第8話 愛鷹山(8)


 伽藍がらんを出ると、蕭々しょうしょう――つめたい風が体を打った。空には、灰色の雲が重く幾重にも垂れこめていた。

 境内に散った、色褪いろあせた紅葉をかさかさと踏み鳴らし、

 ――秋も、もう終わりだ。ここいらが潮時しおどきやもしれぬよ。

 そんなことを、伯言は思った。

 あまりに想定外の出来事が起こった。彼にとってのいちばんの痛恨は、危難の渦中にありながら、それに気がつかなかったことであった。

 ――わるいやつじゃないんだけどな。いろんなことを、真面目に、しっかり考えてよぉ。情もある。人それぞれを尊く思っていなければ、あの義憤ぎふんはないぞ。いいやつだ。

 細川政元という男について、伯言はそう思った。そして彼は、おのれが政元と同じ年頃のときに何を考えていたか、思い起こしてみた。

 ――だめだ。『辛かったけど、楽しかった』としか…それしか、思い出せない…

 いくら考えても、それだけであった。

 そうだ。あの時、彼の母はまだ生きていた。既に、父は亡くなっていた。そうして、彼の妹は可愛くて、夢見るさかりで…あの頃の彼は、『母と妹がいつまでも穏やかで、幸せに暮らせればいいな』と願い、『そのためには、俺に銭があったほうがいいな』と理解しながらも、銭とは縁遠かった。あんなに慕っていたのに、銭はどうして彼をよけていったのだろう。

 また、彼は『若くてきれいなおねえさんにな』と望み、じっさい、若いおねえさんに熱をあげては、だまされたり泣かされたりもした。あんなに恋していたのに、女たちはどうして彼から逃げ去っていったのだろう。女に泣かされる彼を見て、周りの男どもは、みんなで首をかしげたものだ。友は、彼を『いい男だ』と思っていたし、舎弟どもは、彼を『いいおとこだぜぇ、うちのあにぃは』と敬っていた。兄ぃは、顔だって悪くない。いい男のはずのうちの兄ぃが、なぜもてない。鉄の拳で、野郎どもをぶちのめし、ひいひい泣かすことのできるうちの兄ぃが、なぜ女に泣かされるのだろう。

 なにはともあれ…ガキの頃から腕っぷしが強かった伯言である。野郎との喧嘩で負けたことは、ついぞなかった。『俺の生きる道は、どう考えたって腕力だけだろう』…その頃から伯言はそう思っていたし、周囲もそう思っていた。伯言は己をよく知っていたことになる。『百戦殆ひゃくせんあやうからず』だ。なのに若いおねえさんに『百戦殆ひゃくせんあやうからず』とならなかったのは、女のことを、けっきょく何も理解できなかったからだ。これが、当時の伯言の知力の限界であった。おしまい。

 ――ほんっとうに、あの右京太夫様とちがって、なんにも考えとらんかったな。

 伯言は苦笑いした。政元は、人間の本質のことを考えていた。そうして、考えすぎて、人間というものに絶望していた。

 ――頭が良すぎるんだ、あの御仁は…生真面目でもある。身分の高い人間だから、ものを考えようとしたら、いくらでもその時間がある。幼いころに見るべきでないものを見、聞くべきでないものを聞いた…あれだけ察する力が強いのだ。天下をひっくり返したあの大戦おおいくさをやらかした大人たちの心の内面を、幼い頃のあの御仁は、さぞ分かったろうさ…何もかもが嫌になるのも、しかたのないことだ。すべてが、悪いほうへ傾いたのだろうよ。

 政元が己に縋りついてきたときの必死な眼を、伯言は思い出した。

 逃げたいのは、逃げたその先に、よりよいものがあると信じてのことだ。

 ――あなたは、ほんとうはこの世のすべてを愛したいのではないか? この世の愚かさを呪い、この世に生きる人々を軽蔑するあなたは、『この世も、人も、本来はもっと素晴らしい』という理想があるからこそ、それと現実との乖離かいりに耐えられぬのだ。はなからこの世に期待しなければ、失望もしないさ。

