第26話 出立(14)
あの後、嘉助はどうしたのか――
家に帰る途中にある小さな橋の上に立って、眼下に流れる川のきらきらした水面を、思いつめた眼差しで見つめていた。
――もう、だめだ。何もかもが、だめだ。そうとは知らなかったとはいえ、『亡国の音』を聴かせてしまうなど、上様に申し訳のないことをしてしまった。この上は、しょうがない…どぼんとここから飛び降りて、嫁さんのところに行きたいな。
そうは思ったものの、このまま向こうへ行ったが最後、
「このばかっ、いとをどうしてくれる。いとを独りぼっちにするとは、なんてことをしてくれた」
と、――その嫁さんに叱られ、しばき倒された挙句に殺されそうな、嫌な予感がしたのであった。
その予感たるや、
「今朝、東の空から昇った朝日は、夕方になったら夕日となって西へと沈むことだろう。間違いないっ!」
そう、はっきり言いきれるのと同じぐらいの確かさで当たる心地がするのだ。
「『死んでから、あの世でまた殺される』って、そんな馬鹿なことがあるか」
という世間の常識よりも、
――いとをおいて向こうへ行ったら、今度こそ、かみさんに叱られる…怖いよう。
という恐怖のほうが勝った嘉助であった。死よりも、これから己にふりかかるであろう生きるがゆえの困難よりも、かみさんの
ただでさえ、「これから𠮟られるだろうな」という予感がしなくても、さまざまな人から𠮟られることの多かった嘉助だ。もう𠮟られるのは嫌だったから、ほんとうにばかなことをするのを、やめることにした。
川面から顔を上げて、家を目指して去っていく嘉助の姿を見て、通りがかりの人々は、がっかりしたり、ほっとしたりしていたが、嘉助の細君はあの世できっと、
「よく踏みとどまってくれた」
と褒めてくれていただろう。
どんくさい嘉助でも、それだけは、なんとなくわかる。
あんなに期待させられた挙句に、『亡国の音』を聴かされた公卿・藤原某は、よほど立腹していたのだろう。今も残る彼の日記『少右記』(※1)で、彼はその日に花の御所であった事件をこと細かに記しているが、嘉助については、
『嘉助の如きは、天下懈怠の
そう酷評している(※2)。
『天下懈怠の白物』たる嘉助が、もしすべてを知ったら…、藤原某の意図に反して、
「うわあ、あの御方と同じことを言われたぞ! なんと光栄なことだろう。うれしいな」
そう喜んだことだろう。
家に帰ると、嘉助はさっそくとらに、
「おかげで恥をかいた。どうしてくれる」
と詰られた。彼女は、兄の名誉を己が名誉のように思うべく、
「私は嘉助の妹です」
鼻高々に下人に言って、花の御所に、蛇のごとくにするりと入れてもらっていたのである。そして兄の失態で赤っ恥をかいた彼女は、こんどは脱兎となって逃げ帰ったわけだ。今は、とらだけに、猛虎となって嘉助を怒鳴りつけている。かつて、都の辰巳にしかぞすむ(※3)御方がいたが、彼女にあの歌の作者の風流なんぞわかるものか。『ここがいちばん私の利益になるところ!』とわかった場所には、どこにだって転がり込むことだろう。
「お兄さんは、私がいなくても、もう大丈夫ね? さっき知らせがあってねえ、うちの人のいちばん上のお姉さんが、病気にかかって、あぶないというの。私ぐらいしか看病が出来る人がいないというし、心配だから、そっちに行くわね…お兄さんの次は、
そう白々しく嘘を言い捨てて、とらは、さっさと己が家族を連れて出て行った。
『うちの人のいちばん上のお姉さん』が、数年前にとうに亡くなっていることは彼等だけの秘密だ。
出ていく際に、以前から狙っていた金目のものをしっかりと頂戴したことも、彼等だけの秘密だ。
「静かになったなあ。こんなにうちって広かったかなあ」
売る物もなく、人もいなくなった我が家を眺めて、しみじみと嘉助はそう言った。
