第2話 愛鷹山(2)

 部屋に落ち着き、ひととおりの挨拶を済ませると、井澤石頭斎はかたちを改め、

 「滝野家は、古い名家ながら、人に忘れられ、今は零落れいらくしております。わが主・滝野義直たきのよしなおは、十六才と未だ若いながら、性は剛胆にして深慮あり、お側に仕えてきた某の眼から見ても、『さすがは…』と思うような人物です。お殿さまに家来へと取りたてていただけましたら、必ずや懸命につとめを果たし、お役に立つことでありましょう。そのときは、某もご恩に報いるべく、お殿さまへ犬馬けんばの労を惜しみませぬ。どうか、我等を麾下きかにお加えくださいっ」

 そう言って、深々と頭を下げた。緊張はなはだしいのだろう。声が、震えていた。

盛時は、その懸命なさまをじっと見つめ、

 「俺は、今川家の並みいる諸将のうちの一人に過ぎぬ。なのに俺のもとで働きたいとは、どういうわけか。また、よそにはいくらでも他に誉れある武門ぶもんの名家がある…それをさしおいて、なぜ俺のところへ参った?」

 そう問うた。

 「それは…おそれながら、あなたさまを見込んでこそですっ」

 「ほほう」

 「その誉れある家の主の方々と、某の目の前のあなたさま。ご器量で秀でているのはあなたさまと思うて、お願いに参ったのです。甥御を現在の今川家の当主になさったあなたさまの手腕(※1)は、お見事というより他にない…お願いです。後生ごしょうです。『今をおいてときはなし。あなたさまをおいて我等があるじと仰ぐべき人はなし』とまで、某は思いつめているのです。どうか…どうか、若さまをご麾下にお加えください…」

 駄目といわれたら、「若さまに面目めんぼくが立たぬ」と腹を切りかねない勢いであった。

 その様子にいささか面食らい、

 「ずいぶんと大仰おおぎょうな。『今をおいて秋はなし』とは、どういうわけでお前はそう思うのだ」

 盛時は、

 ――こんなに大まじめの相手に悪い…

 そう思いながらも、ついつい笑ってしまった。

 その苦笑が、石頭斎の口から出た次の言葉で、一気にかき消えた。

 「もうすぐ、お殿さまは戦をなさることでしょう。ずいぶん大きな戦です。我等は、その前にお殿さまの家来になって戦で手柄を立てねば、落魄らくはくの身から浮かび上がれませぬ。残念ながら、我等主従は、大軍を率いて馳せ参じてお殿さまを喜ばせることはできません。我等が集められる兵など、雀の涙です。我等には、才覚と赤心せきしんしかないのです。今でさえ、こうしてお殿さまに直々じきじきにお目通りがかなうのは、たいした僥倖ぎょうこうです。取り立てていただくよう、こうしてお願いができるのは、望外ぼうがいの喜びです…しかし、戦が終わってしまえば、もうだめです。こんなことはもう起こりますまい。お殿さまはさらに立派になり、周りには人がさらに集まってくる。そうなれば、某のような者など、もうあなたさまの目には入りますまい。我等の望みは、絶たれます。まさに『今をおいて秋はなし』なのです」

 己が千里眼を持っていて、何もかもわかっているかのようなことを、石頭斎は言った。そのうえで、どこまでも真摯であった。そばに控えていた盛時の小姓が、まるで神がかりでも見るかのような胡散臭うさんくさい視線を、彼にくれていた。

 「そうか…お前から見た俺は、なにかずいぶんと大した者のようだな。お前のように思う者が、この地にいるのか。いや、愉快愉快」

 そう言いながら、盛時の眼は笑っていない。

 「お前は俺が戦をすると決めてかかっている。そして勝つと今から決め込んで、慌ててさえいるな。そんなお前の思い込みに水を差すようだが、戦の勝ち負けはやってみなければわからない。どちらも『当方が勝つ』と念じてするものだぞ。第一、見ず知らずのお前たちに手柄を立てさせるために俺に戦をせよという、そんな馬鹿な話はあるまい。そもそも戦は相手が必要だ。俺が戦う相手は誰だというのだ」