 寂寥に、伯言は顔を歪めた。ここは、あまりにむなしいところだ。

 「だからといって…俺からは、なにも学ばないほうがよいぞ、右京太夫様よ。それがよいのだ。あなたが望む、俺のような生き方…それは、外道げどうの生き方だ。苦しむことになるぞ、俺のようにな」

 吹きつける風に向かって、伯言はそう独りごちた。湿り気のある風だ。もうすぐ時雨しぐれになるやもしれなかった。

 

 ふいに、伯言は足を止めた。

 山門は、もうすぐそこだ。それを抜けた向こうに、伯言がよく見知った、政元の家来の姿がある。幾多の侍を連れていた。

 名を、出端可米之介でばたかめのすけといった。政元が寺を訪れる際に、いつも随行していた男だ。

 「一緒に来てはもらえませぬか。けして粗略には致しませぬゆえ」

 「御免こうむる。そこを通してはもらえませぬか。貴公もわかっておいでのはずだ。拙僧という存在が、あなたの御主おんあるじにならぬことを」

 「それは存じておるが、かといってあなた様を逃したとあれば、主の叱責をうけるのは某でござる」

 「…とかく、せまじきものは宮仕えですな」

 あきらめた様子で、いかにもおとなしく微笑んだ伯言に、可米之介は、

 「さよう、さよう」

 そう、にこやかに頷いた。

 すると――ふいに、伯言は可米之介の背後を見つめて、愕然と叫んだ。

 「あああっ、きれいな、まっのねえちゃん‼」

 『きれいな、まっぱのねえちゃん』という言葉には、魅惑の、抗いがたい響きがあった。えええっ、と可米之介以下数名は背後をふり返った。その隙に、伯言は猛然と

 「そんなもの、おらぬではないか!」

 求めるものをみとめえず、可米之介が憤然、抗議をするあいだにも、伯言はぐんぐん走っていく。その姿は、しだいに小さくにしか見えなくなっていく。

 「れ者が。我等に怯えて寺へ舞い戻っていくわ」

 誰かがそう言い、ハハハと笑い声がおこった。

 「おいっ、この寺は出入り口は、まこと此処だけだな?」

 俄かに心配となって、可米之介は配下に尋ねた。

 「はい。間違いございません」

 「それでも心配だ。念のため、中に入って見てまいれ…いや、あのくそ坊主を、ふたたびここに連れてこいっ」

 かつがれた腹いせに、「おう!」と侍どもは寺の境内へ殺到した。『手がすべった』といって、奴を二、三発ぐらいはぶん殴る気分でいる。

 伯言は、走った。風のごとくに走った。

 すると庭に、先ほどねんごろに別れの挨拶をした住職が、ぽかんとした面持ちでこちらを見ている。『もう今生では二度と会うこともあるまいよ…』――むこうが、そう言っていたことなど、伯言は知らない。

 目配せと会釈で、「どうも!」というようなしぐさをして、彼は去っていった。

 「和尚さま、伯言さまはどうなさったのですか」

 「…意外と早く、また会えたもんじゃのう」

 和尚さまと小僧のそんな会話も、伯言はもちろん知るよしもない。まだまだ、ぐんぐんと伯言は走っていく。彼が行くところ、紅葉がぱっと舞い上がっていった。

 ついに、寺のいちばん奥へ行きつき、あとは塀ばかりとなった。すると、その手前にある見事な枝ぶりの大きな木へ、伯言は飛びついた。あれよあれよという間に、するすると登っていく。

 とうとう…塀の上へ辿り着いた。

 「とぉう‼」

 こんどは怪鳥のごとくに、伯言は塀の向こうへ跳躍した。

 塀に阻まれた向こうからは、「帰れ! 戻れ!」と叫ぶ声ばかりがする。

 それでも、まだまだ伯言は走っていく。

 ――こんなだったな。

 走りながら、伯言は思った。

 ――

 この男は、遥か昔の逃亡劇を思い出している…

 ――あのあとは、大事となったな。。たいした騒ぎにはなるまいよ…

 頭を、顔を、腕を、ぽつりぽつりと打つものがある。

 雨だ。

 ついに降ってきたのだ。なにかが終わった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る