第23話 出立(12)


 しかし、疎道はうろたえはしなかった。

 「おそれながら、上様…師曠しこうに諫められた衛の霊公は、すぐさま淫靡いんびの曲をやめさせたということです」

 と、激しく高じた感情をすぐにひた隠し、恭しい様子で言った。このようにすることが己の身を守ることだと、彼は長年の経験で知っていた。

 「…」

 義政は、憎々しげに疎道を睨みつけるのみだ。それへ、

 「『靡々びびの楽』、『新声百里』…桑間濮上そうかんぼくじょうの音は、そのような曲名があったとか。新しい音楽などは、耳に新しく、美しく聴こえるものです。嘉助とやらが、新しい声でいくら鳴いたとて…所詮、亡国の音です。今はもう、取るに足るものではないと、英邁な上様ならば、そうお分かりいただけたものと存じます。害こそあれ、用いるものではないのです。上様へそのような調べを聴かせて惑わせようとするなど、嘉助の罪は万死に値します。重ねて申し上げます。もう、奸者をお側に近づけるのは、お控えください。上様のため、幕府のため、民の安らかなるために、この乙梨疎道、死を賭して御諫めいたしまする」

 疎道は、更にこう言って、頭を再び下げた。

 時の権力者に命を賭して諫言する忠義の人、これにあり――そのように、傍からは見えた。それへ向かって、義政は底冷えのするような声で、

 「ほほう。面白いことを言う…思い出すなあ。『なにごとも、もっともらしくするのがよい』と、お前は存じておるのだろう。皆の前で罪なき者を貶めることも、時の将軍を口先三寸で丸め込むのも、聖人の面を被ってすれば万事うまくいくとなあ」

 「…」

 の人は、黙り込んだ。

 その場に侍していた義政の近習どもは、思わず互いに目交ぜをしあった。彼等でさえ、これほどまでに怒った主を見たことはない…顔を青ざめさせている者があるのは、

 義政は続けて…

 「昔なあ、予が幼いころ、まつりごとに口出ししてくる大人どもが、お前の今しているようなつらで、お前と同じような口をきいたものよ。そやつらの眼にはな、『まだ幼い上様じゃ。口先で、いくらでも丸め込められる』と、そう書いてあってのう」

 「…」

 「あの時に、予も、一人か二人ばかり、殺しておけばよかった。気に入らぬことがあれば、たやすく人を殺しておけば良かった。そうすれば、今のような耳を洗いたくなるような言葉を、予はまた聞かずにすんだやもしれぬ。覚えておるか? 父上がおられた頃…、父上の前では、誰もその不興を買う真似はしなかった(※1)。小賢しい者どもは利口ゆえ、『他山の石』という言葉をよく存じておるからのう」

 こう告げて――陰に籠った声で、からからと、笑ったことだった。

 疎道の肩が、震えた。今度は、怒りにではない。怯えからだ。この若い権力者の父の近くでは人が命を落とすことがあったのだと、疎道は今更ながらに思い出したのである。今では、その権力の座に、疎道を激しく叱責する男が座っている…

 それへ、

 「お前ほどの者が、あの曲の真の姿に気づかず、ああまで『新しい音楽』『桑間濮上の音』と、そう言い立てるのはなぜか…予に、そう印象づけたいからか。予も見くびられた者よ。『所詮、三十路にも満たぬ青二才の将軍だ、どうとでも言いくるめられる…』と、たかをくくったか。浅慮なやつめ!」

 義政は、大喝した。その上で、

 「さきほどの嘉助の曲は、新しいものにお前には聴こえたか」

 こう問うた。

 「…」

 「あれの、どこが新しい音楽か?」

 「…」

 「無学の徒、他人を妬む奸者なれば、あの調べを『新しい音楽だ』とでも言うやもしれぬな」

 しんとして…誰も音を立てぬ。皆もまた、を思い出して、体を固くして縮こまっている…疎道も、何も言わぬ。音さえ立てぬ。ただ、頭を下げるのみだ。その隠れた表情がどれほど苦しみと憎しみに歪んでいるか…それは、誰にもわからない。義政は、蛙のように這いつくばった疎道へ、

