第13話 出立(3)

 

 主の墓前を辞して己が先祖と妻の墓へ向かいながら、石頭斎は考えこんでいた。

 詮無せんないこととはわかっていながらも、ついつい…どうしても、思い悩んでしまう。

 ――なぜ、義道様は、あの死病におかされている体を、俺に診せなかったのだろう。

 このことをである。

 今となっては、解きえない謎だ。病の兆しが見えてからというもの、義道は石頭斎をそばに寄せつけなかった。こちらは心配して様子をみようとしているのに、

 「それ以上、こちらに来てはならぬ」

 と、怒鳴りつけられて近寄れない。取り付く島もなかった。

 ――あとから話を聞くと、どうも義直様に対しても、そのようであったらしい。義直様としては、訳がわからなかったろうし、拒絶された心地にもなっただろう。さぞ、寂しい思いをなさったはずだ。

 石頭斎は、そう思う。

 そして、病が目に見えて己が体をさいなみはじめると、義道はすぐに息子を石頭斎に預け、

 「もう、絶対に、ここに来るな」

 ときたものだ。まことに、あっという間の出来事であった。

 あんな時、ふつうの病人ならば、なにがなんでも、

 「俺の体をてくれ。すぐに治してくれ」

 とくるのが普通のはずだ。石頭斎は、これまで滝野家の人々の病を診てきていた。本草に詳しい石頭斎の知識を、義道は高く評価してくれていたと思う。

 ――すぐに、ご自分で、「これは、恐ろしい死病だ」と、「石頭斎に治せぬ病」と、気づいたのであろうよ…あのお方は、病をこの爺にうつすのを、恐れたのだ。最後にお顔を見た時でさえ…俺は、あのお二人に近づけなんだ。

 義道に診察を拒絶されてからずっと繰り返されてきた思索は、またも同じ結論をたどり、石頭斎の胸は悲しみに締めつけられた。彼は、人間だめなときは、医者がどんなに手を尽くしてもだめなことを知っていた。知ってはいても、それを現実として受け入れられるか、というのは話が別だ。

 ――己の病のことを悟ったとき、義道様はどんなにお辛かったろう。恨み言も弱音も吐かず、ただただ己のうちにひそむ病魔と戦うとは、とほうもないお方だ。奥方様を道連れにしてしまったことで、どんなに苦しんだろう…奥方様も、どんなにか辛かったろう。息子をもっと見守っていたかったろうに。そんなお二人の力になれないとは、俺はほんとうのだ。

 これまたいつものように、石頭斎は己の力の至らなさを責めた。彼は義道夫婦が死んで以来、やり場のない鬱憤うっぷんを抱え、それをまぎらわせずにいた。これからも、きっとこのもやもやとした感情を背負って生きてゆくことだろう。 

 ――神のごとき医者ならば、治せたかもしれぬ。治せぬやもしれぬ。その判断さえつかぬ己に、腹が立つ。

 そんなふうに日々の生活の中で、解きえぬ問いを蒸し返しては答えを探そうとし、毎度同じ結論に至り、己を責めることを繰り返してきた石頭斎だ。

 『射石飲羽しゃせきいんう(※1)』――そんな言葉がある。

 もし病が実体を持っていたら、石頭斎は力いっぱい矢をつがえて、矢羽根がその体に至るまでの怒りで、これを叩き殺してやりたかった。

 こういう心持ちであったから、若さまに従って世にうって出ようと心に決めたとき、彼が名乗ろうとしたのが、

 『井澤射石斎』

 であった。

 「若さまの重圧になるからやめろ」 

 と伯言和尚に言われて、

 「ううむ。仰るとおりですな。なれば、何がいいですかな」

 そう尋ねると、

 「おめえ『石頭いしあたま、石頭』と若さまに言われるから、石頭斎でいいよ。ひょうげた(※2)、かるいかんじでいけ」

 「うむ。それがいいですな。それでいきましょう」

 これで彼は、

 『井澤石頭斎』

 となったのだが、これは伊勢の殿様にも言わなかった。彼の口から、若さまに伝わったら困るのだ。じっさいに『石頭斎』と名乗り、その由来を知ったときの伊勢の殿様の反応を思い出すとき、石頭斎は、

