第19話 出立(8)
楼上の声は、
「…その男は、お前に名を名乗っておらぬのだな」
感慨深い様子で、言った。
「はい。お聞きしたかったのですが、あの御方があまりに熱心に笛を教えてくださるので、お話の腰を折るのも
「あやつは、よく盗人に気づけたな」
「はい。その御方が床下から笛をお吹きになると…、盗人は、しばしのあいだ、その音色に聴き入って、盗みをやめて去っていったのだということです(※1)。盗人の心を変えることが笛の音にできるだなんて、素晴らしいですね。人の心を洗う調べというのは、ほんとうに、この世にあるものなのですね…そんな笛を吹くあの御方の名を、是非とも知りたいと思っているのですが、悲しいことに訊けませんでした」
「…聞いても、その男は名乗るまいよ」
「なぜ、そうお思いですか」
「それが、
声は、言いきった。
「粋、ですか」
「そうだ」
「もしや、あなたは、その御方をよく御存知なのですか?」
そう尋ねる嘉助の声は、喜色に満ちていた。
「知っているといって、なあ…今夜、おまえと共に吹いたように、俺もそやつとは、笛を吹いたきりよ。そのときは、言葉さえ、交わさなかった。言葉なんぞ、邪魔なくらいだった。
「寂しかったからです。今夜は、月の光もたよりない。ましてやこの時刻は、草も、木も、眠っているかのようです。まるでおばけや幽霊が出そうじゃないですか」
嘉助は大真面目にそう言った。すると楼上の御仁は、こらえきれぬというように笑い出し、
「もう会っているやもしれぬぞ。前には幽霊に会ったかもしれず、此度はお化けに会ったかもしれぬ…」
そう言って、また朗らかに大笑いをした。
「いやだなあ。脅かさないでくださいよ…ただでさえ、私は肝が小さいのです」
「まことか」
「はい。それはもう。困ったものです。持って生まれた性分ですから、どうしようもありません」
「嘘をつけ」
楼上の声は、またひとしきり、
『ただただ、おかしいから笑う』
そんな笑い方であったが、さすがに面白くなくなった嘉助は、
「申し訳ありませんが、さすがに、もう吹けませぬ。ここに伺えば、またお会いできますか」
そう、問うた。
「うむ。ここに住んでいるからな」
「ではまた、お会いできるといいですな」
嘉助はぺこりと頭を下げた。それへ、
「…小僧、お前は笛の楽しみを愛するか」
どこか慈愛を含んだ声で、楼上の御仁は問うた。
「はい」
「ならば、大切にするのだな」
「はい」
もう一回、頭を下げて、嘉助はその場を後にした。
――もう少し、話がしたかったけれど、ああまで笑われちゃあ、なあ…恥ずかしくて、いられないよ。
そんなことを、嘉助はひとりごちた。
家に帰ると、父も母も、まだ起きていた。
嘉助は、こんどは母親に怒られることとなった。
「なんですぐにお父さんに頭を下げて、『これからは心を入れ替えますから』と言わないのっ」
哀れなる母は、そう言って、泣きに泣いた。
「叱るためにこんなことをしたのに、あんまり帰ってこないものだから、お父さんも私もおまえが心配になって生きた心地もしない。私たちが罰を受けてるみたいじゃないの…ほんとうにおまえは叱りがいのない男だねえ」
ずいぶんと気の抜けた怒りかたとなったが、いくらどんくさい嘉助にも、なにかしらの感情は通じた。
「ごめんなさい。悪かったよ…」
さすがに、嘉助は申し訳なく思った。そして父親には、
「これからは、気を付けます」
そう頭を下げて許してもらい、親に心配をかけぬよう、以前よりは家業を手伝った。
なにしろ、嘉助は可愛い跡取り息子だ。
「うん。どうも心を入れ替えて頑張る気になったようだな。えらい、えらい」
ついつい二親は、また彼を許してしまった。
しかし、嘉助は口には出さぬものの…、
――笛は、ぜったいに辞めない。辞められっこない。
その思いも、強固であった。
さて、しばらく経ったある日のこと、
「この前、また親父にこっぴどく叱られてさあ…そうそう、朱雀門で、こんなことがあったんだよ」
朱雀門での不思議な話を知人にしたところ、この知人は嘉助と違って察しのよい人物であったから、
「お前が会ったのは、その昔、
「えええっ」
そういうことになった。
源博雅は、平安時代に活躍した笛の名手だが、この朱雀門で笛を吹いていたろところ、鬼と出会い、笛を交換したという。このときの笛は、
『
そう名付けられたという。葉が二つ、ついていたからだ。
「あわわ…どうしよう」
嘉助は、にわかに恐ろしくなった。
――ああ。そうだ。あれは、朱雀門の鬼だ。鬼であったのだ。
嘉助はどんくさかったが、繊細な
いとの父は、こういうのんきな男であった。
うっかりだが音楽の才能だけはあった嘉助は、やがて、彼の才能にうっかり惚れこんだしっかり者の細君に出会った。
「この人には、私がついていないと駄目だ…」
そう考え、細君は嫁いできた。なるほど嘉助の細君となる
しっかり者の細君にうまく手綱を握られた嘉助は、かつてのように悪友に
――嘉助さんはいい人だけど、仕事はあれだ。私がやったほうが早い。
こういう腹の内を口には出さずに、家のことも、青物屋のことも、ほとんど細君がやってくれる。そちらのほうが、上手くいくからである。この細君が嘉助を、
「もっとしっかりしなさいっ」
と
「いい嫁さんが来たなあ。表には出ず、ああやって嘉助の顔も立てて、なんていい嫁だ。嘉助には、こういう
嘉助の両親は、こう喜んでにこにこ顔となった。その横で、嘉助が勘当されるのを待っていた嘉助の妹と、その連れ合いの口惜しそうな表情を、彼等は知らぬ。
兎にも角にも、嫁さんをもらった嘉助は、水を得たように笛の才能を開花させていった。
ついには、
「あの男の笛の音は、朱雀門の鬼も唸らせたらしい…」
という噂が、そのまま評判となって、時の将軍・足利義政の恩顧を受けるまでとなった。
(※1) 源博雅のエピソード。
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