のような強さの重信の優しさをみてとってひるまないは、なるほどしっかりした女子であった。ただ、彼女は若者に、

 『「鬼から笛をもらいました」などど法螺ほらを吹くなんぞ、この女子はどうかしている…』

 と軽蔑されることを、今はなによりも恐れた。

 「父の笛は…父の遺体とともに埋めてもらいました。父のことです。あの世に行ったとき、父の手に笛がなければ困ると思って」

 いとは、また寂しそうな顔をした。その瞳には、『しっかりしなくては』と己を叱っているかのような頑なさを宿していた。

 そんないとに、重信は、

 「…そうか」

 としか言えず…、この娘をこんな面持ちにした奴どもをぶちのめしてやりたい心地となった。ここだけの話、当の重信は気づいていないが、そのうちの幾人かは、既にぶちのめしている。尿いばりを垂らして言わせるほどには、やっつけてもいる。

 後にこれを知って、重信はちょっとだけ溜飲を下げたものだ。


 おもむろにが笛を吹くと、一陣の涼風が吹き抜けた…重信は、そんな心地となった。

 ――なんと悲しげで、やさしい響きの曲だろう!

 その旋律は、陰々と響く。澄みきった岩清水の流れるところへ、聴くものを誘っていく。

 生きている人間は知らないはずの道なのに、不思議だ。この調べに乗れば、そこへ行ける。

 重信はそれに、なんの不思議も感じない。

 美しいものには、その力があると…それを、今、知った。

 おだやかな音の中で、知らず知らずのうちに、重信は彼の憂いの元である亡きひとへ、訥々とつとつと語りかけていた。

 すると、どうだ。

 今の音を聴いたか――あれは、光だ。

 その光とともに、

 『それでよい。それでよいのだ』

 そう、たしかに父の声を聞いた心地がした。

 ――ああ。父上。

 勃然、重信は、己が思い悩んできたことへの答えを見つけた。そして、その答えを出した己を、懊悩していたことをも含めて誇らしく思った。

 ――これでよい。これでよいのか。ああ、そうか。

 彼の眼に、これまでと違う決意の色が現れた。いままで、漠とした霧に覆われていた彼の目指すべき道が開けた瞬間であった。

 曲を吹き終えたいとは、重信を見やった。

 「うつくしい調べだな…いい曲だ」

 彼がそう笑いかけると、いとは、これまでずっとそういう顔でいたに違いない寂しそうな表情を和らげて、

 「いままで、さんざんに酷い言われようをされてきた曲ですが、お侍さまにそう言っていただけると、とてもうれしいです」

 小さく、笑ったことであった。『お侍さま』――いとは、この時点で、重信のことを侍だと思っている。

 「いとさん、『亡国の音』の由来を知っているか?」

 「さあ…存じません」

 いとは、かぶりを振った。

 「都の偉い人たちが『亡国の音』と言って恐ろしがったり嫌がったりしたのだから、『なにかしら悪い、恐ろしいものが、その曲にあるのだろう…』と思っていました」

 それを言うと、

 「そんなところだろうな…」

 重信は、頷いた。そして、

 「『亡国の音』というのは、唐土もろこしの大昔、いんという国があって、そこの暴虐の王が楽人に命じて作らせたものだ。その王様は紂王ちゅうおうというのだが…今から、気の遠くなるほど昔に生きていた人だよ」

 そんなことを言い出した。

 「そうなんですか」

 「仏法が日本に伝わるより、うんと、うんと前のことだ」

 「へええ…」

 「唐土からこの日本に来るのは、いつの時代も命がけであったろう。ありがたい仏法ならばいざ知らず、そんなろくでもないしろものに、命を懸けて伝える価値があると思うか?…『亡国の音』とやらは、乙梨疎道とやらのでっち上げだ。いとさんのお父さんが優れた奏者であったので、己が立場が危うくなると思った乙梨が、お父さんを嵌めたのだよ…唐土の故事まで持ち出されたのだ。ああした所だから、かえってこういうに人びとが騙される。なまじそういうことを知っている人々ほど、よく騙されただろうな」

 重信は、言いきった。

 いとにとって、このお侍さまは未知の男であった。見たところ、いとより少し年長に見える。鬼のように強くて、いとの知らない故事を知っていて、己がいないところで起きた出来事について快刀乱麻を断つが如き明晰さを持っている。そのくせ、いとが泣いたらうろたえる。

 そんな彼にそういわれると、なんだかいとにも、そんな気がしてきた。この時点ですでに…彼がなにかを「黒だ」と言いきれば、いとも「この人が言うからには、黒なのだろう」と思うくらいに、いとは重信に惚れていたのだろう。

 

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