第27話 出立(15)
「お引き取りください」
嘉助は、ぺこりと深く頭を下げた。
「なんだと?」
「ほら、大の男が、こうして頭を下げているんです。あなたのさっきの仰りようでは、こうやって世の中は回っていくのでしたね?」
らしくもなく決然とした嘉助の言葉に、大店の主は、さきほど己がなにを言ったかを思い出し、
「生意気な‼」
顔を朱に染めて、怒鳴った。
「私が生意気と言うなら、あなたは何です? 私の親でも友達でもないくせに、『だからお前は駄目なのだ』と頭ごなしに私を決めつけるあなたは?…ときたま、あなたみたいなのが、この世の中にいる。私が
「…」
「もう、いいでしょう? 私は、あなたみたいな
大店の主は、かっと目を見開いて嘉助を睨みつけた。奥歯をもの凄い力で噛みしめ、右手で
そのぎょろっとした眼が、ふと、別の視線を感じ…そちらを見た。
いとが、
「…ふん!」
大店の主は、口惜しげに鼻を鳴らした。
目の前で親父がぶん殴られたら、いとは泣くだろう。彼女はきれいな若い娘だから、美しいしぐさで、しくしくと泣くだろう。きれいな若い娘が人前で泣いたら、どうする? 周りに人が集まって、
「誰が泣かした?」
という話となるだろう…泣かしたやつを、人々はどんな眼で見るだろう。
「なにがあった?」
そう問われ…いとは、いま見たことを、みんなに言うかもしれぬ。それでは、困るのだ。
「お前…この私に向かって、なんという口のききようだ。もう、ここでやっていけると思うなよ」
大店の主はそう言い捨てると、肩を怒らせたまま出ていった。
外で、なにかもの凄い音がした。嘉助のかわりに、外にたまたま出してあった
「…もう、元々ここにはいられないし、いたくもないよ」
駆け寄ったいとを抱きしめ、嘉助はそう呟いた。
そんなわけで、
嘉助は、いとに言わせると、
「ひょろりとした、うまく育たなかった大根みたいなひと…」
であった。色白で中肉中背の、どこかたよりない嘉助にぴったりなたとえだ。そんな嘉助が力仕事までやっていた。そのためか、だんだん彼の体は、
「腰が、痛い。腕が、痛い…」
慣れないことをしすぎて、あちらこちらにがたがきていた。
とらが、何事もなかったかのようにふらりとまた現れたのは、こちらへ越してふた月か
「探したわよ、兄さん。お店がなくなっていたから、びっくりしたわ。心配で心配で、ずいぶんと探したのよ…やっぱり、私がいないと兄さんはだめね」
人が好さそうな笑みをにっこり浮かべて、とらはするりと家に入ってきた。いとはこの時、ひどくぞっとしたことを覚えている。
「元気そうだな」
「ええ。おかげさまで」
「家族のみんなは元気かい?」
「元気にしていますとも」
「旦那さんの、お姉さんは?」
「…え?」
とらは、小首を傾げた。
「病気になった、姉さんだよ」
これに彼女は目を泳がせ…、
「…ああ、ああ、元気にしていますとも」
取り繕うように、またにっこりと笑ったことだった。
「それは、よかった…あのさぁ、親父が昔、大事にしていた壺があったろう」
「え? 壺? そんなもの、あったかしら…あったかもしれないわねえ」
「あったよ。親父が大切にしてた…あの壺が、いくら探しても見つからなかったんだ。ばあやが、お前が持っていったって言ってたんだけれど」
「知らないわ。なんてこと言うばばあかしら。失礼しちゃう! で、今、あの婆さんはどこにいるの?」
「そのあと、使いに行ったっきり、帰ってこないよ。ずいぶん探したんだけどねえ」
嘉助は、『あのばあや、急病で倒れていたらどうしよう』という顔をした。そんな兄に向って、とらは、
「なら、婆さんが盗んだに決まってるじゃないの! 間抜けねえ、兄さん。そんなだから、使用人に騙されてばかりなのよ」
白々しく、そう𠮟りつけた。壺のありかは、もちろん彼女が知っている。『悪銭身に付かず』で、壺の中身は、夫と息子とともに、あっという間に使い果たしてしまった。壺のほうは、中身が空になったときに腹立ちまぎれに叩き割って、…今もどこかに転がったままだろう。
「そうか…」
「こっちは、とんだとばっちりだわ。あんな婆さんの言葉を信じて、妹の私を疑うなんて、…ひどいわ」
情なさそうな表情を作った妹に、
「ごめんよ」
嘉助は肩を落とし、そうしょげかえった。
「まったく…やっぱり、兄さんは駄目ねえ。兄さんには私がついていなきゃ。私はいつだって、いろんな人の役に立っているんですからね」
とらは、ふふんと誰かを小馬鹿にしたように笑った。そしてとらのくせに猫撫で声で、
「ねえ兄さん。もうこれでわかったでしょう。これからはもう、お利口にならなきゃ。ここいらで、みんなに『もう俺はこんなに反省してます』ってところを見せなくちゃ。それをいちばんわかってもらえるのはねえ、あの乙梨様に頭を下げて、あの大失敗の曲を聴いてもらって、『どこが悪かったのか、教えてください』ってお願いしてみるのよ。あの人、気難しい感じがするけど、いい人よ」
そう言った。
「なんだ、お前までそんなこと言うのか」
「え?」
「ほかの人にも、言われた」
「そうでしょうとも…ほら、みんな兄さんのことを思ってそう言っているのよ。私が、まず乙梨様のところに行って、兄さんが謝りたいってこと話してくるから。兄さんが乙梨様のところに行くときは、私もついていってあげる。だから怖くないから。わかったわね? じゃあ行ってくるから」
言いたいことだけ言って、独り決めをして腰を上げた妹を、
「待て」
嘉助は、声を荒げて呼び止めた。
「よせ。俺は絶対に行かない。お前、『嘘を言った』と恥をかくことになるぞ」
「…なんですって」
「絶対に行かないと言っているんだ。お前、また恥をかきたいのか?」
「んもう! 私は兄さんのために骨を折るって言っているのに、なんだっていうのよ!」
とらは、とつぜん声を荒げた。もの凄い豹変であった。いとはすっかりびびって固まったが、嘉助は妹のこんなところを前にも見たことがあるのか、冷たい一瞥をくれてやるばかりであった。
「謝りに行きなさいっ」
「嫌だ!」
するとこれなる般若は角を隠し、今度はしんみりと、
「兄さん、娘のことが可愛くないの? こんなくさい、じめじめしたところで暮らして、いとちゃんを可哀そうとは思わないの? 可愛い姪がこんな暮らしをしているのを見ると、叔母さんは辛くて辛くて…」
こう情に訴え始めた。なんだかだしに使われそうなので、いとはおずおずと、
「あの…私、べつにここでの暮らし、嫌じゃありません…」
そう言ってみた。すると叔母は、
「おだまりっ!」
また豹変し、『可愛い姪』を怒鳴りつけた。
「…とにかく、俺は行かないから。もう放っておいてくれ」
らしくもなく、また頑固な表情となった嘉助は、そう言い放った。
「ふんっ! どうなっても、知らないからね」
とらは、鼻息荒く出ていった。
外で、なにかもの凄い音がした。いとが顔を出してみると、いとが外にたまたま出しておいた桶に、叔母さんが足をとられて転んでいた。手のひらを
――よくやった、私。
そう心の中でいとが呟いたのは、いとだけの秘密だ。
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