 ――ああ。『石頭斎』でよかったな。

 と思うのだ。もしこれが『射石斎』ならば、頭のよいあの殿様は、すぐに、

 「石を射るほどな恨みとはなんだ。なにがあった」

 となっただろう。

 秘密だ…己が悲嘆と憤懣ふんまんのかたまりであることは。

 そうやって石頭斎は、若さまに心のすべてを打ち明けずに、砂を噛むような気持を心に抱えて生きていた。

 ――若さまだって、「なぜ爺は、俺の二親ふたおやを治してくれなんだ」と、心の奥底でうらみに思っておいでかしれぬ…

 それが、この爺には、辛い。

 そうだ。辛い。なにもかもが、辛い。辛くないのは、

 「義直様が出世のいとぐちを得たぞ」

 と、明るい未来に思いを馳せる時だけ…

 ――天道、か。天よ。どうしてお前はこうも無情であるか。

 天に唾してどうする…どうしようもない。それは、わかっている。どうしようもない心を抱きながら、爺はずんずん歩き、己が父祖と、妻の墓の前まで来た。彼等の墓は、奥にある義道たちの墓を守るようにして、墓所の入り口近くに、ひっそりとあった。

 「此度こたびのことといい、お前さんやお前さんの父御のことといい…いとよ。天道是か非か、俺にはわからん。ひどい世の中だよな。そう思わんか」

 いとの墓の前まで来ると、石頭斎は、そんなことを言った。

 そして、その墓前に、義道たちの墓前で見た花を一凛みつけて、石頭斎は立ち尽くした。先ほど義直が手に持っていた一凛は、このためであったのだ…義直は、生前世話をしてくれたいとにも、花を手向けてくれた。きっと、手も合わせたことだろう。

 「義直さまよ…もうこれ以上、爺を泣かさんでくだされ」

 涙声で、石頭斎はそう呟いた。

 ――義道様は、こんなに心の優しい、素晴らしい御曹司を、俺に託したのだものなあ。

 義道夫婦が、大切な息子の行く末を最も安心して頼めるのは、井澤石頭斎であった。彼等にとって、息子の義直は最後の希望であった。

 石頭斎にとっても、義直は最後の希望に他ならなかった。

 もし彼の心の憂さが晴れる時があるとしたら、それは義直が見事出世をして、義道に、

 「滝野家もこれで安泰でございますな」

 と報告できるようになった時だろう。その時こそ、石頭斎は己を許してやれる。

 「いとよぅ、…俺は、義直様に従って、ここを離れることとなった。おまえ、許してくれんか」

 墓石は何も言わぬ。

 「…義直様がいなかったら、俺の人生は本当に救いのないものであったろうよ…そう思わんか、いとよ、お前もそう思うだろう」

 もういちど、石頭斎は、いとに訥々とつとつ…そう問いかけた。

 いとだけは、知っている。

 さきほど、若さまがやってきて、ねんごろにこれまでのいとに受けた親切の礼を言ったあとに、

 「爺がいなかったら、俺のこれからはもっと救いのないものであった。爺がいるから、やってこれたのだ…いとよ、お前もそう思うだろう? 俺は、あの爺に報いねばならぬ」

 そう言って、『立派な武士になる』と誓っていたのを、知っている。

 


(※1)射石飲羽…むかし、母を虎に殺された男が、仇の虎と見間違えて巨大な石に矢を射かけたところ、その矢は矢羽根までが石に食い込むほどに深く突き刺さっていたという。転じて、必死の思いでことにあたれば、大事を成せるというような意味となった。

(※2)ひょうげた…ふざけた

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