 「音楽を少しでも愛する者なれば、あの調べの奥底に、平安の華やかなる頃に人びとの心を酔わせた調べと同じ息吹を感じることができる。その上で、あの調べには、まごうことなき嘉助の音がある。古の伝統を守りながら今を語る、世に讃えられるべき曲だ! 嘉助の曲は、おそろしいほどに巧みな構想をもって曲を組み立てながら、その意匠のあとすら感じさせぬ、見事というより他にないものだ。嘉助のあの才能はどこから生じたものか…神がかった才だ。あの当時の優れた楽人が、じかに奴に教えを垂れたかのような域だ。どこがお前の言うような音楽であるというのだ!」

 こう告げる義政の声は、もはや抑えきれない憤怒に満ちている。

 「疎道よ。たとえ、京の都の人々の口に、『乙梨疎道が朱雀門の下で笛を吹いたところ、古の源博雅と笛を交わしたという、あの鬼が現れた』と、そう噂が上って…予が信じると思うか?」

 こんどは嘲弄ちょうろうを含んだ声で、なぶるように問うた。

 「…」

 疎道は、答えなかった。

 「予は、人をやってお前当人がそういう噂を流していると思う。余人が信じるかどうかは、わからぬ。先ほどのお前の言葉を、たやすく信じた馬鹿者どもだ。信じる者も多かろう…しかし、予は、騙されずにそう思う」

 「…」

 「お前は、その域に達していないのだ。それを予は、知っている。お前も、己がその域にたどり着けぬことをわかっている…疎道どうだ? そうであろう。天下の乙梨疎道が、さぞや口惜しいであろうな?…だから、お前は妬んだ。嘉助を、潰してやろうと思った。これまで、予は、嘉助と乙梨疎道のどちらが優れておるか、わからなかった。しかし、今の予にはわかる。お前の負けだ、疎道。お前が嘉助に『負けた』とそう思った時に、そう決した。お前が勝手に勝負を始めて、お前が勝手に負けたのだ。れ者め」

 義政は、言いきった。

 今や、疎道の体は、屈辱にと震えていた。

 この青二才の上様は、すべてわかっている。

 疎道が、嘉助の音楽に打ちのめされて『負けた』と思ったことも…疎道が、音楽についての己が知識を悪用し、先ほどは嘉助へ『亡国の音』を奏でる者という偽の評価を与えて、これを失脚に追い込んだことも…今もまた上様を言いくるめようとしたことも、わかっている。

 ――何故、わかったのか? 

 疎道は、そう己の理性に問いかけ…、

 ――上様が、美しいものを理解する力と知識を持っているからだ。

 と、答えを見つけて、打ちのめされた。

 その耳に、

 「乙梨疎道、音楽の道の権威を得て、世間を睥睨する疎道とやらが、若い予にも、音楽の知識をもとにした策略で負けたなあ…ハハハ」

 音を聴くためにしつらえられた空間に、こんどは嘲笑が響いた。言葉が人を完膚なきまでに打ちのめすことができる…それをわかっている人間の武器が、響いた。己を『青二才の将軍』と先ほど表現した義政は、なるほど、まだ若かった。二十代も半ばの頃である(※2)。ために、怒りのままに投げかける言葉は情け容赦も、遠慮もなかった。

 もし、疎道が平伏していなかったら…そこにいた人々は、人間の顔面がどれほど激しい憤怒と劣等感を表現できるかを知ったことだろう。

 義政は、そんな彼を睨みつけながら、どこか悲しさを含んだ声で、

 「世に、『天に二日なし』と言う言葉があるが、お前たちのような者どもでも

なのか…美しいものを扱う人々にも、このことわりどおりとなるのか。確かに予がどうかしていた。あまりに予は、人を知らなんだ。お前と言う男の心根を、読み違えたのだからな…」

 呟くように、言った。

 

 

(※1) 足利義政の父…足利義教。苛烈な気性で知られた。

(※2) ですから、このエピソードは長禄の頃のことです。

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