第32話 出立(19)


 「俺はねえ…もう一人、謝らなければならないお方がいるんだ」

 そんないとの気持ちを知ってか知らずか、嘉助は続けた。

 「だあれ? お母さん?」

 「いやあ、お前のお母さんもだけれどさあ…俺は、お母さんが生きているうちに、なんども叱られ、そのたびに、なんども謝って許してもらったんだけれど、…お前、今さらになって、なんでそう思うんだ?」

 「なんとなく…」

 きまり悪そうに、いとは目線を泳がせた。

 「たしかに俺は、お前のお母さんには謝りっぱなしだったよ…でも、今ここで俺が言っているのは、上様のことさ」

 嘉助は、言った。

 「ふうん…」

 途端に、いとも声はつまらなさそうになった。あれだけ、父のことを重用してくれたのに、騒ぎになるとあっという間に上様は嘉助を捨てた。あれ以来、なんにもない。冷たいものだ。だから、いとは上様があまり好きではなかった。こんなふうに優しい口調で上様の話をする父を、

 ――とんでもないお人よしだ。

 と口惜しくてしょうがなかった。

 「あの御方はなぁ…お父上が、家臣に殺されたんだよ(※1)」

 「ふうん」

 「恐ろしい殺され方をしたんだ。騙し討ちにあったんだ。ひどいよな…」

 「ふうん」

 「お父上が、あんな亡くなり方をして、ちいさかった上様は、どんなに哀しくて、どんなに辛かったろう。なのに…あの御方は、人に、優しかったんだ。俺にもな。あんなに頭がいいのに、俺を馬鹿にしなかった…それどころか、俺を引き立ててくれた…だから、俺は、あの御方が認めてくれた自分の才能で、あの御方の憂鬱を取り去ってみたかった」

 「お父さんは、そんな心持ちでいたの…」

 「うん…」

 いとには、それが正しい行いなのかどうかさえ、わからなかった。下々の者が、あんな雲の上の御方に、そういう考えを持っていいのかさえ、わからなかった。ただ、病床にあって、生きる力が失われていくなかで、その力をふりしぼり、懸命に訥々とつとつ…その思いを語る父を見て、

 ――お父さんが、そう言うんだから、上様を悪く思うのはやめよう。

 いとは、父のために、そう思った。

 「でもねえ、これは俺のためでもあるんだ。挑戦だよ。もし、俺のつくった調べが、今も残る名曲を作った人たちと同じような域にたどり着いたら、…すごいことだぞ。もし、俺がほんとうに才能があるなら、できるはずなんだ。俺は、まだ会ってもいない、これからも会うことのない人の心に入り込んで、その心を動かすことができるんだ。俺みたいな悲しい心を抱えているやつの心まで癒すことができたら、…これは、すごいぞ。ほんものだ。そうだろう? 覚えているかい? 須極井寺すごいでらで、仏像を見せてもらったときのことを…」

 「ああ…あったね」

 あの時のことを思い出し、いとは微妙な顔をした。

 お寺の宝である阿弥陀如来像を見せてもらった時の嘉助の感動ときたら、ものだった。

 「あの像はねえ…今から、数百年も前に、できたものなんだよ」

 「そうだってね」

 「その長い長い間、いろんな人の心を、元気づけたり、心の傷を癒してきたり、…救ってきたりしたんだよ」

 「そうだね」

 「あの像を作った人は、きっと嬉しいだろう。俺は、俺が持ち合わせているかもしれないこの才能で、同じことをしてみたかった。まずは、上様をさぁ…平気なふりして心で泣いているあの御方の悲しみを、どうにかしたかった。俺は、あの御方を心から笑わせたかったんだ。それが出来てこそ楽師だと、思っていた。須極井寺で、俺が笛の音を奉納したときのこと、覚えているかい?」

