第5話 愛鷹山(5)

 「ときに――こんどはお前の話をしよう。お前のその見識は、なるほどたしかに一田夫いちでんぷが抱くには危険なものだ」

 ようやく石頭斎が落ち着くと、盛時はそんなことを口にした。

 「はい」

 「しかしな、俺はお前と話せば話すほど、こう思うのだ。お前はそもそも、一田夫ではない。まるで既に幾人もの忍びを使って、天下の形勢を自在に知りえているかのようだ。お前はどうやって、そうした情報を得ている?」

 彼が石頭斎を見る眼には、好奇心や期待が込められていた。さきほど石頭斎は、己が主のいかにも若者らしい溌剌はつらつたる野心を、どのような言葉で言い表したろう。今、これと同じような思いを、盛時もまた抱いていた。彼は己のうちに、若者の頃のような凛凛たる闘志をみとめて、いたく満足した。このような情熱を抱いてこそ、彼は生きていることを実感できるのだ。

 身体が飯を食らわずには生きていけぬように、盛時の心は戦いを欲した。そうした彼の嗜好は、流血に向けられたものではない。無秩序の戦闘など、彼には下の下の将のすることに思えた。それよりも、己が頭脳によって組み立てられた素晴らしい筋書きを経て、目的が達せられる瞬間の、何とも言えぬ達成感といったら!…それは、なにごとにも代えられぬものだ。 

 さきほど石頭斎は小鹿範満討伐のことを言っていたが、確かにあれは上手い具合にことが運んだ。

 範満の住まう駿河館を襲ったあの時…今川家の家中の反範満派を集めて、駿河館を襲わせた際、「敵は同じ今川の家臣だ」ということに愕然とした範満の家臣たちの刃は鈍った。そこへ間をおかず、盛時の指示通りに竜王丸派の人々は声をあげたのだ…

 「竜王丸さまは、家臣を愛される方だ! 武器を捨てよ! 捨てた者は罪に問わぬと、竜王丸さまの仰せだ!」

 各々の得物を地に捨てる音が、そこここで鳴り響いた。その音が耳に届くたびに、盛時の心が喜びにうち震えた…

 ――うまくいった! うまくいった! 敵の兵力を削いだぞ!

 範満が切腹したのは、味方がつぎつぎと投降してゆくのを見て、勝ち目がないと悟ったからだ。

 人の心を攻める。智謀をめぐらせて、敵を倒す。それが上手く行われたときの歓喜こそが、天が盛時に与えたもうた、なによりの褒美であった。この味を知ってしまっては、他の喜びは色褪せた。


 そんな盛時は、近ごろ或る欠点を己が家臣団に対してみとめて、人知れず悩んでいたのである。

 彼の家臣は盛時の数々の成功をみてきたため、皆、主の知恵や判断を最も良いものとから思い込むきらいがあるのだった。それはなにより盛時の判断の的確さを物語るものであったし、彼等家臣のあつい忠誠心の賜物といえたが、こうした思い込みはの視界を狭くして、いつかに危険をもたらしはしないだろうか?…盛時には、そう思えるのだ。

 おまけにここは、伊勢氏とは地縁のうすい関東の地だ。彼等主従は、この土地で新参者と言っていい。今は盛時と志をともにする今川家家臣の人々が助けてくれているが、いつまでその人脈を使えるかどうか…彼等はに忠誠を誓う者たちであって、にではない。これからも彼等は、変わらずに盛時の仲間でいてくれるだろうか? 

 ――いいや。今川家と俺とで利益が相反する事態が起きたとき、今川の家臣たちは俺と俺の家臣を見捨てるだろう…小鹿範満に対して、してのけたように、な…

 今はまだ何もないが、ここは伊勢主従にとって、たやすく危地となりえた。いつまでこの地にいるかは別として、ここで己が身を守るためには、この土地の人々への理解が必要だ。日本は広い。それぞれの土地で、人々の気質も違う。ここの土地のものが何をいちばん尊ぶか、何をいちばん卑しく思うか…それを知っておかねば、つけいる術がない。戦いようもない。しかし、それにはどれほど長い時間が必要だろう? 一朝一夕では、得られるものではないだろう…

 ――知恵が欲しい。この地で生き抜くための知恵が。人のかたちをした知恵がよい。俺より、うんと齢が上の男がよい。世の中の、さまざまなことを見てきた男がよい…

 盛時は、そう思った。

 彼には責任があるのだ。主たる盛時の判断によって、彼についてきた家臣たちはもちろん、その家族の運命も決まる。盛時は、己が責任の重さを痛感していた。今の己がとりえる、最善の判断をしたかった。だからこそ、彼は人を欲するのだ。この地の者で、しかも盛時の心からの味方になって、争いのやまぬこの地の昔から今までの社会情勢を分かりやすくかみ砕いて教えてくれる。長年暮らしてきて理解している、この地の人々への理解を、惜しげもなく開陳かいちんしてくれる。もし盛時が悪手あくしゅを打ちそうな時には、うまい言い方で諫めてくれる――そんな人物を、彼は喉から手が出るほどに家臣に欲しかった。最終的な判断を下すのは盛時当人としても、良い情報と知恵をもたらして判断の助けをしてくれる、がどうしても必要だ。しかも、この人物はけして小利になびかぬ至誠の人であるべきだった。水先案内人に、簡単に裏切られたものではたまったものではない。

 ――そんな奴、今の世にいるか? どうやって探す? いたならば、三顧の礼をしてもよい、その人を…

 そんな悶々たる日々のなか訪れたのが、井澤石頭斎であったのである。

 ――ああ。が、来た。

 盛時としては、向こうからやってきたこの珍客に、内心抑えきれぬほどの喜びを感じていた。

 井澤石頭斎――抜け目がなく世知にたけているくせに、清い心のこの男が自分の麾下に加われば、これからどんなにか面白く素晴らしい日々が待っているだろう!

 それを考えただけで、盛時の心はふるえた。さきほど、この男は盛時を漢の高祖に重ねていたが、その劉邦は張良に初めて出会ったとき、どんな感情を抱いただろうか?

 ――今の俺と同じ気分になったろう。嬉しくて嬉しくて、しかたなかったろう。誰もいなかったら、その場で快哉を叫んでいたくらいだ。

 石頭斎当人は思ってもみないことだが、彼の訪れは、そこまで盛時を熱狂させていた。

 先ほどの身の上話で、石頭斎は己は長く武蔵国の南端・登谷のぼりやというところに住んでいる、と言っていた。石頭斎は、大事な若さまの仕官先を探すために、さぞや近隣の国々のさまざまな権力者のことを調べたろう。『長鋏ちょうきょうよ帰らんか』とこちらが言っただけで孟嘗君もうしょうくんの名を口にした石頭斎は、無学の人ではない。もちろん、孫子のあの有名な言葉、

 

 『彼を知り己を知れば百戦殆ひゃくせんあやうからず』


 それを知っている。いままでに知った彼らのことを、これから惜しげもなく盛時に教えてくれるだろう…それが、若さまのためになるからである。

 すると石頭斎は、いささかの悪そうな顔をした。そうして、

 「これから申し上げることは、なんとしても内密にしていただきたく――」

 そう前置きをして、重い口を開いた。



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