第2話 愛鷹山(2)
部屋に落ち着き、ひととおりの挨拶を済ませると、井澤石頭斎はかたちを改め、
「滝野家は、古い名家ながら、人に忘れられ、今は
そう言って、深々と頭を下げた。緊張はなはだしいのだろう。声が、震えていた。
盛時は、その懸命なさまをじっと見つめ、
「俺は、今川家の並みいる諸将のうちの一人に過ぎぬ。なのに俺のもとで働きたいとは、どういうわけか。また、よそにはいくらでも他に誉れある
そう問うた。
「それは…
「ほほう」
「その誉れある家の主の方々と、某の目の前のあなたさま。ご器量で秀でているのはあなたさまと思うて、お願いに参ったのです。甥御を現在の今川家の当主になさったあなたさまの手腕(※1)は、お見事というより他にない…お願いです。
駄目といわれたら、「若さまに
その様子にいささか面食らい、
「ずいぶんと
盛時は、
――こんなに大まじめの相手に悪い…
そう思いながらも、ついつい笑ってしまった。
その苦笑が、石頭斎の口から出た次の言葉で、一気にかき消えた。
「もうすぐ、お殿さまは戦をなさることでしょう。ずいぶん大きな戦です。我等は、その前にお殿さまの家来になって戦で手柄を立てねば、
己が千里眼を持っていて、何もかもわかっているかのようなことを、石頭斎は言った。そのうえで、どこまでも真摯であった。そばに控えていた盛時の小姓が、まるで神がかりでも見るかのような
「そうか…お前から見た俺は、なにかずいぶんと大した者のようだな。お前のように思う者が、この地にいるのか。いや、愉快愉快」
そう言いながら、盛時の眼は笑っていない。
「お前は俺が戦をすると決めてかかっている。そして勝つと今から決め込んで、慌ててさえいるな。そんなお前の思い込みに水を差すようだが、戦の勝ち負けはやってみなければわからない。どちらも『当方が勝つ』と念じてするものだぞ。第一、見ず知らずのお前たちに手柄を立てさせるために俺に戦をせよという、そんな馬鹿な話はあるまい。そもそも戦は相手が必要だ。俺が戦う相手は誰だというのだ」
「今、ここで申してよろしいのですか」
石頭斎は周りを気にして、そう問うた。
「かまわぬ。ここにいるのは、腹心のものばかりだ」
すると石頭斎は、ちらと庭へ視線を泳がせ、意を決した様子で、
「今の堀越公方(
盛時は、石頭斎の言葉を否定も肯定もしなかった。石頭斎の人となりを確かめようとじっと見つめ、こう尋ねた――
「なぜ俺が、おそれ多くも足利将軍家に連なるお方を討たねばならぬ。また、そういう決心を上様がなさったとして…今川家になぜご命令が下ると思う。
石頭斎の
「これが、あなたさまの戦だからです。茶々丸さまは、あなたさまの敵です。茶々丸さまは、あなたさまの領地の一部を、勝手に他の者に与えてしまいましたな」
「ふむ」
「なお言えば、茶々丸さまが、今の上様の母御と弟君を殺して堀越公方の地位についた方だからです。上様としては、一日でも早く仇討ちをなさりたいことでしょう。右京大夫さまも、ああいうご気性です。せっかく据えた上様が、『ご家族の仇も討てぬ…』と天下の諸侯に侮られるのは、我慢がならぬでしょう…こうして、『茶々丸さまは、若く翼がまだ生えそろわぬ今のうちに討っておいたほうが良い』と、三人の偉い方々の意見が一致したのです。あとは、血の雨が降るだけです――某は、若さまのおんために、某なりに知りうる限りのことを調べてまいりました。後生ですから、もう某を試すようなことも、茶化すようなことも、言わんでくだされ」
己よりずいぶん年長の男の、このなんとも真っ直ぐな言葉に、盛時は表情をやわらげ、
「そうか…あいわかった。ただな、このような立場にいるとさまざまな有象無象がやってくるのだよ。その心根を知らねばならぬ。『
「ありがたき幸せにござる。そのうえで、どうか先ほどのお願いを聞き届けてください。某は
「また大仰な」
「漢の高祖のもとで諸侯に封じられた者たちの中には、元は身分の低い役人、あるいは肉屋の
石頭斎は、言いきった。これを聞いた盛時の眼になんとも怜悧な光が宿り、口元が奇妙に歪んだ。
※1 伊勢盛時の姉(北川殿)は今川義忠に嫁ぎ、竜王丸(のちの今川氏親)を
※2 足利茶々丸…堀越公方・足利政知の長男。
※3 細川政元…「明応の政変」と呼ばれるクーデターを起こし、足利義材を将軍の座から追いやって、代わりに足利政知の子・足利義澄を擁立した。
※4 中国の戦国時代の故事。斉の宰相である孟嘗君の食客・
※5 漢の建国の功臣・
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。