奉公人は、すでにほとんどが辞めている。嘉助の青物屋に残されたのは、身寄りのない、先代の時からいるお婆さんと、嘉助と、いとのみであった。
「金に換えられそうなものが、消えてしまいましたよ。先代が大切にしていた壺、あれは売れると思いましたがねえ…妹さんとともに、消えてしまいましたよ」
お婆さんは、口惜しそうに言った。嘉助の父が、生前、息子のためにその壺にたくさんの小金を貯めこんで、固く封をし、
「困ったときには、これを開けてごらん」
そう嘉助に何度も言い聞かせていたのを、彼女は立ち聞きして知っていた。他にも知っているやつがいて先を越されたことに、まだ婆さんは腹を立てていた。
「あの壺、大事にするように親父に言われていたんだけどな。ないかい?」
「ありませんよ」
「そうか…」
そうぽつりと呟く嘉助を、いまいましそうにお婆さんは睨みつけたことだった。やがてお婆さんも、ふらりと出て行ったきり、いなくなった。
こうして親子二人で何日か、
「これからどうしよう…」
そう途方に暮れていると、
「やあ、どうしているかい? 心配で様子を見にきたよ」
戸口で声がする。
この辺りで力のある、
「すっかり、さっぱりとしたねえ。でも、嘉助さんや娘さんが元気でなによりだ」
すってんてんの店の中を見回し、大店の主はそう言った。
これから先のことで悩み苦しみ、銭の工面もある。心配で食べ物も喉を通らぬ…そんな嘉助親子が、ほんとうに元気そうに見えたかは、謎だ。おそらく、何も見ていなかったのだろう。
「嘉助さん、あのねえ…これから、お前さんの耳に痛いことを言うけれど、こちらはお前さんのことを思って言うのだよ。だから、怒らないでおくれよ」
大店の主は、しんみりした口調で、こう切り出した。
「はい」
「今回の『亡国の音』の騒ぎで、都中が怒っているんだ。偉い人から、我々下々まで、かんかんだよ」
「はい…はからずも、とんでもないことをしでかして、まことに申し訳なく思っております」
ぺこりと嘉助は頭を下げた。
「うん。上様には、きちんと謝ったのかね?」
「はい。謝りました」
「そうかい。上様以外の方々には、きちんと謝ったかい?」
「えっ?」
嘉助は、訊き返した。
「『えっ?』って、お前さん、そんなだから駄目なんだよ…私は、お前さんのために考えたのだがねえ、どうだろう。お前さん、乙梨様にもきちんと『どうも申し訳ございませんでした』とそう謝って、あの御方の前でもう一回あの曲を吹いてみて、どこが悪かったのか教えを乞うたらどうかね?」
「ええっ?」
その意図をはかりかねて、嘉助はまじまじと大店の主の顔を見つめた。
「芸事の世界で、あの博識な乙梨様に逆らえる者なんか、いはしないんだよ…だから、こちらからしおらしく乙梨様に、『ごめんなさい』と頭を下げるんだ。なあに、向こうからまた何か言われないうちに、こちらから頭を下げてしまえばいいんだ。そうしたら、向こうが怒った顔も見ずにすむというものだよ。それで、『どこが悪かったのでしょう? 直しますからご教授ください』とくれば、お前さん…乙梨様だって、世間だって、『しょうのないやつだなあ。許してやるか』と、こう来るさ。そうやって世間は回っていくものではないかね? ここいらでお前さんも大人にならなくちゃあ」
大店の主は、滔々と自説をぶって、嘉助の顔を眺め…思わず
「馬鹿を言うのも
普段のふにゃりと気の抜けた表情はない。嘉助は歯をむき出し、恐ろしい顔で彼を怒鳴りつけた。
(※1) 架空の書物です。
(※2) 平安時代、藤原実資は日記『小右記』で、源博雅のことを『天下懈怠の
(※3) 百人一首にある、『我が庵は都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり』喜撰法師
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