第7話 愛鷹山(7)

 「ひどい…ひどい方だ。あなたは」

 「なに? 拙僧がひどいとは、どういうわけか」

 「あなたは、私に与えられた義務ばかりを口になさり、私に心があることを忘れています。あなたに対する私の憧れを忘れています。あなたは私をわかっていない。褒めてくれながらも、みとめてくれながらも、私をちっともわかっていない。ひどい方だ…」

 政元の、泣きながら訴えるその姿に、常日頃の自信満々たる権力者の面影はなかった。かわりに…いかにも良家の若者らしい、繊細であるがゆえの弱さがあった。

 「…」

 伯言は、面食らった様子で政元を見つめた。それへ、

 「この世を生きる者たちを救え。あなたはそう仰ります。天が望み、民が望む世ですか。太平の世…うつくしい言葉です。しかし、天はまことにそれをお望みでしょうや? 民はまことにそれを望んでいると、そう思いますか?…幼い頃にあった、あの大きな戦のことを思えば、到底そうとは思えない(※1)。時が経った今の世のありようを見ても、そのようには思えない。ここにあるのは、嘆きと苦悩です。この責め苦のような人生に、意味がありますか。嘘と虚栄にまみれた人々と群れて、楽しいとお思いですか。これが、人の世ですか。いいえ…ここは地獄です。そうでしょう」

 政元は、しぼり出すように、こう言った。僧房は、暗く静かであった。そこへ、若者のすすり泣く声が、陰々いんいん響いている…

 ――やめろ。なにもかもを持っているような男が、なんて絶望しきったことを言うのだ。

 伯言は、内心うろたえた。これほどまでに深い、むき出しの苦悩に出会ったのは久しぶりであった。なんとかして慰めたかったが、悲しいことに、伯言は政元になにかを言って聞かせるほどに博学ではなかった。さまざまな故事から例をあげて、政元の愁眉しゅうびを開かせることはから無理であった…しかし、彼は誠実さは持ち合わせていた。なけなしの知恵を絞って、懸命に、

 「たとえこの世がそのように見えたとしても、ここは、ほんとうの地獄ではないはずだ。だから、望みがあるのでしょう」

 そんなことを言った。すると政元は首を横に振り、

 「いいえ。いるのはそこに堕ちた馬鹿に阿呆、それを苛める牛頭ごず馬頭めず(※2)といったところです。救う価値が、ありますか」

 「…始末に負えぬ奴。よいのか、それで」

 伯言の声は、ついつい、厳しいものとなった。

 「…」

 政元は、暗い眼で俯いた。この男は、伯言に失望されるのはこたえるようであった。それへ、

 「阿呆がいても、よいではありませんか。馬鹿がいても、よいではありませんか。そうして、俺も阿呆かもしれない、馬鹿かもしれない…そう思えたら、しめたものです。『少しは俺もこの世のことがわかるようになってきた』と、そうは思えませんか。そうやって楽に生きなさい。人々を苛める牛頭馬頭がいたって、あなたはそやつらに命令できる立場にいるようなものではありませんか。あなたは、右京大夫という地位があり、言うことを聞かぬ奴を、ぐうの音も出ぬほどにねじ伏せることのできる、頭脳がある…すべての人に、あなたの力があるとお思いか。拙僧から、お願いがござる…この場を去り、してほしいことがあるのです。この世にうっかり生まれてきて、『やっぱりここに来るんじゃなかった』と泣いてる赤子を、いつか『やっぱりここに来て良かったなあ』と笑わせてはもらえませぬか。ついでに大人も、『この世も捨てたものでもないな』と笑わせてくだされ。そうすれば、後の世を生きる者のために今まで死んでいった者も、これ以上泣くことはないでしょう」

 伯言は、心をこめてそう説いた。すると、政元は彼を見つめ、

 「そう仰るならば、教えてください。なぜ人は人を汚せるのですか。なぜ人は人を欺くのですか。なぜ人は人を殺すのですか。誰かに刃を振り下ろすそのとき、そやつの死を嘆く親の姿が見えぬというなら、人は心を持ってなどいない。そやつの帰りを待っている女の泣く姿が見えぬなら、人の情など、塵芥ちりあくたに等しい。地獄を恐れながらも刃をふるう武者どもは、どんな宿縁でそうなった。この世は、そんなろくでなしの者どもの集まるところです。めだと思う。こんないやらしい、汚らしい世は、嫌だ。もうここに、いたくはない」

