第36話 出立(23)

 

 とらは、乙梨疎道には言いだせないものの、彼が遣わしたである商人には、

 「いとちゃんには、うちの息子を追いかけるためではなく、『古河公方の奥方さまに仕えるために、東国へ行くのだ』と言っているのです…」

 そのことを知らせておいた。すると、この男は面白そうに、

 「いとって娘は、お前の息子にの字だったのではなかったかい? やつが『来い』と言ったら、『はい』とほいほいついて来るのではなかったかね?」

 そう馬鹿にしたように笑った。

 「ええ…そうなんですけど…あの年ごろの娘は、いやに難しくて…」

 息子のうぬぼれきった独り合点で、こういう恥をかいている。とらは、口をの字に曲げた。

 「まあ、いいさ。こちらは構わないよ。お前さんの法螺ほらに、話を合わせてやろうじゃないか」

 こう言った商人の顔には、『あのどら息子、ふられやがったな』と書いてあった。

 そんな一幕のあと、一同は都を発った。

 「私が、古河まで送ることになっているの。都から離れて東国なんて嫌だけど…しょうがないわね」

 名残惜しそうに、叔母は言った。じっさい、少し歩くたびに、「はあぁ…」とため息をつく旅となった。相思相愛の人と別れるがごとく、都から離れるのが辛く悲しい叔母であったが、都のほうでは彼女をどう思っていたかは、わからない。

 無論、どころかも知らないことだが、とらと先ほどの会話をした商人というのが、嘉助を殺したごろつきの頭目が言っていた、彼の弟である。『二人を保護するため』という名目で、手ごわい男どもを連れて彼女たちを見張っている。見張る相手が女どもであるから、念のため女の手下も連れていた。

 嫌な旅であった。男どもは、ちろちろとに色目をくれていたが、そこだけはとらが、

 『息子の嫁になる娘に、指一本触れさせるもんか』

 と、うまく防壁となっていた。

 武蔵国に、押米おしまいというところがある。近くの柳河原に比べ、藪の多く、人通りのないところであった。

 「そろそろ、向こうでの暮らしのことなどを話し合おうじゃありませんか。お嬢さんに聴かせたくない話なので、あちらには先に行ってもらいましょう…じつは、お坊ちゃんが遊びでこしらえた借金の件で、少し耳に入れたいことが…」

 これを聞いて、とらはさっと顔色を変えた。もうすでに古河に着いているであろう

息子の男ぶりと自らの口八丁手八丁で、なんとかを予定通りに息子の嫁にねじ込もうという腹の彼女である。これから更に息子の悪行をいとに聞かれたら、たまったものではない。

 「いとちゃん。後からすぐに追いつくから、この人たちと一緒に先に行ってぇ」

 いとを先に行かせ――叔母も、これでとなった。

 とらの死体は、しばらくしてから藪の中で見つかった。と見開かれた白目がちの眼が最後に何を見ていたか、誰も知らない。

 なにもかも、藪の中となった。


 ――おばさん、なにがあったんだろう?

 いとは小首を傾げながら柳河原にたどり着いた。

 当時からすでに、江戸は交通の要衝であり、そこから人や物資は方々ほうぼうへ流れていったが、まずその江戸へたどり着くために、柳河原を通る人は多かった。ために、じつにさまざまな階層の者がここへ集う。

 いとを連れてきた商人は、ここで一休みしながら舟を待つのだと言っていた。

 「お嬢ちゃん、草履のひもがほどけそうよ」

 知らぬ間に傍らにいた、旅装の中年女に言われ…、

 「あっ…、気づきませんでした。ありがとうございます」

 「ずいぶん長旅ねえ」

 「えっ?」

 「いえね、服装で、そんな感じがしたから…」

 『若いお嬢さんに、着物の裾が汚れていることなんて言えない』と、そう思ったらしく、この女は言葉をにごした。その気遣いがわかって、いとは、ちょっとように「えへへ」と笑った。こうして世間話が始まった。

 商人たちは、「舟が遅い」と、そちらを気にしてばかりいる。彼等は押米で何が起こるか知っているので、早くここを去りたいと焦っている。ために、いとへの注意が逸れていた。

