第9話 愛鷹山(9)

 「俺は、こんな話を聞いておるぞ」

 やおら、盛時は口を開いた。

 「昨年の秋、京の都に陸尊りくそんという旅の僧が現れた。三十路みそじぐらいの年齢で、なかなかの男前であったという。弁舌さわやかで、人柄秀で、天から遣わされたと思えるほど霊験あらたかであったそうな。噂を聞きつけた右京太夫さまも、じっさいこの僧に会って、その教えに傾倒し、深く帰依きえするところとなった。しかし、元来この僧は、求道ぐどうの人であったから、世俗のことに巻き込まれることを嫌って、日参する右京太夫さまに別れを告げると、忽然こつぜん――都から姿を消したという。出端可米之介というのが、兵を率いて後を追いかけたのだが、陸尊和尚が経文を唱えると、にわかに黒雲立ちのぼり、雷鳴発して、これに人々が驚き慌てているうちに、和尚は天へかけ昇ったそうな。この顛末を出端から聞いて、右京太夫さまは『さもあろう』と仰せながらも、落胆甚だしかったという」

 これには、石頭斎が呆然となった。

 「――ものすごい話が、あったものですな」

 ようやく、それだけ言った。

 「それ以外に…ほかに、ないか」

 「さあ…某は、伯言和尚から聞いたそのままを申し上げております。この和尚は表裏のない人物ですから、某は、これ以上のことは、なにも言えませぬ…」

 もう、その答えからしてすでに、何かを白状している。

 「そうか…」

 しばらく考えた表情となった盛時は、やがてと膝を打ち、

 「おそらくは、これは下手をうった出端が、真相を主に伝えて勘気かんきこうむるわけにもいかぬので、一生懸命に作った話なのだろうよ」

 これを聞いて一同は、

 ――たしかにそんなところだろうな。

 と、力が抜けた心地となった。

 「たしかに、主に言うなんぞ、できませぬな。だけに、『まっぱのねえちゃん』に気を取られたとは…」

 こう、もっともらしく阿呆らしいことを言った石頭斎に、

 「さよう。『ばかめ』と主に叱られようぞ」

 盛時がそう応じると、その場の誰かの口から、しのび笑いが洩れた。こらえきれなかったらしい。

 「のう…陸尊は、名前を伯言と変えたな?」

 「はい…あれだけの騒ぎを起こしたのです。もうその名は、名乗れませぬ」

 「よもや、洒落しゃれのつもりで、あのいにしえ陸遜りくそん…劉備を破った、あの陸遜のあざなから、伯言の名をとったとは、言うまいな?」

 「洒落たつもりはございません。某と和尚とで、頭をひねって考えたものでござる」

 そう答えながら、石頭斎はこれを考えたときの会話を思い出していた。


 『伯言、というのはどうでしょう』

 石頭斎が言うと、

 『それはなんだ』

 そう、陸尊和尚が問うた。

 『唐土もろこしの国の大昔、三国時代に、という人がいたのです。その字が、伯言なのです』

 『あったまいいなあ。それでいこう』


 ――言えぬ…そんな会話があったとは、口が裂けても、言えぬ…我等が、なにも考えてないように思われるではないか。あの時に、『俺、うまいこと言ったなぁ』と思った己に、腹が立つ。どうしよう…どうしようもない…

 そもそも、絶対にとたかをくくっていたものが、騒動を知っていた伊勢のお殿様には、すぐにいる。こちらが頭をひねった機転がひねりつぶされ、石頭斎の心は、すでにぺしゃんことなっている。

 それへ――

 「…よかったではないか。陸尊和尚が、天に昇ったこととなって。もしもこのままあの和尚がこの地上におったなら、右京太夫さまは草の根を分けても探そうとしていたことだろう。俺も、あの和尚が目の前に現れたなら、すぐに捕らえて右京太夫さまのもとへ送らねばならぬところであった。そうならずに、済んだのだ。まあ…伯言和尚は、もう当分、西国へ行かぬがよいぞ」

 ぽつりと、盛時は言ったことだった。知らぬふりをしてくれるのだろう。

 「は、ははーっ」

 石頭斎は、平伏した。

 「さあ、この上は急いで武蔵国へ戻り、若さまやお前の一族郎党を連れてくることだ。わかるな? もうかの地へは戻らぬと思え。いつ、誰が敵となるかわからぬ世の中だ。肉親をかの地においておけば、どんな悲劇が起こるかわからぬぞ。こちらでの住まいや暮らしのことは、大道寺太郎に聞くがよい。太郎よ、頼んだぞ」

