第18話 出立(7)


 「どういうわけで、あなたはあんな危うい目にあったのか…そろそろ教えてくれぬか」

 重信は、切り出した。

 柳河原にいたままでは危ないのは明らかなため、彼はいとを連れて、そこからすこし離れたやしろへ、彼女を連れてきた。

 社は、木々がこんもりと茂り、風がさわさわとその枝を揺らしていた。広い境内の向こうのほうでは、近所の童たちが群れてきゃっきゃと遊んでいる。そんな様子を遠い目で眺めながら、

 「なにから言ったらいいのか、わかりませぬ…すべてを言えば、長くなります」

 もの思わしげに言って、いとは目を伏せた。

 「言うのが辛いなら、言わんでもいい。近くに頼りになる知り合いがいるなら、送ろう」

 「…頼りになる知り合いなど、おりませぬ。だれも、だれも、おりませぬ。父も母も死に、…叔母にも、裏切られました…」

 「あの商人の言っていたことは、すべてが嘘ではなかったのか」

 重信は、すこし驚いた。商人の言うことは、から全て嘘だと思っていたのである。

 「私の父が楽師であったこと、私の母が死に、父も死んだことは、まことでございます…私は、じつの叔母に騙されたのでございます」

 いとは、

 ――この人になら言ってもいい。

 そんな様子で、己が身の上を語り始めた。

 

 いとの父は、名を嘉助かすけと言った。都でも、笛の名手と言われた男であった。

 この嘉助が、まだ若かったころのことである。

 「おまえは家業も手伝わずに、笛を吹いてばかりで、どういうつもりだっ」

 父親にそう怒られて家をたたき出された嘉助は、行くあてもないので都の朱雀門すざくもんの下で一晩過ごすことにした。以前にもこんなことがあったから、これで二度目であった。

 嘉助としては、

 「親父の言うことは、もっともだ」

 そうは思うのだが、笛を吹くと、ついつい…

 「あの曲も吹きたい。この曲も吹きたい」

 そうなって、気がつくと時間が経ってしまう。

 「ならば、はじめから笛を吹くな!」

 そうも父には言われるのだが、これがどうにも無理なのだ。是非もない。

 「どうしよう…」

 笛を生涯手放すことなんぞ、出来はしない。生きていけない。心が死んでしまう。だが、笛を手放さなければ、家業の青物屋あおものや(※1)を継げない。食っていけぬから、やっぱり生きていけない。体が死んでしまう。

 「どうしよう…どうすれば、いいのか」

 途方に暮れ、日もとうに暮れた。寂しくもなって笛を吹いてみたところ、嘉助はいつものように夢中になりだした。時なんぞ、忘れた。夜も更けて、ゆく人影は絶えた。それでも、吹いた。

 やがて…門の上から美しい笛の音が聴こえはじめた。

 ――誰かが、いる。

 独りぼっちでないことがわかって、嘉助は嬉しくなった。

 ――誰だろう? 

 楼上から聴こえてくる笛の音は、とてもとても素晴らしかった。ときにそれは松林を抜けてゆく風のような涼やかな様子となり、またあるときは崖から落ちてゆく名瀑めいばくのような厳しく美しい音色となった。この音色に浸りながら、夢見心地で嘉助も笛を吹いた。

 ――俺は、なにを悩んでたんだろう?

 嘉助は思った。この感激と出会っては、それをなしに、生きていると言えるだろうか。言えない。以前にも、こんな寂しい夜に、そう思ったではないか。

 今までの悩みが、どうでもよいものに思えてきた嘉助は、その夢見心地のままに、

 「あなたの笛の音は素晴らしい…このような一期一会の出会いは、じつに良いものですな」

 こう語りかけた。すると、割れ鐘のような恐ろしい声が楼上から答え…、

 「おまえの笛も、なかなかだ。今からずいぶん昔に、お前のように上手なやつと、笛を交換したことがある。あの笛の音が懐かしいものだ…いま、あの笛がどこにあるか、お前は知らぬか」

