滝野物語

市川楓恵

第1話 愛鷹山(1)

 その男の姿を見とめて、伊勢盛時いせもりときは、

 ――ああ。この男だ。

 そう思った。

 夢のお告げは、となった。彼のもとを訪れるといわれたその人物は、なるほどお告げのとおり、「会えば、わかる」の佇まいをしていた。

 盛時の館は、愛鷹山あしたかやまの尾根に建つ興国寺こうこくじという寺のすぐ近くにあった。このあたりは、彼の領地だ。

 彼への仕官を目指し、数日のあいだ、門番に疎まれながらも、男は館の前で盛時が通りかかるのを待っていたという。五十がらみの、実直そうな面構えであった。 

 どこか、不思議な雰囲気をしている。

 人の目を奪うのは、その腰に差した、なんとも大きな刀だ。並の刀より、二回りはある。

 ――あの形は、もとは太刀たちであったものを、今様いまように刀へ整えたものだ。

 盛時は、そう察した。

 太刀であった頃は、どのような代物あったか。これまでに、どれだけ数多あまたの人のいのちを絶ってきたであろうか。いずれにせよ、研いで短くしてあの大きさだ。もとは、化け物のような馬鹿力の男が、戦場で屍山血河しざんけつがを作るために佩いていたであろう。

 そんな妖刀を腰にさげて、これなる約束の客は、なんともすがしい、穏やかな表情を面に浮かべて立っている。

 男の背後で、沼津のおだやかな海が、日差ひざしをうけてきらきらと輝いていた。

 ――ああ、美しい。

 この海は、日頃から見ている。

 しかし、いまの水面みなもの輝きは、どうだ。はるか彼方、海と空の交わるところで、瑠璃るりの色とも玻璃はりの色とも言えない、五色ごしき七宝しちほうの輝きが見える。

 ――あそこへ、行きたい。

 そう強く盛時は願い、…不意に理解した。

 「ああ…今、決したぞ。俺は、あの場所に行くのだ」

 心に起こった激しい思いが、つい、口からぽろりところげ出た。それに、盛時当人は気づきもしない。我を忘れていた。あの煌めきが、これからの己の一生を照らすのだと、そう悟ったのだ。この男が、あの輝かしいところへ、俺を連れていってくれる。居ても立っても居られるものか。

 盛時が、これなるよそ者へ駒を進めると、近習の者たちに緊張が走った。盛時はかまうことなく男へ、

 「聞いたぞ。俺に仕えたいとか」

 すると男は、ていねいにお辞儀をして、

 「はい。今年によわい十六となる、わが主ともどもに」

 こう答えた。

 「その方、名はなんと申す」

 「井澤石頭斎いざわせきとうさいと申します」

 ――石頭…そんな故事がなにかあったか。こやつ、『石に枕し、流れにくちすすぐ』を気取った輩か。それとも『石に漱ぎ、流れに枕す』のくちか。

 聞いてみないとわからない。それで、

 「おもしろい名だな。いわれはなんだ」

 すると石頭斎は、

 「謂れですか…たいした謂れはございません。わが主が、よくそれがしに向かって、『この石頭いしあたま!』と仰るので、これは名乗りに使えるぞ、と思ったのです」

 こう、答えたことだった。

 どこか人を食ったような話だが、答えたほうは大真面目である。

 盛時はぷっと吹きだし、

 「おもしろいやつだ。少し、中で話をいたそう」

 狩に行くのをやめ、石頭斎を館に招じ入れた。

 「こんなことってあるものか…」

 これを見ていた人々は、不思議がった。この館の主が、一介の浪人と話をするために狩をやめるなど、ふだんありえないことであった。ましてや、その男を親しく館の内に招じ入れるとは。

 元来、この殿様・伊勢盛時は注意深い男だ。今年で三十八才である。あの炯炯けいけいたる眼差しは、人の心の奥底までをも見抜いているかのようだ。あの口から、間の抜けた言葉が出たことなど、一度もない。むかし京にいたころは、将軍のお側近くに仕えていたこともあるという。頭も相当にきれる。かといって、他人を寄せつけない、厳しさ冷たさのの人ではない。日頃のなにげない仕種も、鷹揚おうようで、どこか涼しげなのは、もともとがいい家の出だからだろう。

 そんな人物が、軽々なことをする筈がない。

 「なぁに。あの石頭とかいうのは、いぜんお殿様が使っていた、乱波らっぱかなんかだろうよ。それがなにかを知らせようとして、浪人を装って、むかしの主に会いに来たのだ」

 訳知り顔で、そんなことを言う家中の者もあった。

 「なるほど、そうかもしれぬ…」

 いかにもこの殿様は、そういうことがありそうな人物であった。

 しかし、結局のところは、彼等に真相はなにもわからないままとなった。





 


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