第33話 出立(20)
叔母の顔を再び見て…いとは、露骨に顔を顰めた。
「あらあ。そんな顔をするなんて。やっぱり兄さんに、娘のしつけは無理ね」
そう言うと、とらはまるでそこが我が家であるかのように、ずんずん入り込んだ。
すると、どうだ。
「来たか。もうそろそろ、来る頃だと思っていたよ」
どこか挑むような口調で、嘉助は言い…、いとになにか用事をことづけると、妹と二人きりとなった。
「兄さん。まだ笛は吹ける?」
「うん?…いや、もう吹けないねえ…」
「そう…」
「家族は元気か?」
すると、何故か一瞬目を泳がせて…、
「元気よ」
とらは、短く答えた。壺の中身がなくなり、嘉助にあの提案を断られ…ついに彼女が銭の工面が出来なくなったとわかるや否や、彼女の良人は風をくらって
良人のいそうなところを探しまわり、尋ねまわり、そこで会った人々の口ぶりから、良人の魂胆を彼女はうすうす感づいている。彼は、どこかにいるであろう、裕福で寂しい暮らしを送っている未亡人を夢見てそうしたのだ。そんなうまい話があるとは限らないのに、あったとして、それがうまくいくとは限らないのに、ここにいるよりかはましだということだ。そんなろくでなしだ。良い人だと思っていたけれど、違ったのだろう…それを、彼女は兄に言いたくなかった。『心配をかけたくない』という感情からではない。負け犬の兄に、己もまた負け犬であることを白状するなど、彼女の自尊心が許さなかっただけだ。
「…お前だな、壺を持っていったのは」
嘉助の声は、いつになく陰に籠っていた。
「あらあ。なんのこと?」
答えるその妹の声は、いつもどおりの、取り繕った軽さであった。
「…こうしているとなあ、考える時間だけはたっぷりあるんだ。あれから、つらつら考えてみたんだが、お前の言う通り、ばあやが持ち出すなんて、無理なんだ。ばあやがそれを望んでみたとしても、な…だって、婆さんの力であの壺を持って逃げるなんて、無理なんだよ。ひどく重たいものだったからね。つまり、お前のように、親父が俺に壺の存在を教えているときに立ち聞きしてそのありかを知っていて、なおかつ男手を借りられるやつじゃないとなあ、持ち出すことじたいが無理なんだ」
こう言って、じろりと、嘉助は妹を睨んだことだった。
「あら、そう」
平然と、とらの方はこれを受け流した。彼女は、嘉助にもうなんの力もないことを知っている…ほら、目の前の兄は、宝をかすめ取った妹に、掴みかかることさえしてこないではないか。兄の、この声の細さは、弱弱しさは、どうだ。
「俺が死んだら、困ったことに、いとにはお前たちぐらいしか頼れる親族がいない。そうでなければ、あの子は、孤児になってしまうのだ」
「そうね。そのとおりね。だいじょうぶよ…いとちゃんには、私がしっかりついていることにするわ。こうやって人助けができるのは、嬉しいことよねえ…私は、いつだって、いろんな人の役に立っているんですからね」
「そうか…お前は、ほんとうにいとの力になってくれるんだな?」
「やけに疑うじゃないの」
「だって…おぼえているか? お前が、前に言ったことを。お前は、あの大店の主と一緒だったな」
「なんのこと? 誰なの、それは」
「俺に、『乙梨疎道の前であの曲をもういっぺん吹いてみろ』と言ったやつのことさ。言い回しまで、一緒だった。お前はあのとき、乙梨の役に立とうと立ち回っていたんだな」
「兄さん、なんだか急にするどくなったわね。どうしたのかしら、まったく」
ふてぶてしく、妹は、兄にこう応じた。
「…頼む。今までのことは、すべて許す。だから、俺への罪滅ぼしのつもりで、今度こそ誠実なことをしてくれ。いとを守って、幸せにしてくれ。後生だから、きっとそうしてくれ…いいか。もう乙梨と手を切るんだぞ。そうして、いとを連れて、都から離れるんだ。さもないと、おそろしいことになるぞ…わかったな」
「ふうん。おそろしいことって、なにさ」
「天罰さ」
「へええ」
「…俺にはわかる。お前の末路がなあ」
「あっ、そう」
