第15話 出立(5)
「わ…わたくしは、都から下ってまいった商人でして、おそれ多くも
かしらは、我先にと口を開き、『古河公方さま』という名を口にするときには、なんとも誇らしげに胸を張った。
垂れ流した
本来は沈着冷静であるはずの
――よほど、この娘には深い事情がある…
重信には、その証に思えた。
「この娘は、
「噓つきっ! よくも、そんなでたらめばかり!」
娘は、商人の手下に両腕をがっちりとつかまれながら、口惜しそうに叫んだことだった。
「これ、おなごが、そう食ってかかるものではない!…ご覧になりましたか。ここまでこの娘をたいせつに守ってまいったわたくしに、なんという口のききかたでしょう。万事が万事、思い通りにならないと、この始末でございます。都でも、思い通りにならなければ、こんなふうに暴れて手がつけられぬありさまでした。そんな生活を続けていたら、どうなるか…この娘の叔母は、さんざん悩んだそうでございます。わたくしも、この叔母の心配はもっともなことだと思ったものでした。それに…たしかに都は華やかなところでございますが、恐ろしいところでもございます。若い娘は無知なところもありますから、いつ悪い大人に騙されるかわかりません。それに、物事には限度があります。いつまでも、面白おかしく遊び暮らしてばかりはいられない…それは、本来ならばこの娘の親が教えてやるべきことでございましょう。しかし、この娘の親は、こういう肝心なことを教えてこなかったようでございます」
「ひどい、何を言うの! 嘘よ、ぜんぶでたらめよ!」
いとは泣いて叫んだ。亡き父母を、こうも侮辱されて悔しかった。なにもできない己が、もどかしかった。しかし何ができるだろう? 叔母にも裏切られた彼女は、いまや天涯孤独の身にほかならないのだ。
――ああ。私は、なんて惨めなんだろう。
若者は、そんないとをさめた眼で見つめた。その視線は、彼女のあかぎれだらけの手へ向けられ、彼女をやりきれなくさせた。
――このまま、消えてしまいたい…
いとは美しい娘であったが、病の親の看病や家事に追われて荒れるにまかせていたがさがさとした手は、『とても人さまには見せられぬ…』と、ながいあいだ彼女を恥ずかしくさせていた。
顔を赤らめて、いとはその手をひっこめた。
もはや、彼が熱心に耳を傾けるのは、商人の言うことばかりであった。その様子に、商人は
「このままでは、のちに困るのはこの娘でございます。この娘の叔母から相談を受けまして、わたくしは、
『まだ手遅れにならぬうちに、いちど都を離れ、
そう申しました。幸い、わたくしは先ほど申し上げましたとおり、古河公方さまとお付き合いがございますから、
「嘘っ、嘘よ。その奥方さまは…」
いとは、ほんとうのことを言おうとした。ほんとうのことを言えば、商人の話がいかに虚言に満ちたものか、この若者もわかってくれるはずであった。
「うるさいっ、黙りなさいっ」
もうこの若者はこちらの側だ…そう安堵しきった商人は、遠慮せずに恐ろしい声で彼女を怒鳴りつけ、
「このお方のお耳汚しになるから、その娘には黙っていてもらいなさい」
と、手下に命じた。
暴れながらも、よってたかって
「…こういった事情があってのことです。あなた様は、義侠心からわたくしにこのような真似をしたのでしょう。そのすばらしい志に免じて、今回のことはわたくしも目を瞑りましょう。ですが、これ以上、このことで、妙な騒ぎを起こしては、あなた様の
商人はそう言って…なんとも鷹揚なようすで、にこと笑った。これを聞いて、
「ほほう。俺のさきほどの無礼は咎めぬと申すのだな」
若者の、商人に対する態度は、あきらかに柔らかなものとなった。
「水辺での珍事です。あなた様はまだお若い。わたくしは、そのいかにも青春らしい真っ直ぐの振る舞いを愛します。嫌なことは水に流しましょう」
「それは良かった。ところで、古河公方さまとお親しいとか…大したものだな」
さきほどの失態を埋め合わせるかのように、いかにも感心した様子で、若者は言った。
「いえいえ…それほどでも」
口ではそう言いながら、商人は
「奥方様というのも、さぞ美人であらせられるだろう。俺では見当もつかぬが、噂では、貴人の女性というのは、下々と違って年をとっておらぬようにみえるそうだな。いつ会った? どんなお方だろう…」
「今年の春に、いちど拝謁いたしまして。それはそれはご機嫌うるわしく、お言葉をいただきました」
この会話を聞いて、いとは、
『もう、これは駄目だ…』
そう観念した。
『助けてくれるのかと思ったら、違った。やっぱり、この若いのは、馬鹿だ。大馬鹿だ。ばかに強いけど、頭も馬鹿だ。
そう、まんまと騙されゆく馬鹿を呪ったことであった。
「――いや、あいわかった。貴公は、たいそう見上げた御仁だ。それに水辺の珍事とは、風流な言い回しだ。気に入ったよ」
「おわかり頂けて、光栄でございます」
「貴公は、古河公方さまと近しい。貴公に手を出すと、俺にも迷惑がかかる…そういうはなしであったな」
「はい。さようで」
もう一度、すごむ必要がある。そう思った商人は、声に、威厳を込めて重々しく頷いた。
「…飽きたな、お前の
「え?」
商人は、耳を疑った。
「お前の法螺に飽きたと言うたのだ」
若者は、商人への侮蔑をもはや隠そうともせずに、どすのきいた声でもう一度、言った。そして、
「よし、俺が、ここでお前たちを皆、殺してしまおう。そのほうが俺のためだと思わぬか。お前たちの口を封じれば、古河公方さまからお咎めを受けなくともよくなるのだぞ。よく言うではないか、『死人に口なし』となあ…悪く思うなよ。これも水辺の珍事だ。水に流してしまえ。おまえたちの命ともどもにな」
そんなことを言い始めた。商人たちが、若者の意味を理解するのには時間がかかった。いまは緊張しきった一同に、若者は、
「じつは、その古河公方さまの奥方さまが二年前に亡くなったということを、俺は知っているのだ。死者が生き返って、側仕えを必要とするものか…おかしいではないか。どういうことだ」
さきほどとはうって変わった、つめたく厳しい声音で問うた。
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