 「はて、存じませぬ」

 そう無邪気に嘉助は応じた。

 「葉が、二つあるやつだ」

 「はて…? 申し訳ございませぬ」

 「そうか。知らぬか。お前ならば、知っているかと思った」

 残念そうに、声は言った。

 ――やけに、おそろしい声のお方だなぁ。

 嘉助は、そうは、思った。しかし、ただ、それだけである。なにしろ嘉助は、この時ほんとうの知己というものに初めて出会ったかのような喜びに浮かれていた。

 ――声はおそろしいが、私の師匠と同じくらいの、素晴らしい笛の名手だ。都は広いなあ。いいものだなあ。

 そして、

 ――この天啓に出会ったからには、俺はこれでいいのだ。これでいいのだよ。そうだとも。

 こう思い込んで、へとへとになるまで笛を共に吹きに吹いた。何曲も何曲も重ねたので、

 「さすがに、疲れてしまいましたな」

 そうなった。

 「やはり、聴けば聴くほどに、お前の笛の音には聞き覚えがあるぞ。お前の師匠は、誰だ」

 「はあ、…基本を教えてくださった方の他に、幾人かおいでですが、私が一番の師匠と思う御方は…じつは、私は、その御方のお名前すら、存じておりませぬ。ただ、こちらがその方を勝手に『師匠』とお慕いしているだけです…ああ、不思議です。その方とは、ちょうどあなたと同じようなかたちで出会いました。信じていただけますか」

 「…聞いてやる。言ってみろ」

 「今のように、父に家からたたき出されて…誰も住まぬであろうで、一晩過ごしたときにです。今夜のように寂しくて笛を吹いていると、月明かりにも立派な様子とわかる身なりをなさった御方が現れて、

 『ここはこうすると更によくなる』

 『ここは、上手いぞ』

 などと、そう親しく声をかけてくださったのです。じつに音楽に深い造詣のある方でしたが、音楽をたいへん愛しておいでの様子にも、私は感銘を受けました」

 「…」

 「焚きしめられたこうのよい香りから、さぞ身分の高い殿方なのだろうと、私のような者でも察しがつきました。きっと、寝食よりも笛がお好きな方なのでしょう。眠っていたところを、見知らぬ私が勝手に上がり込んで笛を吹き、起こしてしまったのだろうに、私を咎めもなさりませんでした。たしかにでしたが、あれほどな方ならば、家人がたくさんおいでで、彼等も笛の音に起こされてさぞ迷惑であったろうに、…その殿方に私を咎めてはならぬとでも言われていたのでしょう。誰も私を怒鳴りつける者もいませんでした。人の気配さえ感じなかったほどです。申し訳ないことでした」

 これを聞いて、楼上の御仁は、こらえきれぬというように吹きだし笑いをした。しかし嘉助はそれに気づかずに…、

 「その殿方は、熱心に私の笛を聴いてくださり、駄目なところをなおしてくださった。不思議に思いながらもついつい私も、一生懸命にその教えにそうように吹きました。そのまま、疲れて眠ってしまったのでしょう。目が覚めると、そのあばら家に、私は一人で眠っておりました…狐につままれたような話ですが、ほんとうのことなのです。もしかしたら、私の師匠は、たまたまそのあばら家を通った御方であったかもわかりませぬ…ああ。あの時の調べを、吹いてみたくなりました。吹いてもよいですか」

 そう言って、うずうずした。

 「…いいだろう」

 嘉助は、一節いっせつ、吹いた。

 長慶子ちょうげいし(※2)という曲を、吹いた。

 「ふうむ…」

 その調べに、楼上の誰かは何か合点がいったらしく、

 「そうか、そうであったのか!」

 呵々大笑した。

 「そうか…そうか…いや、愉快、愉快」

 あんまり大笑いをするものだから、嘉助は笛を吹くのをやめて、

 「どうしました? なにかわかったのですか?」

 不思議そうに、尋ねた。


※1 青物屋…八百屋のこと。

※2 長慶子ちょうげいし…雅楽の曲の一つ。源博雅の作と言われている。



 

 

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る