第28話 出立(16)

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この回は、『出立(13)』と関連する記述があります。『出立(13)・改』を読んでくださった方は、『出立(16)・改』をお読みください。よろしくお願いいたします。

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 それからしばらくしてのことである。

 「嘉助さんだね?」

 仕事の帰り道、近道をしようと人気ひとけのない寺院の裏を歩いていると、嘉助は見知らぬ男に声をかけられた。

 男は、かすかに笑みを浮かべていた。他人を軽蔑しきった、うすら笑いのようにも見えた。その眼は、たしかに嘉助を見ているのだが、瞳の奥には暗くて冷たい感情しかうかがいしることはできなかった。

 なにか胡散臭うさんくさいかんじがして、

 「違います」

 嘉助は、そう応じた。少しは、世間知せけんちのついた嘉助であった。

 「おいおい、しらばっくれちゃあ困るな。あんたは有名人だよ。須極井寺すごいでらのことがあったろう。花の御所でも、なにかやらかしたというじゃねえか。俺はお前さんのつらを、ちゃあんと知っているよ」

 にたりと笑って、男はそう告げたことだった。

 嘉助は、走りだした。その足を引っかけられて、つんのめり、地面にしたたか顔を打った。あまりの痛さにその場に座り込み、顔を押さえていると、周りに何人もの強そうな男どもが現れた。

 それに混じって、知った顔もある。

 乙梨疎道おとなしそねみちが、陰惨な顔つきでこちらに近づいてくる。


 ――俺もずいぶん変わったろうが、も、ずいぶん変わったな。

 ひさしぶりに疎道の姿を見て、嘉助が抱いた印象が、これであった。

 あんなに、おどろおどろしい様子の男だっただろうか? 昔はぴりぴりしていて、うっかり足でも踏もうものなら、青筋立てて怒鳴りつけられそうであったが、今は、しょっちゅうと奥歯を噛みしめて生きていそうな面構えだ。その暗い表情の、落ちくぼんだ眼ばかりが、ぎょろりと異様な光を放っていた。

 ――いやだなあ、こいつ。なにがあったんだろう。

 嘉助は、思った。

 ――なんて暗くて、おそろしい顔だ。

 疎道の手に握りしめられている杖の先に、一瞬、血の朱が見えた心地がして、嘉助は目を瞬かせた。

 彼がそうしている間に、強そうな男どもの中から中年の恰幅のよい男が現れて、

 「嘉助さん、辛かったねえ。お前さん、あれだけ名を上げたんだ。の喝采を浴びて、さぞや気分が良かったろう。こちらは、そんなお前さんが、今ではこんな有様をしているのが、かわいそうでかわいそうで見ていられないのだよ。わかるだろう? 元の華やかな世界に戻りたくはないかね?…お前さんさえ、と言えば、すぐにだって戻してやろうじゃないか」

 猫撫で声で、こう告げた。この男は、どもの頭目なのだろう。いくら嘉助でもわかる。

 それにしても、およそ友好的とは言えない雰囲気の中でのことだ。嘉助は、小首を傾げざるを得なかった。それへ、

 「…そのためにはなあ、嘉助さん。世間様に対して謝るってのが必要だ。いいかい? あんたのことを思って、こっちは言うんだよ。元通りになりたいなら、さっさと笛の世界じゃ一番の、この乙梨様に『さわぎを起こしてすみませんでした』と頭を下げて、許してもらわなきゃあ…その姿を世間様に見てもらって、はじめて元通りに皆の前で笛が吹けるってもんだ。この世の中にはなぁ、『長いものには巻かれろ』っていう、ありがたい言葉があるんだ。人の世を生きてゆくためには、ぜったいに必要なことだよ。そうやって乙梨様に謝って、許してもらったらよぉ、どうだい…なんてったって、お前さんの曲を『亡国の音だ』とみごと言い当てた御方が許すとあっちゃあ、世間だって『ああ、もう嘉助の笛は聴いても大丈夫だ』となるだろうさ。ああ、そうだ、忘れちゃあいけねえ。あの曲を、ぜひとも乙梨様に聴いていただかなくてはいけないよ。なんてったって、のもとになった曲だ。どこが悪いのかを知っておかなければ、お前さんだって、これから笛を吹くのに困るだろう」

