第22話 出立(11)


 「嘉助が、新しく作った曲を、上様の前で演奏するそうな…」

 「わざわざ乙梨の当主を呼んだのだ。なにかすごいことが起こるぞ」

 この知らせは、誰もが隠す意図を持たなかったから、あっという間に広がった。噂を聞きつけて、都の貴紳が、急な話にもかかわらず、

 「こんな見ものを見逃してはならぬ」

 と、とるものとりあえず…我も我もと花の御所(※1)へつめかけたから、たまらない。門前には、人垣ができるほどとなった。

 義政にしても、『こうしたことも、のうち…』と心がけているから、来たものを拒まなかった。

 かくして――花の御所は、にわかに、まるで祝祭が始まるかのようなようすとなった。

 春も終わりの頃であった。庭園に植えられた色とりどりの花々は、それぞれがけんを競うがごとく華やかである。そこに集う人々の顔もまた、期待にほころんでいた。

 しつらえられた舞台を前に、皆、

 『須極井寺すごいでらのことがある。こんどは、迦陵頻伽かりょうびんが以上の吉瑞が現れるやもしれぬぞ』

 と、色めき立っている。

 彼等は皆、今からすでに、ここに来られなかった者たちに、あとで存分に羨ましがられる心積もりでいる…口に出さずとも、彼等の顔にそう書いてある。

 

 嘉助は、いつになく張りつめた面持ちで現れた。

 ――こやつが、こんな顔をするのは、須極井寺以来だな。

 義政は、内心、ほっとした。こちらが想像していたよりも、元気そうだ。きちんとものは食べているようだ。どこか、表情に暗さがあるのは、細君が亡くなったのだから無理もない。噂では、

 『寝食も忘れて、音楽を作ることに打ち込んでいる…』

 というから、もっと様子で現れるような気がしたのである。

 深々とお辞儀をすると、嘉助は笛にひたと唇を寄せた。



 陰々――

 その調べは、冒頭部分、幽明ゆうめいの境から響いてくるような、物悲しいようすから始まった。

 しかし、冷たくはない。絶妙なる変化を繰り返して、寄せては返し、寄せては返す旋律には、清らかな真心を感じることができる。

 それは、生きる者の、死者への哀惜かもしれぬ。

 死んだ者の、遺してきた者への愛の言葉かもしれぬ。

 愛する者が眠る奥津城おくつき(※2)の前に立てば、その場の土にも、

 『いとしいひとが寒く思わないように、あたたかい温もりがあればいい…』

 遺された者が、そうこいねがうかのような真情を調べとしたかに思える。

 死者が、遺してきた者へ、幸せを望んで静かに呟く祈りの声とも聴こえる。

 ほら…いま、響き渡ったぞ!

 光明だ!

 今の柔らかな音色を聴いたか。これこそは、救いの音だ。

 人の、生まれてから死ぬまでのうちに起こったすべてのことを受け入れ、

 『けっきょくは、この世にあるものは、なにもかもが素晴らしい…』

 と語りかけている。そんな、あたたかさがある…


 ――ああ。終わらないでほしい。永遠に、この調べのなかで、遊びたい。

 義政は、思った。

 この音楽を作った者は、愛を知る者だ。

 悩める衆生に、救いをもたらす者だ。

 音楽の精髄に達した者だ。

 ――嘉助は、ついにを作り出したのだ。

 それが、義政にはわかった。その目には、うっすらと涙が光っていた。今、彼は、の誕生を見たのだ。

 それは、この足利義政にとって、まごうことなき法悦と言ってよかった。


 

 曲が終わり、再び嘉助が深々と頭を下げたとき、居合わせた者共はみな、と静まり返った。

 やがて、

 「見事…ついに、大仕事をしてのけたな」

 感じ入ったように、義政は告げた。

 その言葉に、感極まって嘉助ははらはらと涙を流し、

 「私は無学のゆえに、この調べになんと名をつけたものか、わかりませぬ。どうか、上様に、この曲に名前をつけていただけたらと、伏してお願い申し上げます」

 そう言って、頭を下げた。

 「予が、名をつけるのか」

 嬉しそうに、義政は声を弾ませた。

 「そうしていただければ、望外の喜びです」

 もう一回、嘉助は頭をぺこりと下げた。これが、嘉助の、義政に対する精一杯の恩返しであるらしかった。

 「ううむ…――」

 義政は沈思し、やがてひらめいた妙案に、と膝を打った。

 「よし、決したぞ。その曲の名は――」

 なにかを言おうとした義政を、

 「お待ちくださいっ! その曲は不吉です! 亡国の調べですぞ。このような曲をありがたがってはなりませぬ。国が亡ぶきっかけともなりましょうぞ!」

 鋭く制止した者がいる。

 乙梨疎道であった。

 「かつて、殷の紂王を惑わせた音楽は、このような調べであったと、私は聞いたことがあります。殷の滅亡後、その調べを作った者は川へ身を投げたそうですが、その場を通りかかった者は、どこからともなく響きわたるあやしい音色を聴き、これを『桑間濮上そうかんぼくじょうの音』(※3)と恐れたそうです。『礼記』に、『桑間濮上の音は亡国の音である』と言うではありませんか。不吉きわまりない淫靡いんびの調べに、耳を傾けてはなりませぬ!」

