第30話 出立(17)

 

 嘉助という男を最も深く愛したのは、その二親と、嘉助の細君であったろう。

 嘉助という男の才能を最も深く愛したのは、足利義政であったろう。

 しかし、嘉助という男の才能を最も深く理解したのは…他の誰でもない。乙梨疎道おとなしそねみちであった。

 嘉助は、己を睨みつけるごろつきどもを見回し、吠えるがごとく、こう言った。

 「俺の音楽は、お前たちみたいに人を傷つける奴らに聴かせるためのものでもないぞ! 今の俺にはわかる。赤ん坊が『おぎゃあ』って泣いて生まれてくる理由が、わかる。ただでさえ、愛しいひとと別れなくちゃいけない苦しみがあるのに、お前らみたいなやつと出会う苦しみがあるのだもの。俺の音楽はなあ、そういう苦界くがいを、泣きたい思いを抱えながら歯を食いしばって、真面目に生きている皆のために聴いてほしくて作ったものだ!…だから、絶対に、絶対に、お前たちのためなんかに吹くものか‼」

 それをつまらなさそうに眺め、

 「…いいですかい?」

 ごろつきの頭目が、目配せで疎道に問いかけ…疎道は、頷いた。

 「笛だけは、吹けるようにしておけよ」

 嘉助は、まだなにか吠えている――きっと、彼はなにかを覚悟している。

 「いいぞ。もう、ぶちのめせ。殺さねえようになあ。腕と頭は、やるなよ」

 途端、力任せの蹴りが、嘉助の腹に入った。

 一騎当一未満の嘉助は、防ぐ暇もすべもなくこれをまともに食らい、顔を苦痛に歪めてうずくまった。

 鈍い、いやな音が、何度も何度も静寂を引き裂いた。

 「やい…そろそろになったかね?」

 頭目は、尋ねた。

 地面に転がって、ぶざまにへたっている嘉助は、半死半生の態だ。それでも言いたいことがあるのか、土埃にまみれながら、息も絶え絶えに、

 「乙梨…お前、誰かを愛したことがあるかっ。ないだろう! あったら、こんな恥ずかしい、その人に、顔向けできないようなことをことはできないはずだ。さびしい、さもしいやつ…」

 こう言った。

 疎道は、これを聞くとさっと血相を変え、手にした杖で、したたかに嘉助の頬を殴りつけたことだった。

 一度では、このこみ上げてくる憤激にはもの足りなかったようだ。二度、三度…

 それを冷たく笑いながら見つめ、

 「いけませんよ、乙梨様…それでは、打ちどころが悪くて、死んでしまいますぜ。笛が吹けるどころじゃなくなりまさぁ」

 ごろつきどもの頭は、愉快そうに笑ったことだった。彼にとっては、素人の暴力なんぞ、児戯じぎに等しかった。彼にしてみれば、『都で評判の偉い笛の先生が、嫉妬のあまりに同業者を手にかける』…その茶番のほうが、うんと面白かったのである。

 やがて、ひときわ大きな打撃の音が響いた。

 その結果を眺め、呆れかえったような声を作り、頭目はこう言った。

 「あああ、やっちまった…素人さんは、これだから…」

 秋を迎えた京の、まだうだるように蒸し暑いなか、一陣の風が、蕭々しょうしょうと吹いた。

 すべてを見ていた竹の群れが、しのび泣くようにさわさわと音を立てている。

 「が、あの曲を知っていて良かったねえ…まかせてくださいよ。俺の弟が、表向きは商人をやっているんです。あいつも引き込めば、都の人たちにに、万事うまくいきまさあ。銭さえいただければねえ」

 頭目が発したその言葉を、風がどこぞへ運んでいった。

 

