第35話 出立(22)

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 ここまで、訂正前までは、嘉助の妹は、「それほど重要な人物でない…」という筆者の判断から、名前がありませんでした。しかし、予想以上に彼女がいろいろと立ち回ってくれた結果、「これは、名前がないとバランスが悪いな…」ということになってしまいました。そこで、遅ればせながら、彼女に「とら」と命名し、これまでの彼女の登場箇所を訂正しております。まことに申し訳ございません。

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 良人に逃げられて以来、とらの胸には、焦燥やら不安やらが渦巻いていた。彼女を捨てた良人については、

 『あの馬鹿、自分の見てくれが、若い頃とおんなじだと思っているんだろうか。若い頃はだった見てくれも、今じゃ年相応に衰えて、銭を高く払わなければ、女に振り向いてもらえないくせにさ!』

 そう心の中で毒づいて、

 『まだ私は、幸せだ。息子がついているんだから、幸せだ』

 己には、そう言い聞かせていた。

 とらは、己が息子と嘉助を同じようなものだと思っていた。

 彼女にとって、兄は父親に、

 「笛ばっかり吹いて暮らして、駄目なやつだなあ」

 と言われ続けてきた駄目男であった。そして息子は、

 「遊んで暮らして、駄目だけれどかわいいやつだなあ」

 であった。

 遊びほうけているように見えたことは、なるほど二人はよく似ていた。しかし、この点だけは違っていた…嘉助は笛に夢中になっていた。息子は、遊興と女に夢中になっていた。この違いがわからないは、己が息子は、すぐに嘉助と同じような名人になれると、信じこんでいた。

 ――どのみち両方とも駄目なやつなんだから、うちの息子のほうが、かわいいだけいいだろう…愛想もいいし。うちの息子は、兄さんみたいなをしないから、兄さんよりも名をなすだろう。

 こう思い込むことによって、彼女は芸術に侮辱をくれていた。

 そんな彼女に、うまい話は向こうから転がり込んできたのだった。

 『乙梨疎道が、嘉助の弟子に会いたがっている…嘉助の曲が、欲しいのだ』

 息子が遊興仲間から仕入れてきたのだ。その遊興仲間の背後に疎道がいるとも知らず…いや、知っていても行っただろうが…と疎道を訪ねた母子二人は、『嘉助の甥とやら』の才能や人柄をいたく気に入り、これからの面倒を見るという疎道の甘言にころりと騙された。

 ところで、

 「いとちゃんぐらい、俺はすぐにおとせるよ。あの娘は、昔っから俺のことが好きだったんだ。こっちを意識して意識して、困ったもんだったよ」

 という息子のうぬぼれきった言葉を、とらは鵜呑みにしている。

 いとは、彼を嫌いで嫌いで、嫌い抜いていて、そういった『あんたのこと嫌いだから、よってこないでよ』の意識でいたのに、残念なことである。

 そのは疎道が欲しがっている嘉助の曲を、知っている。嘉助は、いとに笛の技術を余すことなく伝えている。親である嘉助が、愛する我が子に何かを教えてやりたいとして…このと天才は紙一重を地で行く男が胸を張って娘に教えてやれることは、やはり音楽の技術しかなかったからだ――嘉助の妹との世間話の中でこれを聞くと、疎道は目の色を変えた。これがあったため、疎道はあの時、嘉助を心置きなく叩きのめすことができたのであった。

 嘉助の命が、いよいよ危なくなっている旨を聞いて…疎道は、こんなことをとらに持ち掛けた。

 「おまえの息子と、嘉助の妹は、好き同士であるらしいから、二人で夫婦になって、しばらく田舎に暮らすのはどうか。東国の古河というところに、うちと懇意にしている商人がいるのだ…嘉助のことを、まだ皆おぼえている。そのほとぼりがさめたら都に呼び寄せよう。その時におまえの息子は、俺の弟子としてひと花咲かせればいいだろう」

 いかにも大人たいじんらしい、鷹揚な口ぶりで疎道は言った。

 「いとちゃんぐらい、俺はすぐにおとせますよ。あの娘は、昔っから俺のことが好きだったんです。こっちを意識して意識して、困ったもんでしたよ」

 という嘉助の甥のうぬぼれきった言葉を、疎道もまた鵜呑みにしている。これまた残念なことであった。この名うての遊び人が、あんまり自信たっぷりに言うから、いけなかった。

 『二人が夫婦になれば、自分のこれからは安泰だ』と、とらはそう思っている…ただ、都を離れるのは、彼女の方で、嫌だった。

 「桜の花を、見てから行きたい」

 そう言って駄々をこねた。彼女の駄々は、なんの効果もなかったが、

 「いとちゃんが、そう言ってでも動かず、私を困らせるんですぅ」

 と、とらが困ったように言うと、乙梨様のほうが、

 「しょうがない…」

 と折れてきたので、桜の季節が終わった後は、別な言い訳をと考えて、さんざんごねていた。

 ――そうしているうちに、ほとぼりがさめてくれないかなあ。

 そんなことを、とらは思っていた…だが、そうは問屋がおろさなかった。


 ついに、息子が遊びで拵えた借金が返せなくなり…息子の方が、

 「俺は、先に行くよ。乙梨様が、そっちのほうがいいっていうし」

 そう、焦った様子で言い出した。もちろん、借金の取り立てから逃げるためだ。この借金取りが、疎道と懇意にしているあのごろつきどもの仲間であることを、やっぱり彼は知らない。

 ――乙梨様の家来が一緒なんだから、大丈夫だ。借金取りからも、うちの子を守ってくれることだろう。心強いこと、この上ない。

 息子と同様、なにも知らない哀れなる母は、

 「それがいいわね」

 二つ返事で先に息子を送り出した。向こうで、いとと三人で暮らすつもりだ。

 いとと二人きりになると、叔母は自信満々…いとに、

 「うちの子、どう?」

 と持ち掛けた。即座に、

 「滅相もありません」

 と手ひどく断ったであった。

 ――息子よ。話が違うじゃない…風の速さで、断ってきたわよ。

 東国への旅の空の息子に、とらはつっこんだ。じつは、その息子はすでに『乙梨様の家来』に殺されている。

 そうとは知らないは、息子のために知恵を絞って法螺話を考え――『この先どうするか』と宙ぶらりんの姪っ子に、こう言った。

 「ねえ。気分を変えるには、ここを離れてみるのはどう? 知り合いの商人さんが、人を探していてね…なんでも、古河公方さまの奥方さまが、都の出身で音楽のできる娘を、側仕えに欲しいと言っておいでで…とても音楽の好きな方なんですって。私は、いい話だと思うわ…考えてもみなさい。あんな位の高い御方のそばに仕えないか、というお誘いがくるなんて、あなたに笛の芸があってこその、これ以上ないほどに光栄なことよ…こんな機会は、後にも先にも、もうこれっきりでしょうね」

 『古河公方の奥方さま』というのは、これなる悪い叔母が一生懸命に考えだした、いとを安心して関東へ行かせるための魔法の言葉であった。なまじ、父親が将軍・足利義政公の近くにしたことがあったため、いとにとっては、こんな拙い嘘のほうが現実味があった。

 あのおじさんの言葉がある。ふだんから亡き父にも、

 「乙梨から離れたほうがいい…」

 そう言われていた。おまけに、嘉助に教わった笛の腕前にも自信があったである。

 「それもいいかもしれない…」

 へんな縁談を受けるよりはと、甘言にのっかってしまった。

 

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