 これを聞いて、一同は水を打ったように興が醒め…嘉助は、みるみるうちに顔を苦悩に歪ませた。その姿へ、疎道は、

 「上様を惑わせようとする、不届き者め! 去れ、去れっ! ここは、お前のような外道がいてよいところではないぞ!」

 こう責め立てた。

 やがて…先ほどとは見る影もなくなった嘉助は、先ほどの清らかな感動とは別の理由で流れた涙で、ぐちゃぐちゃの面となり、

 「まことに…まことに、申し訳なく…」

 そう平伏すると、よろめきながらその場を辞していった。

 あとで義政の聞いたところによれば、目は虚ろで、思いつめた面持ちで歩いていったという。

 「あいつも身を投げるのではないか」

 悄然とした嘉助の後ろ姿に、人々はそう囁きあったそうだ。

 

 「耳を洗いたいな。桑間濮上の音を聴いたのだぞ。あんなことを知っているとは、さすがは乙梨家の当主じゃ」

 「まことに」 

 「我等に、わざわいが来なければよいが」

 「これで、嘉助とやらも終わったのう」

 さきほど我先にとつめかけた人々は、こんどは思い思いにこう囁きあって、面持ちで帰っていった。

 散会となった席には、もはや、義政とその近侍、去ろうとするところを義政に呼び止められた乙梨疎道ぐらいしか、いない。

 傾きかけた春の日差しが、鬱々うつうつとした者たちの表情へ、深い影を落としていた。

 「…桑間濮上の音とでも、言ったか」

 「左様にございます」

 義政の言葉に、落ち着き払って、疎道は応じた。

 「殷の紂王が滅んで、今年で何年になるか?」

 「は…?」

 問いの意味をはかりかねて、疎道は首を傾げた。それへ、

 「遥か昔に忌み嫌われた亡国の音が、どうやってこの日本へ伝えられたというのか…虚言を申すのも、ほどほどにせよ」

 こう向けられた義政の声は、厳しい打擲ちょうちゃくとも思えた。

 疎道は、これを耐えるがごとく、平身低頭し、

 「…存じていたとしか、申せませぬ。この道の至芸は、清濁併せ吞むものでございます。古の禁じられた調べを、あってはならぬものと申し上げるには、それを存じていなければならぬのです」

 そのさまは、身分の高い者の平安無事を願って、勘気を被っても、敢えて耳に痛いことを奏上し続ける、至誠の人のようにさえ、見えた。

 「で、あろうな…。お前は、さぞひどい水を呑んできたのであろう。ものを見る目、音を聞く耳が腐りはてたのは、そのためであろう」

 侮蔑を隠さない義政の物言いに、さすがの疎道も、むっとしたらしい。一瞬、すさまじい、剝き出しの怒りをその顔に表した。絵具を塗りこめて美々しく整えたかのような至誠の面が、剥げおちた。

 「わたくしは、かつて亡国の音をありがたがっていた衛の霊公を諫めた、師曠しこう(※4)のひそみに倣ったにすぎませぬ。どうか、言いにくいことを敢えてお諫めした赤心をご覧じてください」

 こう告げる、疎道の声がぶるぶると怒りに震えている…

 「ふむ。お前のようなやつは、大したものだ。嘉助の名を汚し、嘉助の作った曲を汚し、いにしえの師曠の名をあげて、これも汚すか。見境もあったものではない…嫉妬とは、おそろしい化け物に人を変えるのう」

 義政は、『この温厚篤実なる男がこんな顔をするか』と、近侍どもが驚くような、冷たく厳しい表情を浮かべていた。そして、その言葉は、一つ一つが、鋭い匕首であるかのように疎道を襲うのだった。

 

 


(※1) 花の御所…足利将軍家の邸宅。

(※2) 奥津城…墓のこと。

(※3) 桑間濮上そうかんぼくじょうの音…昔、中国・殷の紂王に仕えた師延という楽師が、淫靡な曲を作って、紂王に献じた。紂王は暴政を敷いたので亡ぼされ、師延は川へ身を投げたという。その後、師延落命の地では、彼の作った調べが聴こえるようになり、これをさして人々は「亡国の音だ」と恐れたという。

(※4) 師曠しこう…昔、中国の衛の霊公が、濮水のほとりで桑間濮上の音を聴き、そうとは知らずにこれを好むところとなった。人に写し取らせたこの曲を、ありがたがって霊公が演奏させたところ、師曠という博識な楽師が、「これは亡国の音です」と言って、やめさせたという。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る