ふふんと妹は兄に向かって、蔑んだ笑いを浮かべたことだった。
「…お前は、いまも『自分がいちばん頭が良くて、誰よりも世間を知っている』と思っているな? そして、俺のことは『馬鹿だ』と」
「いちばんかどうかはわからないけれど、…兄さんよりかは、ねえ…」
とらが目に入れても痛くない息子は、たいしたどら息子であったが、彼女にとってはたいした息子であった。その息子の資質を、乙梨疎道は買ってくれていた…少なくとも、彼女はそう信じた。
『おまえの息子には、才能があるぞ。将来は、ひとかどの奏者となろう。俺が後ろ盾になって、食うものに困る暮らしはさせぬよ』
疎道のその言葉を、息子よりほかに何もなくなった彼女は、信じたがった。そして、当の息子は母の必死を知らず、のらくらをやめていなかった…
「これが最後の、忠告だ。俺の言うことを聞いて、乙梨から逃げろ。いとを、いとが『この人がいい』という男に嫁がせるんだぞ」
その嘉助の言葉に、
「はいはい。わかりましたよ」
そう頷きながら、これなる不肖の妹は、
――兄さんは、もう長くないだろう。年を越せずに死ぬだろう。そうなったら、こっちのものだ。こいつぁ春から縁起がいいわえ(※1)…そう、ほくそ笑んでいた。
とらの見立てどおり、その年の暮れに、嘉助はひっそりと亡くなった。
「あ…いと、おかあさんだ。お前のおかあさんが、むかえにきてくれたよ」
そう、夢見るような眼差しで言ったあと、
「聴こえる…うつくしい音色が――」
たどたどしい声で、うれしそうに眼を細めて、ついに動かなくなった。
あれだけ世に名の知れた嘉助も、汚名にまみれて死んだからには、葬儀の世話を焼こうという者も現れなかった。
「お父さんの亡骸を、どうやって運ぼう…」
いとは、こういう時にどうするのか、わからなかった。本来は、いとより大人の人が、なにかするのだろう。
突然また現れて以来、なぜかうちに入りびたりとなっていた叔母がいるから、
――叔母さんは、おとうさんの妹だ。お父さんを弔おうとして、世話を焼きにここに来たのだろう。ああまで人助けが趣味で、『人のため、人のため』って言ってたんだし。
しぜん、いとはそう思っていた。いとは、叔母にすがる眼差しを向けた。それを見てとると、とらは、ついと目線を外した。
「ねえ、叔母さん。叔父さんは? 叔父さん、ここに来ないの?」
いとは、これなる叔母が男に捨てられたことも、その息子が遊び惚けて叔父の弔いに興味も示さないことも、知らなかった。それで、『大人の男の人がいたら、どうにかなるだろう…』と思ってこう言っただけだ。
しかし、これを聞いた叔母は、憎々しげに口を歪め、むっつり黙り込んでしまった。
そこへ、激しく戸を叩く者がいる。
開けてみると、あの男が立っている。無論、叔父さんではない。
「嘉助が死んだと聞いてなあ…」
あの、傷ついた嘉助を背負ってきてくれた、『お父さんの友だち』だ。
「あの時は、ありがとうございました」
いとは、ぺこりと頭を下げた。男は、家の中を見回し…なにかを、見て取った。
「よし。おじさんが、嘉助を墓場まで運んでいこう」
「えっ、いいんですか?」
背負う前に、男は友の死に顔をまじまじと見つめ、
「…こいつ、笑ってやがら。極楽行きの顔をしていらぁ。あっちで、今ごろ、かかあと一緒にきれいな音楽でも聴いているんだろう」
そんなことを、呟いた。そして、かつてしたように彼を背負い、
「…お前は、軽くなったな。こうなったのも、不思議な
悲しげに、言った。じっさい、嘉助の亡骸は、軽かった。虚ろな、ぞっとする軽さをしていた。
「さあ、出立だ。出立だ…」
自らを奮い立たせるように、そう言って表へ出たおじさんの後姿を眺め、いとは涙をぬぐった。
「おじさん」
「なんだ」
「ありがとう…」
「…よせやい。俺が、こうしたいのだ」
応じた声も、涙に湿っていた。
(※1) 『三人吉三』より。
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