第31話 出立(18)



 ――誰かを力づける、曲が作れたらなあ。

 嘉助がそう思い続けているのは、己がさまざまな音楽に力をもらったからだ。

 そうした曲は、大昔にできた曲なのに、今もしっかり、彼の心を慰めたり、力づけてくれる。

 心に悲しみのもやがかかった時には、彼は己のために長慶子ちょうげいしを吹く。

 一度ひとたび吹けば憂いを忘れ、再び吹けば時を忘れ、三度みたび吹けば、この曲が存在する世に生を受けたことを感謝する。

 そんな力が、音楽にはある。いや、音楽だけではない…美しいものには、その力がある。美しいものは、この世に存在するだけで、この世を照らす飾りとなる。

 嘉助の望みは、そうした曲を自分で作りだすことだ。この世のうつくしい彩りとなるような音楽を、一生のうちに、作りたい。

 ――あの月明かりのような、柔らかであたたかい旋律がいい。聴いてくれる人の心を希望に震わせるような曲ができたらなぁ。長慶子ちょうげいしのあの一節のきらめきのような調べが俺にも作れたら、どんなに素晴らしいだろう!

 もし、そんな偉業を、ほんとうに成しえたとしたら、嘉助はそれだけで有頂天となってしまうに違いなかった。嘉助は、いつもそんな作品を目指して曲を作っているが、その作品が、いつ生まれるのかさえ、当人には分からなかった。それが出来たとして…嘉助には、どれがそれなのか、きっとわからないだろう。そうした曲が後世に残るには、時間の淘汰に耐え抜くことが必要だ。それでも、良かった。

 己が、愛しい女と出会った世界だ。愛しい娘が生まれた世界だ。そんな憂き世と呼ばれるところに、感謝の思いを込めて、己が魂を込めた調べを響かせてみたい。そうしたら、いとの喜びが増えるかもしれない。他の人の喜びも、増えるかもしれない。この男は、お産で苦しむ細君の様子に耐えかねて、自分がただただおろおろしてばかりだったことを、きれいさっぱり忘れていた。腕の中で、ふにゃふにゃした、なんとも可愛らしい、ちっこいやわらかなという存在が、彼の人生すべてを幸せで満たしてくれたことしか、覚えていなかった。

 嘉助は、いとの生きるこの世に、

 「幸あれ。安らかであれ…」

 とこいねがう祝福の装置として、己が作品を残していきたかった。

 嘉助は、思い出す――須極井寺すごいでらで、拍手喝采を浴びたときのことを。みんなが笑って、愉快な心地で迦陵頻伽かりょうびんがを見上げ…あれほど、嘉助は己が誇らしかったことはない。なぜって、皆がにこにこと笑ったからだ。あの時ばかりは、厭な世の中が美しく思えたし、なにもかもが清らかに見えた。これほど面白いことはないくらいに、面白いことになったのだ。あの時に、嘉助は心の中で快哉かいさいを上げた。

 『ああ、ついにやったぞ! 俺にも、出来ることがあった! この世を、うつくしいに、染めたぞ‼︎』

 かつて、これほどな雄々しい歓喜を、嘉助は味わったことはなかった…

 

 「おとうさん、起きているの…」

 枕元で、いとにそう尋ねられて、ほんとうに現実に立ち戻り、

 「うん…」 

 嘉助は、力なく、そう答えた。

 「お水、飲む?」

 「うん」

 嘉助が働けなくなったので、青物屋をやっていたころの家財を売って、細々と暮らしている。

 嘉助の体が、

 『いつ良くなるのか、いつ良くなるのか…』

 父子二人で、そう念じて快方へ向かう日を待っているが、これだけ寝込んでいるのに、なぜだか体はしだいに動かなくなり…ただでさえぼうっとしているのに忘れっぽくなりと、どうやら悪いほうへ悪いほうへと、向かっていっている。

 「いと、ごめんよ。俺は、きっと死ぬよ」

 ついに、嘉助はそんなことを言い出した。

 「だめよ」

 即座に、いとはこれを否定した。

 「お前が駄目って言っても、駄目だよ…お前が、誰か似合いの立派な男と幸せになったいるところを見てから、死ぬつもりだったけれど…お前も年頃だ、そんな奴がいたら、今すぐ連れておいで。安心してくれよ、俺よりお前の方が、人を見る目があるんだ。お前が『この人』って言ったら、駄目だなんて言わないよ…『娘を、どうぞよろしくお願いします』って頭を下げるだけだよ…」

