第20話 出立(9)


 足利義政――

 政治家として…というよりは、芸術においての功績において名をなしたこの将軍は、音楽についても鋭い感性を持っていた。また、

 「朱雀門の鬼と出会ってしまったが、それに気づかずに楽しく笛を演奏してました。えへへ」

 などと浮世離れした嘉助の佇まいは、権謀渦巻く世の中に辟易へきえきしていた義政にとって、

 「なんともおもしろい、捨て置けぬやつ…」

 一種の、救いとなっていた。

 義政の周りの人間は、己のために人を蹴倒して生きているような連中ばかりであった。嘉助のように、人に蹴倒されても、

 「えっ、なあに?」

 と、しているような男はまれであった。

 義政は、気づいていたのやもしれぬ。なぜ嘉助が、人に蹴倒されても平然とできたのか…その狂気に、気づいていたのやもしれぬ。

 『この世』という言葉が、『人の世』と同義ならば、嘉助の心は、この世になかった。

 嘉助という男は、人として暮らしていく悲喜こもごもに価値を見出さない。

 「俺は人に認められた」

 という満足を味わうよりも、

 「俺の音楽が、人に認められた」

 というほうに大いなる満足を覚える――そんな男だ。

 嘉助にとっては、音楽という名の夢の中で遊ぶことが、至上の喜びであり、生きる理由であった。

 その狂気を、足利義政は理解できた。彼もまた、嘉助と似たり寄ったりの性質であったからである。

 「こやつには、俺がついていないと駄目だ…」

 保護者のそれである。細君が嘉助を見るときと、ほぼ同じだ。なるほど、人の上に立つべく生まれ育った御方は、人の気性を見抜く目を持っていた。

 嘉助と己の差を、

 ――接する世界の、広いか、狭いか…そんなところだろう。

 義政は、そう思っていた。彼は政治家であった。ために、

 『芸術を通して、民を慰撫する』

 『芸術を利用して人心を服従せしめ、諸侯や民を治めやすくする』

 そういった視点がある。しかし、青物屋のせがれに生まれた嘉助には、その視点がない。己の芸術のみを見据え、つきつめるという、純粋で危うい冒険しかない――義政は、立場上、この危ういことが、出来ない。世の人が言うところの、『愚者』になりきれない。『芸術は、政治の駒のひとつである』という、旧来から世にある、政治家の手法を捨てきれない。

 ――ああ、うらやましい男だ…

 義政の、嘉助を見る眼差しはあたたかかった。己に出来ないことを、この男はしている。権力のある己には、を庇護することが、できる。

 そうやって、が後世に名を遺すような素晴らしい結果を出したとき…、義政は、我がことのように喜べる。

 それこそが、義政のような男の、これ以上ないほどに贅沢な愉しみだ。

 ――嘉助の音楽の素晴らしい価値を、この世でいちばん理解できるのは、まちがいなく俺だろう…

 その無邪気な自信が、義政にはあるのだ。

 ――嘉助は、これから、になっていくだろう。どんな調べを作ってゆくのか…

 それを想像するたび、義政は、楽しみで楽しみで、頬がゆるむのだった。

 そして、この期待は、ある出来事があってからというもの、ますます強くなってゆくのだった。

 そして、残念なことに、

 「こやつには、俺がついていないと駄目だ…」

 という思いも、共に強くなっていったのである。


 己が周りの人間に、もしも、

 「朱雀門の鬼と出会ったことがある…」

 という者がいたなら、きっと誰もが、

 ――ぜひとも、その時の話を聞いてみよう。

 そう思うのが人情である。

 足利義政も、例外ではなかった。

 「お前は以前、朱雀門の鬼と出会ったそうだな。どのようなでそうなったのか」

 或る日、わくわくしながら嘉助に尋ねてみた。

 「それは…恥ずかしながら…」

 ――まず父親に家からたたき出されたところから話さねばなるまい。いやだなあ。穴があったら入りたいよ。

 嘉助は、もじもじしながら、ことの顛末を語って聞かせた。

 「――なるほど。お前の笛の師匠とやらは、お前に名を名乗らなかったのか」

 深い感慨に浸りながら、しみじみと義政は尋ねた。

 「はい」

 「しかし、鬼は、その者を存じていたのか」

 「はい」

 「『葉二はふたつ』がどこにあるのか…お前に聞いてきたのか」

 それは、『嘉助が謎の師匠の正体をほんとうに気づいていないか』ということに関しての、最後の確認であった。

 家に入ってきた盗賊の心を笛の妙なる調べで改心させたという逸話は、源博雅みなもとのひろまさのものである。

 嘉助という当代きっての名人が、長慶子ちょうけいしを吹いた夜に現れた人物と、かつて朱雀門の鬼がその笛の音に魅せられた人物は…鬼が、何かを察して笑ったからには、どう考えても同一人物だろう。

