第17話 出立(6)・改
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※今回は、暴力的な箇所があります。こちらは、そうしたものを極力はぶいたものなっております。暴力的な描写が苦手な方、15歳の年齢に近い方は、どうぞこちらをお読みください。
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「はじめ、お前は『この娘の親に頼まれた』と言った。次はこの娘の叔母か。じつの叔母とやらが、お前のようなろくでもないやつに姪を預けるものか…俺は、言うたはずだ。『ほんとうのことを包み隠さずに言え』とな」
「…」
若者は、抜刀している。昼下がりの陽の光を受けて、その大きな刀身がきらりきらりと鋭い輝きを放っていた。
視線を転じれば、きれいに斜めに切られた蜻蛉が、無言で…しかし、これ以上はないほどの雄弁さで、
『へたをしたら、すぐにあなたたちはこうなりますよ』
そう訴えている。
――なんて男だ。
いとは、震えあがった。一緒にいて、さっきまでいとが舟に乗せられていくのを嘲笑って見ていた連れの女たちも、青くなっていた。それを見てとったはいいものの、いとはそれほど嬉しくない。さきほどの彼女たちのように嘲笑う気にも、なれない。
なぜなら、いとも同様の窮地にあるからだ。
あんなばけもの刀を持った上に、大人の嘘八百を見抜く頭脳を持つ…そんな若者に、やさしさや理性があるかなど、いとにはわからない。
――なんてこわい男だ。とんでもないのに出会ってしまった。凶暴とは、こういうのだろう。どうかしてる。あのこわい男に、わたしも殺されるかもしれない…
ただただ、ぶるぶる震えていた。
いとは、それまで都を離れたことのない娘であった。幼い頃の彼女にしてみれば都の外は、
「なんだか、こわいな…」
という場所であり、人のたくさん住む都は、なにかしらほっとするものがあった。当然だ。その頃の彼女には両親がいて、彼女をあたたかく見守っていてくれていたのである。しかし、年を重ねていくほどに、彼女は人の心の表裏がわかるようになり…こんどは人が恐ろしくなった。その思いは、両親が亡くなってから、強くなった。すっかり都でこのまま顔を見知った人々と暮らすのが嫌になったいとは、
「気分を変えるには、ここを離れてみるのはどう? 知り合いの商人さんが、人を探していてね…なんでも、古河公方さまの奥方さまが、都の出身で音楽のできる娘を、側仕えに欲しいと言っておいでで…とても音楽の好きな方なんですって。私は、いい話だと思うわ…考えてもみなさい。あんな位の高い御方のそばに仕えないか、というお誘いがくるなんて、あなたに笛の芸があってこその、これ以上ないほどに光栄なことよ…こんな機会は、後にも先にも、もうこれっきりでしょうね」
という叔母の甘言に、
「それもいいかもしれない…」
そう、うまうまと乗せられて、ここまで来てしまったのである。そうだ。彼女をこの商人へ引き渡したのは、じつの叔母であった。
『じつの叔母が、こんなことするものか』と、あの若者は言っていたが、世の中にはじつの叔母だから、こんなことをする…そんなことも、あるのだ。
その結果が、これだ。いとは騙され騙され、生地を離れて関東まで連れてこられ、ばけもの刀を持ったおそろしい男に出会い、おそろしい目にあっている。
――鬼のようだ。いや、鬼だ。この男にこわいものなんて、あるのかなあ…
そして、…ふっと…こう思った。
――もういやだ。ここであの人に斬られて死んでしまいたい。これからいい目にあうこともないだろうし。ひどい目にばかりあうんだから、死んでしまいたい。
いとは、そう思った。あの刀に斬られたら、あっという間に死ねるだろう。世の中には、さまざまな死があるのだということを、いとはわかりかけていた。いまは、できるだけ苦しみのない方法で、彼女をいじめ
商人は、無表情であった。いままで張り付けていた化けの皮が剝がれたのである。この娘を傷ひとつない状態で、騒ぎを起こさずに目的の地まで運ばねばならぬ理由が、この商人にはあった。そのためにこんな若造を、低い姿勢でなだめすかしたり、脅かしたりしたりの苦労をしていたのである。
ところが、上手く転がしていたつもりが、…転がされていたのは、こちらのほうであったのだ。
心に
商人は口の中で、
「このくそがき…」
そう、聞こえるか聞こえぬかのようなぼそぼそと低く毒づき、
「
手下に、こう命じた。物騒な世を旅するのである。無論、商人は腕の立つ男どもを三人ぐらいは、雇っている。
「やあっ」
「おうっ…」
飛び出した手下どもは、おのおの抜刀し、雄たけびを上げて若者に襲いかかった。
激しい金属音が、人々の鼓膜を裂いた。
いとは、こわくなって目をかたく瞑った。くぐもった悲鳴が、聞こえた。誰のものか、わからなかった。
おそるおそる…いとが瞼を開くと、商人の手下どもは、河原の砂利の上にのびていた。
次の瞬間――若者は、走った。
商人へ向かって、走った。
次が自分の番であることを、商人はよく知っていた。近くにいた手下を、若者の凶刃へ向かって突き飛ばすや、己は舟へ飛び乗り、
「出せっ、出せっ」
と船頭へ命じた。
舟は去っていった。乗っていた船頭も、生き残りたかったのだろう。今までに見たことのないような速さで、若者の追ってこられぬところまで舟をやった。
人々は、主に
残ったのは、河原にのびている怪我人どもと、死にたくなって何もかもどうでもよくなった、いとである。
「大丈夫か」
若者が、いとにそう声をかけた。
己が呼びかけられていることに気づいて、いとは若者を見つめた。そして知った…この男は、鬼やばけものではなかった。馬鹿でもなかった。理知的で信頼のおける、真っすぐの眼差しをしていた。
いとの面のほうへ、若者の手がのびた。口元が自由になり、彼女は、ようやく己がこの若者に助けてもらったことを察した。
いとは、へなへなと、その場へ座り込んだ。腰を抜かしたか、力が尽きたか…そのどちらかであった。
――生きてる。わたし、生きてる。
いとは、ほっとしている自分に気づいた。そうして、良かったと思うと共に、
――こんな境遇になっても、ほんとうは私、死にたくないんだ…
そのことにも、気づいた。いま抱いている安堵は、命がいとしい者のみが抱けるものだ。
へたりこんだ河原の石は、ごつごつしていて、彼女の尻を痛くさせていた。
さきほどよりも、視点が下がったぶんだけ大きく広がった秋の空は、心地よい
どこかで、虫が鳴いていた。
亡き父が好きだった声音で鳴く、あのちいさな虫の鳴き声であった。
――ああ。この音を、また聴ける。
いとの眼から、涙が、溢れた。
いとは泣いた。己が生きていることを、ことほぐように泣いた。そして、かたわらにいた若者に、
「…ありがとうございました」
きれぎれに、そう告げた。あとは、この身にまだある命を抱きしめるようにして、小さくうずくまって泣くばかりであった。
井澤重信は、女の涙にいちばん弱いようであった。
「さきほどの者たちが、また取って返してくるやもしれん。ここを早く離れたほうがいい」
とか、
「…助かったんだから、もう泣くな」
とか言って、いとをはやく泣き止ませようと苦労していた。
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