第21話 出立(10)

 かくのごとく、義政と嘉助は、があった。

 いつしか、嘉助の名は、

 『当代一の笛の名手』

 と持て囃されるようになっていた。都ではこれまで、笛の名人といえば、長きにわたって『乙梨おとなし家の一門の者…』と相場が決まっていたが、朱雀門の鬼も聞き惚れたという嘉助の笛の前では、彼らも顔色無しとなった。

 ついに嘉助は、かの須極井寺すごいでら落慶の折に、義政の命によってその笛の音を奉納するまでとなった。

 「笛の音に皆が聞き惚れていると、にわかに五色の雲がたなびいて迦陵頻伽かりょうびんが(※1)が現れた…」

 という。この吉瑞に、都の人々の熱狂はいかばかりであったか…当時の貴族の日記には、その仔細が記されている(※2)。

 「おとうさんは、やったぞ」

 嘉助は、愛娘のいとの頭を優しく撫でた。いとが細君のお腹にいるときは、つわりに苦しむ細君を見ておろおろし、いとが生まれた際にも、苦しがる細君を見て、やっぱりおろおろするしかなかった嘉助も、いとが数え年で十もすぎた今では、とうとう、しっかりの顔となっていた。

 「おとうさんは、やったのかあ。すごいなあ」

 頭を撫でられて、いとは子供心に素直にそう思った。まわりの人も、

 「嘉助はすごいやつだ」

 「たいしたものだ」

 そう言っていたから、『やっぱりたいしたものなのだろう』と、いとも思った。

 「よかった、よかった」

 嘉助の成功を誰より喜んだのは、この世の中では、細君に違いなかった。彼の両親は、すでにこの世になかったのである。

 「嘉助には、さんざん苦労してきた親御さんだったから、きっとあの世で二人とも、泣いて喜んでいることだろう。見せてやりたかったなあ」

 昔を知る人々は、そう言いあっていた。

 嘉助の幸せに影がさすのは、それからしばらくしてのことである。細君が過労で倒れ、あっという間に帰らぬ人となったのだった。なにしろ、嘉助は笛のことしかやらない男である。嘉助が負うべき家業の青物屋のことも、家族の世話も、なにからなにまで、

 「嘉助さんじゃ駄目だ。私がやる」

 とこなしてきた細君だったから、無理がたたったのだ。

 嘉助は、泣いた。見かねた親戚が、

 「男が、そんなに泣くものではない」

 とたしなめても泣いた。

 そして、その悲しみから、嘉助は音楽を作り出すことに没頭した。これが、この男のさがであった。

 もしかしたら、細君が愛した己が芸の生粋をもって、細君の霊を慰めたかったのかもしれぬ。

 もしかしたら、その音楽が、黄泉よみの国にまで鳴り響いて、「お前を愛している」という思いを、あの耳に届けてくれたら、と…そう願ったのやもしれぬ。

 ほんとうは、その音楽で、己が慰められたかったのやもしれぬ。

 細君がいなくなった青物屋は、早々に経営が立ち行かなくなり、嘉助の妹とその夫が、落ち目は変わらなかった。


 嘉助の妹は、名をといった。赤ん坊のころは弱弱しくて可愛かった彼女に、

 「この子は、こんなに可愛くて可愛くてしょうがない子だから、悪い虫がついたら大変だ。よし、ここはひとつ、おそろしげな名をつけて悪い虫を遠ざけてやるっ」

 父親がこのような無用の気遣いを見せ、「とら」と名付けたのであった。そんなとらは、幼い頃から頼りなかった兄を、

 「私のほうが、できる子なんだから」

 そう意地悪く横目に見て、

 「兄さんには、商売なんてできっこない。お店は私がお婿さんをもらって継ぐ!」  独り決めにそう決めて生きてきた女であった。かといって、商売のなんぞ、まったく学ぶ気配はない。あれほど心をこめて名を付けた父親には気の毒なことだが、顔だけは良くて、酒と女にだらしないみたいな男が、