 「はい。なぜ私のような者にそれを尋ねたのか、今もって皆目わかりません」

 大真面目に、嘉助は答えた。これが、なにかしらのとどめとなった。

 ――ああ…駄目だ。それは、もう、おまえのようなには、わからぬだろうよ。

 内心、義政は唸った。

 ――どうしてお前が気づかぬ。じっさいに、に接して、なぜわからぬのだ。

 そのくせ、嘉助はの作った曲を、

 「いちばん、…そう、この世でいちばん、大好きですな」

 と、無邪気に言って、ぴっこらぴっこら吹いて、喜んでいる。

 ――か。

 そうなった。

 「それは、お前の笛が師匠のそれとよく似ていたからだろう。『その音を出すほどの弟子ならば、秘蔵の『葉二』のありかも知っているだろう』となあ…」

 こう言えば、どんくさいにもわかるのではないか、と思い、義政は親切心からそう言ってみた。

 「そういうことでしたか。ようやく腑に落ちました。ありがとうございます」

 「…いや、良いかな

 駄目だった。

 「…じつは、もう一つ、私にはせぬことがあるのです」

 義政のにおわせた真実にも気づかず、彼の失望にも気づかず、のほほんと嘉助は彼なりの深刻そうな顔をした。

 「ほほう」

 「鬼が、『なぜ俺に話しかけてきたのか』と、そう言うので、『こんな寂しい夜は、おばけや幽霊が出そうだから、こわいからだ』と、そう申しましたら、さんざん笑われまして…」

 もうこらえきれず、ぷっと義政は吹きだした。鬼も人間も、嘉助の前では同じ真似をした。

 「すると、『もう会っているやもしれぬぞ。前には幽霊に会ったかもしれず、此度はお化けに会ったかもしれぬ…』鬼はそう言っていたのです。なるほど、お化けというのは、鬼自身のことでありましょう。しかし、私はその前に幽霊と会った覚えはありません」

 「…ほほう」

 義政は、なんともいえぬ表情を浮かべた。本当はあの鬼のごとくに大笑いがしたいのだが、それはあまりに嘉助に気の毒な気がする。結果、猛烈なる笑いの発作を抑えているがゆえの腹痛に、義政は耐えている。この上様は、繊細な、優しい心の持ち主なのだろう。

 「ただでさえ、私は肝が小さいのです。あれはどういうことなんだろう、と、びくびくしてしまいまして…」

 再びの笑いの発作に見事絶えた義政は、並の男ではない。あの朱雀門の鬼と同じように、

 「嘘をつけ」

 と言いたい本心をぐっと堪えて、

 「きっと鬼のことだから、ちょっとお前のことを脅かそうと思っただけであろう。安心せい」

 そう太鼓判を押した。ここで言う『安心せい』とは、

 『お前なら、鬼に会っても幽霊に会っても、わからないから安心せい』

 の意味である。

 ――かつて、嘉助に朱雀門の不思議な声の正体を鬼であると指摘した人物は、源博雅のことまでは思い至らなかったのだろうな。

 義政は、そう思った。まずその笛の音で源博雅の霊を呼び覚ましてその教えにあずかり、次に朱雀門の鬼と出会った呑気な男は、

 「ははあ。上様が仰ると、大丈夫な心地がしてきました。ありがとうございます」

 ありがたそうに、ぺこりと頭を下げた。

 「うむ。良い哉」

 そう応じながら、義政は別のことを思っていた。

 ――だめだ、この嘉助という男は…俺がついてないと、駄目だ。

 そうなった。

 以後、何度か、

 ――嘉助に、教えてやろうか。お前の謎の師匠が、お前の大好きなあの調べの作者であるにちがいないと。嘉助のやつは、どんなにか喜ぶだろう…

 そう思ったこともあったが、

 ――いやいや。いかん。鬼に会ったと、あとで知って、あんなにぷるぷるふるえていた男だ。こやつのことだから、『お前は、幽霊にも会っている…』なんぞと教えたが最後、えらく頓死とんしするやもしれん…そんなこと、できるか…いや、できぬ…できるものか…

 やはり上様は、繊細な、優しい心の持ち主なのだった。

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