 盛時がそう命じ、

 「畏まって候」

 大道寺太郎が答える声にも深々と頭をさげながら、

 ――これから、うんと慌ただしくなるぞ。

 石頭斎は、これからどうやって皆をここへ連れてくるか、考えを巡らせはじめていた。

 住み慣れた土地を離れることになるのだ。

 今は亡き主・滝野義道の墓を、離れることとなる。己の先祖の墓ともだ。もちろん、妻・いとの墓とも…

 ――不忠と、ならぬか? 不孝と、ならぬか?…は許してくれるかのう。

 脳裏に浮かぶ、いくつかの面影に訊いてみる。あの流行り病は、まず、義道を襲った。義道は、己が病におかされていることに気づくと、すぐに石頭斎を呼んで、己が息子・義直を、滝野家に伝わる品々と共に託した。

 「義直のこと、くれぐれも頼む…頼んだぞ。万一のことがある。これより後は、息子もお前も、お前の家の者は誰も、この家に来てはならぬ。俺がもしよくなったら、こちらから迎えに行く。そのときは愉快に酒を呑もうぞ」

 病床で気丈にそう言った義道は、その後、待てど暮らせど、彼等を迎えに来てはくれなかった。義道を襲った病は、彼を看病していた、義道の妻をもあの世へ連れ去った。

 ――いいや。他国の人に仕えるのだ。こうなることは、わかりきっていたではないか…不忠ではない。若さまと共におり、お支えすることこそが、忠義だろう。俺のご先祖も、わかってくれる。今、するべきことをせぬほうが、不忠にして不孝だ。には…墓で、頭を下げよう。

 こみあげる寂しさを、石頭斎は、そう考えてやり過ごした。

 ――俺は、義道公を最後までお支えすることをできなかったのではないか。

 という悔恨も、

 ――西国出身のは、俺以外はえんのない東国の見知らぬ土地に眠っているのだぞ。俺がいなくなったら、あやつはまた一人きりとなってしまうではないか…初めて会ったときに、あんなに心細く泣いていただ。寂しい思いを、またさせるのではないか。

 という苦悩も、彼は胸の中におさめて鍵をした。今まで当たり前であった未来…『俺は、くたばったら、の隣に眠るのだ』という、ばくとした望みも、潰えてしまうかもしれない…いや、もう叶わぬ夢だろう。

 石頭斎は、若さまのように軽やかに旅立てる齢になかった。彼は、来し方の長さゆえに、さまざまなものを背負っていた。

 ――しかし、これより他に道はなし。

 このまま、今のままの生活を続けていけば、緩慢な滅びが待ち受けている。それがわかるから、石頭斎は若さまと他所よそへ打って出ることにしたのだ。

 ――思えば、不思議なめぐりあわせだな。

 今年で齢・五十を数える石頭斎は、その昔、若さまと同じように、

 『ここを抜け出して、己の才覚が世に通じるか、試してみたい…』

 そう思ったことが、あった。しかし、彼は滝野家を支える井澤家の跡取りであったために、これを諦めたのだった。あの時の鬱屈は、今も覚えている。


 『俺に課せられた日々の鍛錬、勉学、これらは世に埋もれるためにあるものではない。なのに、なぜ井澤の家は、俺をここに縛り付けるのですか!』

 その思いを父にぶつけたとき、父はなんと言ったか…

 『刀だって、手入れをせねば人は斬れぬ。人だって、鍛錬をせねば役には立たぬ。いざという時、なまくらでどうするのか』

 たしか、そう言われた気がする。あの時は、

 『俺は刀ではない! 心があるのです!』 

 憤然…そう叫んだものだ。


 今、思えば…もしかしたら、俺が放ったあの言葉は、昔の父が祖父に言った言葉かもしれぬ。父が放った言葉もまた、祖父が言った言葉かもしれぬ。

 そんなふうにして代々つないできた井澤家の武芸も、ついに役に立つときが来たようだ。

 ――まあ、あれだ。『五十にして天命を知る』(※1)とも言うしな…そんなことも、あるやもしれぬ。

 若さま・滝野義直の挑戦は、彼のみのものではなかった。



(※1) 『五十にして天命を知る』 論語より。


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