第11話 出立(1)


 伊豆から舞い戻った石頭斎から、その報告を受けて、滝野義直は目に見えてがっかりした様子となった。

 ――どこの武門の家に仕官できるのかなあ。

 と思って首を長くして待っていたら、音に聞こえた名門の家の、に仕えることとなったというのだ。

 若さま・滝野義直は、十六才のであった。彼は、その年齢の若者独特の無邪気さで、世に出た己の姿を夢想した。あの爺が、『若さまにぴったりの仕官先』といって、この辺りを治めているような国衆のところへ連れて行って、

 「忠勤を励め」

 などと言うだろうか? 言わない気がする。守役もりやくとして、義直が幼い頃より、その養育に励んでいた、あの爺だ。懸命にというところを調べ上げ、そのうちでも『この世で一番っ』というようなところに、義直を売り込むだろう。

 そんなわけで義直は、ある時は、山内上杉氏の家臣となって、勇ましくよろうて関東の安寧を守るべく四方を睥睨する己の姿を思い浮かべ、またある時は、扇ガ谷上杉氏の尖兵せんぺいとなって立派な馬にまたがり、思うがままに戦場を駆ける姿を思い浮かべた。畏れ多い気がして滅多にしか見なかったが、あの堀越においでの足利家に仕える夢も、たまには見た。

 それが、なんだ。

 伊勢盛時という、今川家随一の実力者に直接会うという僥倖ぎょうこうにあいながら、今川家への奉公の口をきいてくれるよう頼むでもなく、盛時その人への仕官を頼むとは。

 「どうせ今川家きっての実力者に会ったなら、今川家への仕官を頼んでくれたらよかったのに」

 ――爺に悪い、そんなことを言うものではない。

 と頭でわかっていながらも、ついつい、そう石頭斎をなじって、悔しがった。

 「そんなことをいうものではありませんぞ」

 石頭斎は、そんな義直の態度に怒る様子もなく、どこかように言ったことだった。なにしろこの爺は、義直という少年のことは知り尽くしている。世間知らずなくせに野心だけはちゃっかりある小僧が、どこで怒るか、わかる。

 「今川家、今川家とおっしゃるが、その当主はあなたさまと同じ年頃です。これから先、どんな男になるかわからぬではありませんか」

 「…」

 これから先、どんな男になるかわからぬのは、義直当人も同様である。義直は黙り込んだ。

 「どこぞの名家に仕えたいと言って…たとえば、扇ガ谷上杉氏のはどうです。あれほど尽くしてくれた家宰かさい道灌どうかん公を、殺してしまったではありませんか。御家のために尽くしたことが、かえって仇になるとは、恐ろしいことです。その後、なにが起こりましたか。血で血を洗う戦が起こったではありませんか(※1)。自ら大乱を招いたようなものです…とてもではないが、そこに仕えることなど、お勧めしません。忠義に値しない家です」

 太田道灌は、扇ガ谷上杉氏の家宰として、天賦の才を発揮してその勢力の拡大に貢献したが、かえって才覚を主・扇ガ谷上杉定正から危険視され、文明十八年に謀殺されている。

 「また、山内上杉氏など、既に雲霞うんかのごとく人が集まっています。若さまが、玉のごとき才覚をもって粉骨砕身尽くしたとしても、埋もれてしまいかねません」

 「…」

 「…若さま、仕える家のみならず、その家の人も見なければなりません。若さまがこれからを生き抜くにあたって、その人生の師と仰げるような御方を主に見つけることができたなら、それはたいした福運ですぞ。こうして爺が探し続けた結果が、伊勢のお殿様なのです。ご立派な方ですよ。賢くもある。なぜ爺が、伊豆まで行ったと思いますか。先に小鹿範満をやっつけて、甥御に今川家当主の道を開いてみせたときの、あの立派な戦い方をした人物が、じっさいに爺の思うとおりの人物かを確かめてきたのです。不必要に人を殺さぬ、頭のよいやり方ができる人です。こたび、そのお人柄に触れて、あの方には心もあることがわかりました。爺が、胸を張って『仕えるならこの御方っ』とお勧めするのは、伊勢のお殿様しかおりませんぞ」

 「…そうか」

 義直は、沈思ちんしした。彼は素直でもあった。周囲の人に恵まれて育ったせいか、ひねくれたところがまるでなかったので、反抗のための反抗など、しなかった。

 「おまけに、あの方は、幕府の偉い方々と昵懇じっこんの間柄でもある。野心もあり、兵法の才能もある。あの方は、己が実力とその人脈で、これからどんどん偉くなることでしょう…わかりましたか。伊勢盛時公こそは、奇貨きかです。くべし(※2)と存じます。若さまがあの方に従って行く道は、けして平らかではありますまい。しかし、爺やほかの井澤の者がついておりますぞ。若さまが『行くぞ』とひとこと言いさえすれば、伯言の坊様も、も『おう!』と従うことでしょう。ちいとも寂しくはありませんぞ。そうして、若さまはこれから出会う人々とも今まで出会った皆とも仲良くして、爺の齢ほどは長生きしてくだされ。左様…その頃にはきっと、『爺は偉かったなあ。活眼だった』と…、若さまは爺を、そう褒めてくださることでしょう」