 「覚えているよ」

 「みんな、笑っていたな。上様も、笑っていた…」

 「うん。そうだね」

 「でもねえ、花の御所ではね、上様は泣いていたよ…俺は、笑わせるどころか、泣かしちゃったんだよ。泣かせたまま、…それっきりだ」

 悲しそうに、寂しそうに、嘉助は言った。いとは、どう慰めたものか、考えあぐねた。

 「…上様は、ああいう御方だから、きっとお父さんの気持ちを、わかってくれているよ」

 これを聞いて、

 「そうだなあ」

 嘉助は、嬉しそうに小さく笑ったことだった。彼は、いとが上様の気持ちをわかるなんぞ思っていはしない。父親を気遣って懸命に言葉を選ぶ、娘の成長や優しさが嬉しかった。

 ――今日は、機嫌がいいらしい…今日こそは、あの問いに答えてくれるかもしれない。

 こう考えたいとは、

 「ねえ…お父さん。お父さんをこんなにしたのは、誰なの?」

 何度もした問いを、父にした。

 「…知らないよ。いきなり、後ろから殴られたんだ」

 これまた何度もしたように、空とぼけて嘉助は応じた。この男は、可愛くて綺麗な娘を復讐の鬼にしたくなかった。いとは今年で十四歳、年を越せば十五になる。彼に似ずに母に似たため、しっかりした子であったから、仇を知ればなにをするかわからなかった。それは、いとを危険にさらすことに他ならない…そして、嘉助には、もう彼女を守る力がない。

 「あ。何度も言うけれど…乙梨家に近づいちゃ、駄目だよ。お父さんの商売敵しょうばいがたきだからね。気を付けるに、こしたことはない」

 さきほどはしらばっくれたけれども、娘に魔の手がかかったら困るので、それだけはさりげなく釘を刺しておいた。こう言えば、いとは乙梨疎道から己を守ってくれるだろう。最近、嘉助はほんとうに忘れっぽくなっている。言いたいことは、忘れないうちに言わねば忘れてしまう。

 そんなわけで、『さりげなく』…そう思っているのは、嘉助当人だけだった。ちっとも、さりげなくなかった。

 ――ああ、乙梨ってやつがやったんだな。

 いとは、これまた何度もそう感づいたように、今回もそう思った。そうやって、なぜか下手人を隠そうとする父を、

 ――何故なの?

 心の中でなじった。今の嘉助を見たら、鬼でも涙を流すだろう。顔は青白く、死相がはや現れている。昔は誰もが目を瞠るほどの技の冴えを見せた指は、もう笛さえ握ることができない。飛べなくなった鳥は、あとは死ぬだけだ。いとは、父をこんなにしたやつを、ぼこぼこにしてやりたかった…彼女がしっかりしているからといって、親心のすべてのかたちなんぞ、己が親になってみなければ、わからない。

 「そういえば…あの日、お父さんを運んできてくれたあの人、誰なの?」

 再びぼうっとしはじめた嘉助は、これを聞いてにわかに眼に喜色を宿し、微笑んだ。

 「お父さんの、友だちだ。俺にも、ほんとうの友だちがいたんだよ」

 「どこの誰なの?」

 「誰だっていいよ、俺にとっては…あの男は、俺に暴力をふるわなかった。だましもしなかった――(※2)」

 嘉助の、嬉しそうに細められた眼から、…つうっと一縷いちるの涙がこぼれた。

 「…お父さん、悲しいの? なんで泣くの…」

 「うれしくて、泣いているんだよ。そんなことも、あるんだよ」

 「ふうん…」

 嘉助は、その謙虚のために、上様の涙のわけをついぞ理解が出来なかった。

 いとは、花の御所の、あの場に居合わせなかったために、理解が出来なかった。

 誰も、冷厳たる為政者の、心中の涙なんぞ気にかけない。ただ、恐れるだけだ。

 嘉助よ、――己の力で、気づけ。己のために、気づけ。

 


 


(※1) 足利義政の父・足利義教は、守護大名・赤松氏に討たれた。

(※2) このセリフで、酒吞童子のお話を題材にした歌舞伎を想起なさった方がいらしたら…筆者は、そうした佳い作品に感銘を受けた者です。歌舞伎って、面白いですね。奥が深くて深くて…底無し沼の、魅力の宝庫ですね。

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