第14話 出立(4)


 ――いとの墓参りも、ご先祖様の墓参りも、俺たちはもう出来ぬことだろう。ご先祖様は怒らんだろうが、いとは怒るかもわからん…いやだなあ。いとはやつだが、こわいのだ。

 いとの墓を眺めながら、ぼんやりと石頭斎は思った。そうして、

 ――いつからがこわくなったんだろう。今もこわいとは、どうしたことだろう。

 頭をひねってみたが、わからなかった。いとは、あんなにおなごだったのに。いとは、あんなに心根のよいおなごだったのに。『力では必ず俺が勝つ』とわかっているのに、あの眼に見つめられると、どうも力が抜けた。なぜだろう。

 「すまぬ…まことに、すまぬ。俺も、いままでは能天気に、あたりまえのように

、くたばったらの横に眠れるものと思っていたのだ。そうすれば、死出しでの旅路も、ちっとも辛くないわい、と…そう思っておった。さきにおまえさんが、あちらへ行って、待っていてくれとるんだもの。なあ、いと…俺は、どこでくたばるのだろうな。おまえのかおりのない土は、なんとつめたく、あじけないものだろうな…」

 爺は勝手に眼から溢れる涙を、止めることができなかった。彼は、死と隣り合わせの戦場に行くことを恐れていなかった。愛しい女と、こうも分かたれてしまったことを、ただただ悲しんだ。ふたたび、愛しい女をひとりぼっちにしてしまうことを、悲しんだ。

 石頭斎は、

 ――妻に、もう二度と孤独を味わってほしくない…

 そう強く思い続けてきた男であった。初めて出会った時の、いとのあの眼差しが石頭斎の脳裏には強く焼き付いていて、彼をそうさせていた。


 井澤石頭斎が、妻のと出会ったのは、柳河原やなぎがわらでのことであった。

 のちに応仁の乱と呼ばれるあの戦から五年ほど前の、彼がまだ齢十九の…井澤重信いざわしげのぶと名乗っていたころだ。

 柳河原は、登谷のぼりやのすぐ隣にあって、その名の通りに遠井川とおいがわという大きな河川を有した街道の宿場町であったため、人馬の途絶えぬところだ。

 「誰か! 誰か、たすけてぇ」

 客人を送った帰路、彼は河原で、若い女の叫び声を聞いた。見ると、幾人かの商人風の男やその連れらしい女の手で、ひとりの若い女が無理やり舟に乗せられようとしているところであった。

 これが、いとである。

 この時は、絹を裂くような、可憐な声に聞こえた。数年後、この声が重信の耳にどう聞こえるようになったか――それは言わぬが花である。

 ――だいが、寄ってたかって、うら若い娘になにをしているのだ!

 重信は義憤から、

 「待ていっ!」

 そう大音声で呼ばわると、そちらへむかって走っていった。

 一瞬、その若い女と眼があった。とても悲しく、寂しそうな、…なんとも思いつめた眼差しをしていた。

 すると舟から、『これが人さらいのか』というような身なりの良い男が降りてきて、

 「我々は、見てのとおりの商人です。この娘のことは、彼女の親からしっかりと奉公先へ送り届けるように頼まれているのです…ご存じのとおり、これくらいの年のおなごは、我がまま気ままなものでして、道理をわきまえませぬ。驚かせて申し訳ありませんが、けして無道むどうなことをしているわけではございません。ご安心ください」