 「お嬢ちゃん、ひとり?」

 「いいえ…おばさんとあの人たちと…でも、おばさんは、さっき通った押米で『連れのひとと話がある』って…」

 「ふうん」

 女は、胡散臭うさんくさそうに、を見つめた。

 「これから、どこ行くの?」

 「古河公方さまの奥方さまにこれからお仕えするのです」

 と言うと、

 「その方なら、数年前に亡くなっているはずよ」

 女からそんな言葉が返ってきたので、は驚いた。

 その女が、どんな生業の人なのか…いとにはわからなかった。喋り口がいかにも世慣れている感じの人であった。そうやって、すぐにいろんな人と近づく才能があるのだろう。

 いとは、この女がであることを知らぬ。じつは、この女はその古河公方さまの家来からきつく命じられ、を血眼になって探していたが見つからず…あえなく他を探すことにしたのであった。

 「連れの人たちは誰なの? どこから舟に乗るの?…え? ここからすこし離れたところ?」

 女は、『いかにも胡散臭い話に出会った』というように、宙を睨んだ。

 「あのね…連れの人たちには、注意したほうがいいと思う」

 そう告げると、女の人は、すっといとから離れていった。舟の到着を知った、いとの連れの人たちが、彼女に気づいて警戒する眼差しを浮かべたからかもしれないし、女の人自身が、『これ以上このことに関わりたくない…』と思ったからかもしれぬ。

 それでも、「注意をしたほうがいい」と警告をくれたのは、世慣れた女が、若い娘にくれた、彼女なりに精いっぱいのであったかもしれぬ。

 ――どういうことだろう?

 舟へと歩くあいだ、いとは考えた。

 ――皆が使う船着き場から離れて舟に乗るなんて、どうもおかしい。人目を避けているようではないか。

 おばさんが『この人と一緒に行くのだ』と言うから、この人たちと来たけれど、私は、この人たちを信用しているわけじゃない。おばさんは、こんなに待っているのに、まだ来ない。なにがあったんだろう?

 いとは、さきほどの女の言葉や、それを言ったときの表情を思い出し、

 ――この人たちは、信用できるか?

 あらためて、己の心にそう問うた。いとは、この長旅でがいとやおばさんに見せたいやらしい態度を思い出した。とうてい信用できない。

 ――おばさんは、ほんとうに、ここにやって来るだろうか?…永遠に、やって来なかったらどうしよう?

 昔から、悪い人に騙されて売られていった者の話や、人買いに連れ去られた者の悲劇は、人口に膾炙かいしゃしている。いとも、子供のころからよく聞かされている。そういう話のあとは、きまって、

 「悪い人についていってはいけないよ」

 と来るものだ。

 ――私、悪い人についていこうとしてはいないか?

 いとは、己が虎口の前にたっていることを察した。

 ――どうしよう。

 いとは無意識にからもらった笛を撫で、笛を撫でた。

 すると――どこかで、きれぎれに笛の音が聴こえる。川の方から、それは風に乗っていとの耳に届いた。

 まるで、いとの無言の問いに答えるかのようであった。後々、いとはこの時のことを思い出し、『あんなところで、あんな曲を聴くなど、本来ありえないことだ』と不思議に思うことになるのだが、たしかにこのとき、その調べが聴こえた。

 あれは、…あの速い旋律は、長慶子ちょうげいしの調べだ。いとは嘉助の娘だ。それが普段どういうときに演奏されるか、知っている。

 あれは、催しが終わって、人々がその場を去るときに流れる曲だ。

 その調べが、彼女に告げている。

 『去れ、去れ』

 『逃げろ、逃げろ』

 いとは意を決し、とつぜん身をひるがえして逃げ出した。できる限りの速さで走った…しかし、

 「あっ、こら!」

 すぐに追いつかれ、むんずと腕を掴まれた。

 いとは、咄嗟とっさに叫んだ。

 「誰か! 誰かたすけてぇ」

 絹を裂くような、可憐な声であった――こうしては、その場を通りかかった井澤重信に助けられたのである。



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