 優しい声で、頭目は言った。

 「謝れ、と? 俺が謝るのか?」

 嘉助の声が、硬くなった。

 「そうとも」

 頭目は、にんまりと作り笑いを浮かべている。

 「…こいつに聴かせるために、あの曲をまた吹けだと?」

 そう言って、嘉助は乙梨疎道にむかって顎をしゃくってみせた。

 「そうともさ…おいおい、お前さんよ、天下の乙梨様に向かって、ってのは、いくらなんでも失礼だろう。口のききかたってのを知らねえようだな。だから上様の前で、『亡国の音』なんざ吹くことになったのだ。だから皆、怒っているのだよ」

 すると嘉助は、また頑なな顔となって、

 「ふん。さっきから『皆、皆』っていうけれどなあ、お前たちの言う『皆』は、つまりは『お前たち』のことでしかないんだ。俺が知っている『皆』という言葉は、もっともっと広い意味の、優しい響きをしている」

 そんなことを、呟くように言った。

 「…わけのわからないことを言っているんじゃねえ」

 苛ついた声音となった頭目に向かって、

 「俺は吹かないぞ。ぜったいに、吹くものか。天地がひっくり返ったって、嫌だ!」

 嘉助は、傲然――突っぱねた。

 「…なんだと? おめえ、これだけの数の野郎どもに囲まれているって、わかって言っているのか!」

 俄かに頭目は本性をあらわして、こう凄んだことだった。嘉助は、今、目を怒らせてこちらを睨みつけている男どもを一瞥した。彼が腕に覚えがあれば、みんなしまっただろう。足が速ければ、全力で逃げ去っただろう。しかし、嘉助は『うまく育たなかった大根みたいなひと』である。一騎当千という言葉があるが、嘉助は一騎当一未満だ。腕力なんぞ並の男以下だし、走ればそこらの幼児のほうがよっぽど速い。逃げられなかった。

 それでも、嘉助は頑なであった。

 「あれは、死んだ俺の妻に聴かせるために作った曲だ。今は亡い人を思い続ける、俺と同じような境遇の人たちにも聴いてほしくて作った曲だぞ。死んだ愛しい人が恋しくて、生きることが苦しくて苦しくてしかたのない…それでも、どんなに辛くても雄々しく生きていく、じつはそこらじゅうにいるすごい人たちの力にしてほしくて作った曲だ。そんな、精魂を込めた作品を侮辱した男に、なんで俺が謝らなければならないのだ! だいたい…そんなにあの曲をけなすなら、本来、二度とあの曲を聴きたくもないだろう。違うかっ」

 そう告げて、嘉助の口元が、不意にもなく皮肉に歪んだ。

 「…そういえば、昔、俺の作った曲をちょっとだけ変えて、自分の曲だと触れ回っていた楽師がいたぞ。俺が吹いた曲を、何日も経ってから、別の楽師が『これは自分が作りました』って、でたらめを言って吹きやがった…それで曲はやつのものさ。一度っきりしか聴いていない旋律なんて、ふつうの人間は、すぐ忘れてしまうからな。乙梨疎道っ、お前も、それが狙いか!」

 嘉助も、人の子だ。伊達や酔狂で、人に騙されまくっていたわけではない。騙され騙され、少しずつ…かつて騙された、その手口はうすぼんやりと理解している。そして、『もう、二度と騙されるもんか』と心に固く誓っている。そうやっても、また違う手口で騙され続けてきた嘉助には、さまざまな『もう、二度と騙されるもんか』の経験だけが山のごとくに積み重なっていた。

 ついに、そのみたいな薄汚れた経験が、大輪の名花となって花開く奇跡の瞬間がやってきた。

 図星を突かれて、乙梨疎道は口を醜く歪ませた。それへ、

 「乙梨っ、俺と女房とのきれいな思い出に、よくも泥を塗ったな! このうすぎたない、蛆虫め! 死んだ女房がいとしくて黄泉路よみじを歩いていった俺に、きたないものを見せるなっ」

 嘉助は、この時ばかりは雄々しく、そう叫んだ。

 



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