 石頭斎は、こう言った。

 義直は、懸命にまくしたてる爺の、その真心しかない眼を見つめた。

 ――こんなに必死になって俺のことを考えてくれているんだぞ。しかもこの必死は、俺が決意を打ち明けたからこそなのだ。こたえなければならん。

 義直は意を決し、

 「爺がそこまで言うなら、俺は伊勢公にお仕えする。爺よ、ありがとう。恩に着るぞ。これからもよろしう頼む」

 ぺこりと首を垂れた。石頭斎は、くしゃくしゃっと顔をほころばせ、

 「よかったよかった。もう、その分別があるなら、ではありませぬな。ご主君と呼ばねばなりますまい」

 そんなことを言って、喜んだ。そして、なにか秘め事をもらすように、

 「じつは、爺があの伊勢のお殿様に拝謁できたのには、わけがあるのです。爺も、これをお殿様から聞いて、びっくりしました」

 と、声をひそめて言った。

 「なんだ。なにがあった?」

 「なんでも、伊勢のお殿様の夢枕に、ご主君のご先祖が立たれ、『これから俺の裔から使いが来るから、言うことを聞いてやれ。聞いたら俺が、お前の一族を守ってやろう』と、そう仰せになられたそうで…伊勢のお殿様はこれをたいそうお喜びになり、某が来るのを『今か今か』と待っておいでであったとのことです」

 「そうか!」

 義直は、嬉しそうな顔をした。

 「いやはや、これほど幸先のよいことはありませぬぞ。良かったですな」  

 石頭斎の声に頷きながら、しかし義直の目はほんとうの喜色を湛えていなかった。

 しばらく後、思い立ったように彼は、

 「両親の墓参りに行く」

 と屋敷を出た。屋敷は、降ってわいた引っ越しの準備に、ばたばたしていた。

 滝野義道とその妻の墓は、滝野家代々の墓とともにある。井澤の住まいから少し離れた、鬱蒼うっそうと木の茂ったところだ。

 ――墓参りも、これが最後となるやもしれぬ。

 そう思うと、義直の胸は苦しくなった。

 ――それは、とんでもない親不孝であるやもしれぬ。

 先祖に見捨てられた心地がしている義直にとって、両親の墓は、まだ彼の心をあたためてくれる何かが残っている気がする…

 「ここで待っておれ」

 連れてきた家人を、少し離れたところで待たせて一人となると、義直は墓石に向かって小さく呟いた。

 「父上、母上、行ってきます。某を許してください。某の代で滝野家を終わらせる真似はいたしませぬ。父上から受け継いだ家です。きっとお家の再興を遂げて、父上母上に『ようやった』と笑って褒めいただけるようにいたします…そのあかつきには、あの時のように、…病が我等を引き離す前のように、どうか某をそばにおいて、あたたかく微笑んでください。もう一度、親しく声をかけてください。それまでは…どうか、どうか見守っていてください…某は、病が憎い。憎い。さぞやお二人は、無念でありましたろう。某が、いつかきっとお二人が満足に笑える日が来るようにいたします。病が、某からお二人を奪っても、某から奪うことなどできなかったことを、いつか証明してみせます。そのときこそ、某はお二人の仇をとった心地となれましょう」

 墓石は、なにも言わぬ。ただ、そよそよと、今の季節に特有のさわやかな優しい風が吹いていた。

 不意に、義直の少年の域を出ないながらも引き締まった表情が、涙にゆがんだ。

 「ご先祖様…なぜ、赤の他人の夢枕に立ち、某のところへは来て下さらなかったのです。あなたさまにひとことでもあたたかく声をかけられたなら、この義直は一生しあわせな心地になれましたものを。他所の者には、これ以上ないようなさちを与えながら、あなたの輝かしい名を慕って、世の荒波を行こうとする孤児みなしごに、ひとこともないのですか…あなたの𠮟咤激励のみで、某はそれを心の宝に、一生奮い立てますものを。なぜです…」

 寂しさに、涙を垂れて見上げた空には、雲一つない青空が広がっていた。

 無窮むきゅうの空が、広がっていた。

 

 

 ※1 父・道灌を殺された、その子・資康は山内上杉氏に庇護を求めた。これが山内上杉氏と扇ガ谷上杉氏が争う長享ちょうきょうの乱の発端となった。

 ※2 奇貨居くべし…後に秦で権勢を誇ることになる呂不韋が、その成功の端緒となる秦の王族に出会い、言った言葉。

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