 嘉助の声に、力はなかった。

 「じゃあ、お父さんはまだ死ねないよ。私、そんな人いないもの」

 「死にたくないけど、死ぬんだよ」

 父親は、よわよわしく、小さく笑ったことだった。

 「ここで死んだら駄目よ。別れ別れになってしまうのよ。一人ぼっちじゃ、どこだってお父さんは迷子になるでしょ。あの世に行くのだって、道に迷っちゃうに違いないわ。お母さんに向こうで会えなくなるのよ。うんと長生きして、寂しがったお母さんに『いいかげんにこっちに来なさい』って迎えに来てもらわないと、極楽に行けないよ。今、逝ったら駄目じゃない」

 つとめて、なにげなく…他愛ない口調を作って、いとはそう言葉をしぼり出した。一生懸命に考えて、あほな話題を作り…心の中で、彼女は泣いていた。

 「ああ、俺はお前がいなくても駄目だけれど、お前のお母さんがいなくても駄目だ。だいじょうぶだよ。お前のお母さんは、しっかり俺のことを理解しているから、俺がくたばる時は、すぐに迎えに来てくれて『さあさあ、こっちですよ』って、手を引いて連れていってくれるよ…しあわせだ」

 「なんで?」

 「お前たちと出会えたからさ」

 「ふうん」

 「世の中が、それだけで、きれいに見える…だから」

 「だから?」

 「お前は生きて、きっと立派な人に出会って、幸せになってくれ」

 「ふうん」

 「しっかりした人だよ。俺より、うんとな」

 お父さん、それ、世の大多数の人よ。そのつっこみを、いとは口にはせぬ。

 「強くて、賢い人がいいな」

 「ふうん」

 「それで…この人に会ったら、って世界が綺麗に見えて、『これぞ私の英雄だ』って、お前が思う人だよ…お父さんに似てない人が、いいな。うん…、そういうやつが、英雄っていうんだ」

 「へええ」

 ――そんな人、いるかなあ。いたとして…私の周りには、そんな人、いない。

 いとは、すぐにそう結論付けた。

 「それでなあ、…お前を好きでいてくれる人だ。お前とその人とで、お互い白髪になるまで生きて、そのあとにお前が幸せなうちに亡くなって、お前を涙ながらに看取ったあとも、まだお前を好きな奴がいい。嫁さんの人生を、愛情で彩ってくれる人がいいな。そうすれば、お前は、ずっと独りぼっちにならずにすむよ。さびしいことなんて、一つもない。愛されたままだよ」

 お父さん、それ、お父さんにそっくりな人よ。そのつっこみを、やはりいとは口にせぬ。いつもの穏やかな表情の裏で、泣いていた。そんないとの心の声を知らず…嘉助は、

 「お前が病になったらこまるから、できることなら相手は医者がいい」

 とか、

 「お前が泣いてる時に現れて、泣かせたやつをぶっ飛ばす奴がいい」

 とか、さまざまな課題を能天気に好き放題に、まだ見ぬ婿殿むこどのに出していた。

 そうやって、この男が、ついぞ見ることがなかった富士の山と同じくらいの理想をあげたあと――

 「大事なお前を託すんだ。この子をよろしくお願いしますって頼める人だ…そんなやつを、いとは自分で探さなくてはいけないよ。ごめん。俺には、もうその時には生きていないんだよ。しっかり、そのかわいい両目を見開いて、探すんだよ」

 そう、残念そうに締めくくった。

 「お父さん…」

 ――そんなすごい奴、いないよ。

 いとは、そう思った。そして、そんな奴に娘の未来を託したがる父を、愛しいと思った。

 いとは、嘉助を父に持ったことで後悔したこと、数知れぬ。お母さんに苦労をさせて、見知らぬ人に馬鹿にされ、友に騙され、近所の大店の主人にみせ、先祖代々続いた店を失った父は、いろいろと反面教師にはなったが、見習ってはいけない人であった。

 ――でも、お父さんは、やっぱり私が大事なんだよ。

 それがわかったから、『お父さんが、お父さんで良かったな』とも思った。それで…良かった。

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