 「そのうち、お店は私のものだ」

 という彼女の言葉を信じて、その良人におさまっている。こんな夫婦が、店の手伝いをしているのだ。

 「嘉助んとこの妹夫婦は、『店を手伝う』とか言って、店の銭で物見遊山をして遊んで暮らしているんだものな。ありゃあ、だめだよ」

 近所の者たちは訳知り顔で囁きあい、関わり合いになるのはごめんなので、嘉助に注意をするでもなく、遠巻きにして見ている。

 「嘉助のやつは、商売付き合いで、えらい人を怒らせてしまったそうな…」

 そんな噂が立つと、誰も嘉助の青物屋に近づかなくなった。

 そのうち…、とらとその家族は『店だけでなく、実家も手伝うため』と、当たり前のように嘉助の家へ転がり込んだ。

 このときにやって来た、彼らの一人息子が、親を見習っての悪童であった。こやつは、いとより二つ年上であったが、

 「笛なんて、ちょっと練習しさえすれば、すぐにおじさんぐらいには吹けるようになるだろう」

 軽い気持ちで嘉助に笛を習ってはみたものの、彼がちょっと厳しく教えただけでぷいっと拗ねて練習を投げだしてしまった。かと思えば、外で吹けもしない笛を吹く真似をして、

 「俺はおじさんに目をかけられて、笛を教わっている。上様にもおぼえがめでたいのだ」

 とを言い、女をひっかけては遊んでまわる始末であった。

 「あいつはなぜか、銭を持っているぞ」

 なまじ、母親が甘やかして身の丈以上の小遣いを渡すから、いけない。悪いやつに目をつけられ、賭博でちょっと美味い汁を味わわせてもらったあとは、向こうが負けてやったとも知らず、己が母から銭をせびり取っては、

 「今度こそは、この前みたいにが来るっ」

 と…悪い奴らのにされる始末だ。

 「ちょっと餌を与えただけで、食いついてくる。そこいらの川の魚よりも阿呆なやつだ」

 己が悪友たちが、かげで己をそんなふうに嘲笑っていることを、当の本人は知らぬ。

 そんなが、綺麗なに色目をつかいはじめたから、いととしては、たまったものではなかった。気味悪がって、こやつから逃げ回ってばかりいる。己が家なのに、いとにはそこに安らぎなんぞ、なかった。


 目の前のさまざまな凋落の兆しも知らず、嘉助は再び悪い友達や妹夫婦に騙されたり、利用されたりして身代をすり減らしながらも、ついにを完成させた。

 なにしろ、作った己で、「いちばんの出来だ」という曲だ。

 嘉助としては、

 「いちばんの理解者である上様に、いちばんはじめに聴いていただきたい…」

 そう願うのも、もっともなことであった。そう願い出た嘉助に、義政も、

 「それは楽しみなことだ」

 と応じたものだから、すぐに願いは叶うこととなった。

 嘉助が、柄にもなく張り切っている。義政は、

 「嘉助がなにか、また素晴らしいことをしそうだぞ」

 と、乙梨家の当主・疎道そねみちを呼びにやって、

 「ともに聴いてみようか…」

 ということになった。このときの義政には、親切心しかなかった。

 乙梨疎道おとなしそねみちは、四十がらみの男である。乙梨家の当主であり、「当世一の笛の名手」といえば、今もなお、この人のことを指した。その疎道が、嘉助の笛を聴いて、

 「大したものだ」

 と太鼓判を押せば、嘉助に箔がつくというものだし、疎道が嘉助の笛を聴けば、

 「音楽は、こうしたかたちもある…」

 と、活眼のきっかけとなる。義政は、こう考えたのである。

 義政は、日ごろから『乙梨の宗家』という重圧に苦しんで、形式ばった四角四面の袋小路に自ら迷い込んでいるかのように見える疎道を、

 「己の良さに気づかぬやつ…」

 と見ていた。幼い頃から、『乙梨の宗家を継ぐ者』として、音楽の道を無理やり進まされたという彼の苦労を、義政は察することができた。一つの芸を極めるには、他の者には想像もできないような鍛錬が必要であったろう。それをなした疎道は、それだけで誇ってもいいようなものなのに、疎道に、そんなようすは見えない。彼は、他人にも、己にも、厳しい。理想の音楽を求めすぎて、凝り固まって、自らを苦しめているように見えるのだ。

 ――じゅうぶん大した男なのに、残念なことだ。あれでは、心がいかれてしまうぞ。

 疎道のさまは、

 「将軍家に生まれた己には、出来ぬことのほうが多いではないか…」

 という、己の若かりし頃の煩悶と、どこか似ている心地がした。用意された型に嵌められ、抜け出せぬ人生の苦しさを、義政はいたいほどよくわかったのである。

 ――疎道も、あとで共に酒を呑み、音楽を語り合えば楽しいやつかもしれぬ。友達のいなそうなやつだ。皆でわいわいやれば、あやつも楽しいやもしれぬ…

 義政は、嘉助の演奏の後には、疎道の正確無比の笛のわざを褒めて互いに引き合わせ、

 「天下に二日あり。共に高めあったがよいぞ」

 となどと言って、

 「もうすでに、この道の重鎮となったお前だ。少しは、乙梨のためでなく、己のためにも生きてはどうか。ともに語らって余生を楽しもう。第一、そのほうが気が楽になるぞ」

 と、いうような温かい言葉を疎道にかけたい。それができたらお互い愉快だろう――これが、義政の思うところであったのだ。




(※1) 迦陵頻伽かりょうびんが…想像上の生き物。

(※2) 須極井寺から、貴族の日記にかけての記述は、お察しの通り、ギャグです。


 おかげさまで、第20話となりました。読者の方々、★や♥で応援してくださった方々や、フォローやコメントをくださった方々、どうもありがとうございます。大変うれしく、書く励みになっております。深く御礼申し上げます。

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