 夕方の頃であった。

 戸を叩く音に、いとは気付いた。

 「おとうさん?」

 父の帰りが遅いので、家でやきもきしていたは、てっきり父だと思って戸を開けた。

 すると――知らない男が立っていた。虎髭での、見るからに恐ろしい様子の男だ。

 「どなたです?」

 そう尋ねるいとの声が、震えた。

 男は、誰かをおぶっているようであった。それが誰なのか、いとの今いる角度では、わからない。

 「俺か。俺は、嘉助のともだちだ」

 答える声まで、太く大きく恐ろしい声であった。

 「お前さんは、嘉助の娘さんだね?」

 「はい」

 男の外見にびびりながら、いとはおずおずと答えた。

 「お前さん、お父さんの看病ができるかい?」

 「えええっ」

 男は、すこし身をひねって、おぶっている人物をいとに見せた。

 誰かに殴られたか蹴られたかした様子の嘉助が、死んだように目を瞑っていた。

 「あ…」

 父の変わり果てた様子を見て、ふらりと気を失いかけたいとを、がっしと片手で支えた男は、もう片方の手で嘉助をおぶったままだ。

 そうして男はぎょろっとした眼で、この小さなあばら家で一番寝心地がよさそうなところを探し、むしろをみとめると、嘉助をそうっとおろした。

 「俺が出来るのは、ここまでだ」

 気を取り直したいとが、なにがあったのか聞く暇もなく、男はさっさと出ていった。声をかけようと表を見ても、どこへ消えたか、姿ももう見えない。

 せっかく父を連れてきてくれたのに、いとは、この男に御礼を言う暇もなかった。言っていいかもわからなかった。第一、この男が嘉助を襲ったやつかもしれないのだ。

 それでも、この男の存在は、

 「誰だろう…」

 いとの記憶に引っかかったままとなった。


 これは、夢か…うつつか。

 ああ、これはうつつだ。遥か昔の、己の若いに、じっさいにあったことだ。

 家を閉め出されて、いくあてもなくぷらぷら歩いている。空を見上げれば、月が出ている。こっちが歩けば向こうも動き、こっちが止まれば向こうも止まる。

 「なんだい、お前も独りぼっちかい。寂しい同士、一緒に行こうか」

 そうなった。ちょっと歩き…振り返る。月が、煌々とこちらを照らしている。月のやつが、にこと微笑んだ心地がする。だんだん愉快な、ほっこりとした心地となってくる。

 ――俺には、まだ月っていう仲間がいる。けして俺を見捨てないやつだ。ああやって、いつも穏やかな笑顔で、俺を照らしてくれる。どうだい、嬉しいねえ。

 今までそうだったんだ。これから何年経ったって、そうだろうよ。

 この月は、大昔に、あの源博雅様だって仰いだだろう。あんなすごいお人に会えたなんて、いいなぁ。嘉助は、そう無邪気に思った。

 きっと、ほかの、嘉助には難しくて名前がわからないし、わかったとしても覚えきれない昔の偉い人たちも、凡人も、愚者も見た月だろう。嘉助は、男の子が好きそうな源平の合戦の話や、今の幕府が生まれたころの戦の話に、とんと興味を示さない子供であった。そういう英雄譚に出てくる人たちは、男にしろ、女にしろ、

 「俺とは別の世界の人だよ…会ったら、『なんだ、お前は! 雑兵にもならんぞ、この日陰のきゅうりは!』って、ぶっ飛ばされそうだし。こわいなあ」

 そんな認識しか、持たなかった。そんな、英雄豪傑たちも、戦に飽いた人々も見ただろう。いろんなところで悪口を叩いたり、嘲笑ったりして、互いに足を引っ張りあっていた人間も見ていただろう。泣いているやつも、俺みたいな、家からはじき出された寂しいやつも、月よ、お前に慰められただろう。

 日月は、気も遠くなるような歳月も違えずに天の道を巡り、星辰せいしんは四季を刻んでいく。鳥獣ちょうじゅうはその去来きょらいで人に時の移り変わりを伝え、山河はその雄久で生命の儚さを人に教えていた。

 それらは、みな、美しい調和を見せていた。嘉助は、その調和を愛していた。だから、嘉助は、この憂き世を愛していた。

 ――これからどんな世の中が来たって、そうに違いない。そうしたものは、美しいままさ。けれど、つまらないな。皆、、命あるものは、さよならの時が来たら、死んだな。限りある時間しか持たないっていうのに、人はいがみあったり、傷つけあったりするんだよ。愛しあったり、仲良しであるばかりじゃないんだよ。これからどんな世の中が来たって、そうに違いない。月よ、お前、知っているか。この阿呆どもを乗せた船は、時の流れを下って、どこへ行くのか。

 そう思い至って、嘉助は鼻の奥がとなった。この広い世界、悠久の時の流れのなかで、俺はなにができるだろう。

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