第12話 出立(2)
「おう、ご主君…」
遠くから呼びかけられて、義直はそちらを見た。
――爺、いま来るとは…間のわるい時に来たな。
義直は、内心、爺を恨んだ。
泣いていたことが、ばれてしまうではないか。
義直は、
『一丁前の男は、人前で涙を流すものではない』
と、そう思っていた。
『他人から『ご主君』などと呼ばれる立場にある人間は、それなりに秀でて強くあらねばならぬ』
そんな気もしていた。自分のことを育ててくれ、『ご主君』と呼んでくれる爺に、泣いていたとばれてはいけない。
義直は、爺に己のぶざまな姿をさらしたくはなかった。彼のこれまでの養育にあれほど心を砕いてきてくれた人物には、自分のいちばんよいところだけを見せて、安心してほしかった。
「父母に、これからのことを報告をしていたところだ。きっと、草葉の陰でお喜びになっていると思う」
どこかつくろった、言い訳のような物言いを、義直はした。そんなことを知ってか知らずか、爺は、
「それは良いことをなさいましたな」
とにこと笑った。
「爺よ。俺は支度があるゆえ、先に帰っておるぞ」
「はい」
義直を見送った石頭斎は、義道夫婦の墓前に、摘みたての、紫色の可憐な野花が二輪、捧げられているのをみとめた。さきほど、義直の手にあったものと同じものだ。
――ああ、…義直様よ…
おさえようとしても、涙がこみあげて来る。義直様が、先に帰ってよかった。石頭斎は、心の底からそう思った。
「ああ、義道様。ご覧になりましたか、ご立派になられた若さまのお姿を。あの方は、涙を見せまいとする
そうやって背伸びをして生きながら、今は亡い両親に捧げる花を摘んでいるとき、義直様はどんな気持ちでいただろう。どんなに両親が恋しかったろう。石頭斎は、うんと小さい頃の義直が、母親とともにこの花を摘んで遊んでいたことを、知っていた。
石頭斎は、義直が井澤の人々に対しても、素の己を見せずに、なにかしら演技をしていることに気づいていた。それはまるで、
『若いに似合わず頼もしい主の顔』
『近所に住む大人しい少年の顔』
というような透明な仮面を義直が作って、さまざまの人に会うたびに、それに適した仮面を、使いわけてかぶっているかのようであった。なんのために? もちろん、己を守るためにだ。世間にうまくもぐりこむためだ。義直が、仮面をかぶらずに接することのできる人間は、もうこの世にはいない。この井澤の爺に対してもそうなのだ。もう誰も、そんな人はいないだろう…
「――あの方をこんなに早く大人にしたのは、我が落ち度でありましょうや? もう少し…もう少し、子供でいさせてやりたかった…」
爺は、泣いた。己が義直の成長の一助になっているとは、つゆ知らずに泣いた。義直の『石頭の爺』を見つめるときの感謝に満ちた眼差しを、この爺は見なかった。彼は、義道やその奥方との思い出を懐かしがり、義直の輝かしい将来を夢に見ていた。
さきほど石頭斎が見送った義直の後姿は、その父御のようではなかった。義直が父に似たのは、顔立ちである。声である。しかし、いかにも俊敏そうなほっそりした体つきは、母譲りのものだ。義直の父・義道は、もっとがっしりとした大男であった。狩りをしていてうっかり狼や熊にあっても、向こうがびびって逃げ出すだろうというような、
なのに、その偉丈夫でさえ、流行り病には勝てなかった。病は、じわりじわりと義道から生きる力を奪っていった。
――あの病は、獣が持っていたものだろう。それが義道様にうつったのだ。
義道が、己が
「俺はもう、助からぬ」
と思ったのに違いなかった。
――おそらく、あの時点で、奥方もなにかしら病の兆しがあったのであろう…
でなければ、奥方も、石頭斎に託したことだろう。病を持っている奥方が、井澤家にも病を引き込んで、主従の家族ともどもに病に殺されることを、義道は避けたのだ。なんと、悲しい決断であったことか。
「病よ。お前は、なんともむごいことをしたぞ。あんな多感な頃の少年に、なんという酷い仕打ちをするのだ。お前は、死と友達だ。お前たちを好きなやつが、いるか…いないだろう。人々は、お前の名を口にするたび、なんとも嫌な心地となるのだ。いいか、今に見ていろ。たとえお前たちが、いま我が主たちを苦しめ勝ち誇ろうと、なにするものか。お前たちに食い物にされた義道様の立派な振る舞いを、見るがよい。義道様があんな決断をするなど、お前たちには予想外だったろう」
そんな悲しい独り言を言う石頭斎の頭上で、小鳥がのどかに鳴いた。己が若い生命を誇り、美しく澄んだ声音で恋の歌を歌っていた。
「聴いたか。この命の歌を。お前たちにさえ奪えないものが、この世にはあるのだ。それをお前たちにわからせるためなら、この老いぼれはなんだってするぞ。そうだ…お前たちには、けして奪えぬものがある。俺が、お前たちの手にかかる前に、それをお前たちにわからせてやる。今に義直様が滝野の家を再び興して、幸せを掴むことだろう。お前たちが殺した義道様によく似た眼をした義直様がな、あの雄々しい一族を、再び栄えさせることだろう。いつか、人々は滝野の名を、親しみや敬愛をこめて口にするようになるだろう…『絶えて久しくなりぬれど』の滝は、ふたたびその流れを世に現し、名をなすのだ。そうして、こんどこそ、名は永遠となる。それが我等の凱歌だ」
石頭斎は、己が虚勢を張っていることを感じていた。まだあるという望みもない、素晴らしい未来を口にして、己を鼓舞する己の弱さを、彼は知っていた…それを恥ずかしいとは思わなかった。なぜなら、世間という怪物は、病や死と同じほどにとらえがたいものであった。石頭斎は、大切な主の遺児・義直を伴って、これと戦わねばならなかったのである。
――しかし、これ以上ここにいたら、我等が危ない。打って出ねばならぬ。勝負の時だ。
石頭斎の考えが正しければ、この近辺で病を持っている獣は、まだいるはずだ。それと人とが接触したとき、また悲劇は起こる。なにもなさずにここに留まることは、死を待つことと同じことのように、彼には思えた。
「義道様よ。奥方様よ。そしてここに眠る主の先祖の皆さまがたよ。これから某一同は、若さまをお守りして伊豆に移ります。我等は、心を込めて、若さまのご本懐を遂げるために力を尽くしますゆえ、どうか…どうか、お許しください…」
地に額ずき、石頭斎は深々と墓に頭を垂れた。
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