 辛い眼差しで、そう言った。

 「たかだか三十年たらずしか生きていないであろうあなたが、この世をそう言うには、早すぎませんか」

 「いいえ…お聞きください。そうすれば、あなたもわかってくれるはずです。私はこの生まれのせいで、幼い頃より戦やの中で生きてまいりました。いかに他者を欺き、蹴落とすか…どうやって他者をうまく殺すか。そればかりを思う人々の姿を見せられてきたのです。あなたなら…そう、あなたなら、私がどんなに辛い思いであったか、わかってくださるはずです。そうでしょう」

 「…」

 政元の眼差しを受けて、伯言はうろたえた。

 ――やめろ。なんて眼で、俺を見るのだ。そんな救いを求める眼差しで俺を見るな。俺に、お前を救うすべはない…

 そんな彼に政元は、

 「それだけではないのです。私が長じて女を抱ける齢となると、さまざまな者が、自分の娘を差し出そうとしました。己が手塩にかけた娘の、その心など関係なしにです。親の情とはなんでしょう? 親子の情…私は、これだけはだろうと思ってきたものがと知ったのです。自分の手駒とするためだけに、娘を育ててきたのでしょうか、薄汚れたやつ! そして、父親になにを言われたか知りませんが、その娘が私に向ける媚びた眼差しの、打算に満ちた汚らしさといったら! 男女の情愛など、そんなものかと思いました。いえ…の部分がないのですから、愛とも言えますまい。唾棄すべきものだ」

 最後は、吐き捨てるように言ったことだった。そうして暗澹たる表情となった伯言に、

 「もう…もう、たくさんです。私は、この穢土えどから救われたいのです…どうか、私を救ってください。私が欲しいのは、人の世の功ではありません。救いです。私は、このけがれきった世から、抜け出したい。きよらかなところへ、行きたい――あなたは、。私は童のとき、あなたの姿を都の街角で見たことがあります。次に見たのは、元服する少し前のことでした。あなたは、あの当時のままの若々しさだ。あの時と変わらない、清らかな面差しだ。どうか、私を弟子にしてください。ここでないどこかへ、連れていってください」

 こう頼み込んだ。

 「…」

 伯言は、ぞっとして息を呑んだ。

 「あなたの教えをうけ、あなたのような存在になりたい…あなたのように生きたいのです。私が欲しいのは、人の世の功ではありません。あなたという存在を知ってしまっては、そんなものは色褪いろあせました。私は、あなたに光明を見たのだ。このうえは、今の人の世に、なんの未練がありましょうや」

 「…始末に負えぬ奴。よいのか、それで」

 伯言は、悲しげに言った。政元はそれへ縋りつき、かき口説いた…

 「都を去るというのなら、私も連れて行ってくださいっ! あなたは人の世に生きる窮屈さを知らない。輪廻の輪から離れたお方だ。私も世の断ちがたいから抜けて、あなたのように生きてみたいのです。あなたと共に、生きたい…共に旅が出来たら、どんなに素晴らしいでしょう。あなたと道なき道を歩み、雄大な山河を行くのは、どんなに愉快でしょう。どうか、私を弟子にして、その道を教えてください…」

 すると、憤然――伯言は彼を突き飛ばし、大喝した。

 「…は、あなたが思うような、良いものではないっ! 帰りなさいっ!」

 「後生です! どうか…」

 「帰れっ!」

 こう政元を怒鳴りつけた伯言の形相は、じつに恐ろしいものであった。

 悄然――政元が帰っていくと、伯言はただちに荷物をまとめて、住職にこれまでの礼を言った。

 「さきほどは、なにがあったのですか」

 伯言の大喝は凄まじく、政元が泣いて帰ったので、住職はおろおろしていた。これには答えず、

 「右京大夫さまを怒鳴りつけた拙僧がいては、あなたやお寺にご迷惑がかかるでしょう。都を去ります。今までありがとうございました」

 伯言は、深々と頭を下げた。

 「また…都にいらしたら、寄ってください」

 なにかを察しているだろうに、そんなことを住職は言った。これに、伯言はなんとも爽やかなものを見る目で、

 「…いつまでも、息災で」

 そう言い残して、去った。その後ろ姿を見送りながら、

 「ああ、忘れがたい人であった。もう今生では二度と会うこともあるまいよ…」

 ぽつりと住職は呟いた。

 「和尚様。あのお方を捕らえておかなくてよいのですか? あとで、『なぜ逃がした』と、私たちが右京大夫さまに叱られませんか」

 傍にいた小坊主が、な口をきいた。

 「…どうやって止めるのだ。あのお坊さんを捕らえるのはな、都中のお侍を集めても無理というものだ。みんなみんな、死んでしまうぞ。なあ…あのお坊さんは、おまえに優しかったろう。そんな口をきくんじゃない」

 住職は、小坊主をそうたしなめたことだった。  

 その後は、大騒動となった。


 (※1) 応仁の乱(1467~1477年)。

 (※2) 地獄の獄卒。

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