第4話 愛鷹山(4)

 盛時は、しばらくのあいだ身動ぎもせず、この自分よりもいくまわりも年上の人物を見つめていた。はたから見ると、この主従を家来に迎えるか否か――ただそれだけを思い悩んでいるように見えた。

 この静かな様子の殿様の胸に、激しい悲憤や慨嘆がいたんが渦巻いていると…誰がわかるだろう。それは、かつて盛時が感じたことのないほどのものであった。その場に居合わせた者はごく少数であったが、誰もが心を動かされたようすで、身動ぎもしなかった。石頭斎のした昔語りは、あまりに悲しく、美しかった。

 盛時は、いま耳にしたことをけして忘れまいと心中しんちゅうでかたく誓ったが、

 ――これらのことは、忘れたくても忘れられぬだろう…

 そうも思うのだ。

 しかし、伊勢盛時は幼少の頃からさまざまな大人に囲まれて育ってきた男であった。その経験から、己の感動のすべてを目の前の石頭斎や家来にさらけ出すのはよくないことだと思っていた。ために、かえって平生へいぜいの声で、

 「おもてを上げよ。お前の話は、あまりに人の心をかきたてるがゆえに、と人にあやしまれるであろう」

 わざと、そう告げた。

 「は…」

 「俺は、或るお方がつい先日に俺の夢枕に立たねば、今の話を信じなかったぞ」

 包み隠しても、どこか笑みを含んだ、あたたかい声となった。その様子に小首を傾げる石頭斎を小気味よさそうに眺め、盛時はこう告げた。

 「いかつい大鎧をまとうた、なんとも凛々しい様子の武者が、俺の夢に現れてな。


 『近々ちかぢかお前のもとへ、俺のすえから使いが来るであろう。その者の願いを聞いてやれ。もし聞いたなら、お前の一族を俺が守ってやろう』


 と――そう仰せであった…そのお方は、俺がかつて見たこともないほどに秀でて美しく、かといって柔弱さは微塵もない。話しぶりからして、蛮勇の人とも思えぬ。あるのは、知性に裏打ちされた武勇と見た。つまりは、武士の理想そのものだ。およそ人とは思えぬお方だ。戦の神だろう…」

 「はあ」

 石頭斎は驚きのあまり、ぽかんと口を開けている。 

 「『まことか』と言いたそうだな、石頭斎よ。俺もな、あまりのことゆえ『まことにございますか』と聞いてしまったのだ。畏れ多くも、な…」

 「はあ」

 「するとな、あの方はなんともあたたかな笑みを含んで、


 『まことだとも。俺を誰だと思っている。たとえお前たちに危急存亡のときが訪れようとも、なにするものか。この俺が、再びこの世に現れて助けてやってもよいほどだ。お前たちさえ裏切らなければ、日本ひのもとすべてが敵となっても、お前たちを守りぬいてみせようぞ』


 …そうとまで、仰せであった」

 「はあ…」

 呆然――石頭斎は、盛時の言葉に聞き入っていた。

 やがて、その二つの眼から、つぅーっと涙が零れた。これまで『若さまのおんためっ』と張りつめていたものが、一気に解けてしまったらしい。

 「井澤石頭斎よ、お前に尋ねる。この戦の神に、心当たりがあるか」

 「はい、…はい…ございます…ございますとも――そうですか。であればこその、このとんとん拍子びょうしですか」

 呟くようにそう言って、石頭斎は、また滂沱ぼうだと涙を垂れた。そんな石頭斎に盛時は、

 「…お前のような忠義者なら、このようなことが起こって男泣きをするのも仕方ないな」

 あたたかく、そう声をかけた。

 「ううう…申し訳ございませぬ」

 「…涙もろいのう」

 「ううう…」

 石頭斎の涙は、なかなか止まらなかった。無理もない。石頭斎当人は、若さまのおんために四面楚歌のところへ飛び込んだ心地でいたのである。ところが、思いもよらない加勢が現れて、一気にお味方大勝利となってしまった。

 「ううう…」

 五十を過ぎたおじさんの涙を見せられて、最初は好ましく見守っていた盛時たちだが、それが長く続くと、なんとか泣き止ませようという気になった。盛時から目くばせをされた大道寺太郎だいどうじたろうという男が気をきかせて、

 「さあ、もう泣き止むがよいぞ。殿の御前じゃ」

 「はい…」

 「別な話をいたそう。そなたが差していた刀は、ずいぶん大きな業物わざものであったな。あれは、元は太刀であったものではないか?」

 大道寺太郎――これなる盛時の腹心は、あの刀を見たときに主と同じ感想を抱いていたのだろう。そんなことを、問うた。

 「…ご明察にござる」

 石頭斎は頷き、目頭をおさえながら、刀の謂れを語りはじめた。はからずもそれは、さきほどに彼がした昔語りの続きとなった。

 「誰か――こやつから預かった刀をこれへ…」

 思い立って、盛時は命じた。石頭斎の刀は、念のためにこちらで預かっていたのである。

 「これが、その刀か…――」

 まじまじと、伊勢の主従はそれを見つめた。

 「。手にとって刀身をご覧になりますか」

 親切心から、石頭斎は言った。盛時はその気になって手を伸ばし…考えなおしてそれをひっこめた。

 「…いや、やめておこう。俺はこれの元の持ち主の気性を伝え聞いている。今の話を聞いてしまえば、なおさら俺が触れてその御仁の思いを汚すのはならぬとわかる。石頭斎、お前が手にして、俺たちに見せてくれ」

 「なれば…」

 命じられるままに石頭斎は己が刀を鞘払い、皆によく見えるように刀身をかざした。

 「ああ、見事…――」

 「これ以上の大きさであった太刀を、おそらくは軽い棒きれのごとくに振り回していたのでござろう。戦場での、かの御仁のあばれぶりが目に浮かぶようでございますな」

 「さよう、さよう」

 人々は、降ってわいた眼福がんぷくを喜んだ。

 やがて盛時はしみじみと、――

 「『絶えて久しくなりぬれど』と思われていた滝の音は、人知れず東の地でなお聞こえていたのだな(※1)。あとは再び名を成すのみぞ。滝のみならず、そのまでが喜んでくださるならば、この盛時、望外の幸せだ。よろこんで力を貸そう。家臣に取り立てるゆえ、滝野の若さまを連れてくるがよい」

 遠い昔に思いを馳せた眼で、そう言った。これに石頭斎は平伏し、

 「ははあっ、ありがたき幸せっ。まことに…まことに、ありがたく…」

 何度も何度も、謝した。

 「もう泣くなよ」

 「はい…さきほどは、まことに申し訳なく…」

 そう答える声が、また涙に濡れている。

 「石頭斎。お前の忠節はたいしたものだ。よくぞ俺のところに来てくれた」

 「ははあっ」

 盛時から心のこもった言葉をかけられて泣きたくなっても、「泣くな」と言われているので懸命に涙をこらえているのだろう。石頭斎の肩が、ぶるぶる震えていた。


※1 滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ 大納言公任

   (百人一首)

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