 「今、ここで申してよろしいのですか」

 石頭斎は周りを気にして、そう問うた。

 「かまわぬ。ここにいるのは、腹心のものばかりだ」

 すると石頭斎は、ちらと庭へ視線を泳がせ、意を決した様子で、

 「今の堀越公方(足利茶々丸あしかがちゃちゃまる※2)さまです。もう、そんな話が出てくる頃だと、某は思っております…長く幕府の中枢にいて、いまの上様の背後においでの方と面識がおありの、あなたさま。今川家にご下命が行く前に、あなたさまと右京大夫(ここでは管領・細川政元※3のこと)さまでお話があったものと、某は踏んでおります」

 盛時は、石頭斎の言葉を否定も肯定もしなかった。石頭斎の人となりを確かめようとじっと見つめ、こう尋ねた――

 「なぜ俺が、おそれ多くも足利将軍家に連なるお方を討たねばならぬ。また、そういう決心を上様がなさったとして…今川家になぜご命令が下ると思う。扇谷上杉おうぎがやつうえすぎ家だってあるではないか。それにな、仮にご命令が今川家に下ったとして…今川家には、有能なる家臣が綺羅星のごとく集っておるぞ。なぜ俺が戦に行くとわかる」

 石頭斎のおもてに、どこか情けなさそうな表情が一瞬ゆらめいた。

 「これが、あなたさまの戦だからです。茶々丸さまは、あなたさまの敵です。茶々丸さまは、あなたさまの領地の一部を、勝手に他の者に与えてしまいましたな」

 「ふむ」

 「なお言えば、茶々丸さまが、今の上様の母御と弟君を殺して堀越公方の地位についた方だからです。上様としては、一日でも早く仇討ちをなさりたいことでしょう。右京大夫さまも、ああいうご気性です。せっかく据えた上様が、『ご家族の仇も討てぬ…』と天下の諸侯に侮られるのは、我慢がならぬでしょう…こうして、『茶々丸さまは、若く翼がまだ生えそろわぬ今のうちに討っておいたほうが良い』と、三人の偉い方々の意見が一致したのです。あとは、血の雨が降るだけです――某は、若さまのおんために、某なりに知りうる限りのことを調べてまいりました。後生ですから、もう某を試すようなことも、茶化すようなことも、言わんでくだされ」

 己よりずいぶん年長の男の、このなんとも真っ直ぐな言葉に、盛時は表情をやわらげ、

 「そうか…あいわかった。ただな、このような立場にいるとさまざまな有象無象がやってくるのだよ。その心根を知らねばならぬ。『長鋏ちょうきょうよ帰らんか』(※4)、などとは言わんでほしい。俺は、誠の心を尽くしてくれる者には、誠の心で応えるつもりだ。これからは腹を割って話そう」

 「ありがたき幸せにござる。そのうえで、どうか先ほどのお願いを聞き届けてください。某は孟嘗君もうしょうくんと話しているつもりはないのです。漢の高祖こうそと話している心地なのです」

 「また大仰な」

 「漢の高祖のもとで諸侯に封じられた者たちの中には、元は身分の低い役人、あるいは肉屋のたぐいまでおりました(※5)。それがなぜ、ああまでのぼりつめたのか。草莽そうもうの頃より、高祖に従っていたからです。世に忘れられた我々がふたたび浮かび上がるには、高祖がごときのお方にできるだけ早くに従い、手柄をたてることが必要なのです。さきほど申し上げましたな。『あなたさまをおいて我等が主と仰ぐべき人はなし』と…」

 石頭斎は、言いきった。これを聞いた盛時の眼になんとも怜悧な光が宿り、口元が奇妙に歪んだ。

 

※1 伊勢盛時の姉(北川殿)は今川義忠に嫁ぎ、竜王丸(のちの今川氏親)をした。文明8年に義忠が戦死すると、幼い竜王丸に代わり、義忠のいとこにあたる小鹿範満おしかのりみつが「竜王丸が成人するまで」の約束で今川家の家督を継いだ。しかし竜王丸成人以降も範満は家督を返さなかったため、伊勢盛時は竜王丸派の人々を率いて範満を襲撃し、自害においやった。 


※2 足利茶々丸…堀越公方・足利政知の長男。


※3 細川政元…「明応の政変」と呼ばれるクーデターを起こし、足利義材を将軍の座から追いやって、代わりに足利政知の子・足利義澄を擁立した。


※4 中国の戦国時代の故事。斉の宰相である孟嘗君の食客・馮驩ふうかんは、己の食客としての待遇を不満に思い、長剣(長鋏)を叩いて、「長鋏よ帰らんか」と歌った。


※5 漢の建国の功臣・簫何しょうかはもとは役人、樊噲はんかいは肉屋であった。

 


 


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