 落ち着き払って、こう答えたことだった。

 「嘘つきっ」

 若い女は、男を憎々しげにと睨みつけた。それを、周りの大人たちは、

 「まあまあ…わがままは、いけませんよ」

 「そうですよ、そんなでは、奉公先で苦労なさることでしょう」

 などど、ようすで、重信に聞こえるようにそう娘に言い聞かせながら、また舟に乗せようとしている。

 どこか、取り繕った様子であった。

 「ふうむ。あいわかった。そうか…いや、そういうことならば…」

 重信は、納得したように頷き、その場を離れるそぶりをした。

 「とんだ御足労をおかけしました」

 男は、ほくそ笑むその笑顔を見せぬように深々と頭を下げ、いとのほうは、

 ――こんな口先三寸に騙されるなんて、馬鹿なやつだ。

 という顔をした。いとを舟に乗せようとしている人々も同様である。つまり、その場にいたすべての人間が、井澤重信を馬鹿だと思った。

 「――足労ついでに、お前たちにおもしろいものを見せてやろう」

 重信は、やおらきびすを返してそう言うと、刀の鯉口をきった。

 一閃――白刃が、の面前で、陽の光をきらと浴びてうつくしく光った。遠井川の陽を受けた川面かわものような、まぶしい輝きであった。

 少しの間ののち…いままで嘲笑を隠しながら頭を下げていた男は、己が差し出した額から、なまあたたかいものがたらりたらりと流れていることを悟った。

 不審に思い、手を当ててみる。

 血であった。

 「ひ…ひいぃっ!」

 はへたりこんだ。

 重信の近くを、なにかがぶうんと飛来した。それを、彼は刀で払った。斜めにすっと両断されたが丸い河原の石の上に落ちたのを見て、この若者が、飛来してきた蜻蛉をおそろしい手練しゅれんの早技で斬ったことを、人々は知った。

 「俺は、気が短いほうだが、もう一度だけ訊いてやる――このようになりたくなければ、皆、包み隠さずに、この騒ぎの顛末てんまつを言うことだな」

 静かだが怒気を孕んだ声で、重信は一同にそう告げた。

 人間には、想像力がある。額を斬られた男は、こと切れた蜻蛉に己を重ねたのだろう。生温かく、特徴的な臭いのするものを、股間から垂れ流しはじめた。

 中年男のくさい尿のにおいをかぎながら、いとは、名も知らぬ若者を見つめた。若者は、地味な様子をしていた。痩せて頬がこけ、金がなさそうに見えた。若者は、「俺は短気だ」と言った。自分で言っているから、そうなのかもしれない。違うのかもしれない。

 それでも、この若者が自分の窮地を救ってくれる英雄であると…いとは、そんな気がした。

 

 



 ※地名・人名について


 この作品は、戦記物のつもりで書いております。ために、これからもいくらでも地名や山の名、河川名、城やとりでなどの名前が出てまいりますが、先に出てきた『伊勢盛時の興国寺近くの館』、後に必ず出てくるであろう『小田原城』などのように、

 「この名称を出さなければ、話が成立しない…」

 というような歴史的に有名な名称以外は、架空の名称で通したいと思います。先述の『登谷』、今回出てきた『柳河原』『遠井川』も、架空の名称です。

 血なまぐさいエピソードが出てくる話です。その好ましくないイメージを、実際に存在する地名、建物などに付与することを避けたく思うのです。

 人名も、同様です。『出端可米之介』のような役まわりを、実在の人物にさせるなど、とてもできません。

 じっさいに出てくる地名に関しては、たとえば『川越』という地名が出てきたときに筆者は、北条氏康の卓越した采配や、この戦の後の上杉氏がどのように動いて後世に影響を与えたか…それに思いを馳せます。あの時あの土地に生きた人々を敬う心しか、抱きません。

 小田原城の前に立った時の、胸にわき立つ深い感慨ときたら!

 実際に小田原の街を歩きながら、史上名高い『小田原城の惣構そうがまえ』がどれほど広大であったかを想像した際、そのスケールに、心の底から、

 「すごいなあ」

と、讃嘆したことでした。

 ――天正18年(1590)の小田原合戦のあった、数百年後のその土地に、いま、自分は立っている!

 ――この小田原に、北条氏政・氏直はいて、豊臣秀吉や徳川家康も来た。後からは、伊達政宗まで来たのだ…

 その事実は、とんでもない感動を筆者に与えました。

 そうした土地・そこに住まう方々に、この作品でご迷惑をかけないよう、こころして書きたい、と存じます。

 なにとぞ、よろしくお願いいたします。

 

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