第2話

山を下りて、水田と水田の間のあぜ道を歩く。オレンジ色がだんだん暗くなっていく空を見上げながら僕は帰りみちを急ぐ。野良仕事をしている大人ももういないみたいで、遠くから聞こえる電車の音は僕に向かって響いているみたい。


走りながら暗い青になっていく空を見上げると、空の真ん中に小さな黒い点を見つけた。立ち止まってその点を見つめていると、その点はみるみる大きくなって、人の形だ、と思ったその時には、ドスン、とその影は僕の目の前に着地していた。

「え、ひる? 戻ってきたの?」思わず、僕はそう言った。舞い上がった土埃の向こう側には鍔の広い大きな帽子を被って皮のコートを羽織って皮製のダブダブのズボンを履いた、ひる、がいる。

「ひる、を知っているのか?」

ひるはおかしな事を言ってきた。

「私はひるではない。私はよかぜという」

不思議そうな顔をしている僕に気が付いたのか、ひるとそっくりなそのおじさんはそう名乗った。

「そっくりだね、ひると」

僕がそういうと、苦々しいといった表情を浮かべて、

「そりゃ、まぁ、な」

と、よかぜは言った。

「ひるとは近くで会ったのか?」

「近くっていうか、山で会ったよ」

「あいつはいつ頃行った?」

「えーっと、30分位前かな?」

「そうか」

と言うと、よかぜはひるが跳ねた時の様な姿勢になった。ググっと力をためているように見える。そして、そのままの姿勢で、

「ひるがしていた何かを見たりしたか?」と聞いてきた。期待はしてないけど、一応聞いておこうという感じ。大人のイヤな感じのセリフだ。

「木の洞に手を突っ込んでいたよ。何にも無かったけど」

イヤな感じだし、答える気もなかったけど、僕はちょっとムッとしながら、そう答えていた。

「なんだと?」

よかぜが怒ったようにそう言うと、そのコートやズボンの裾からバシューっと風が吹き出してきた。風が吹き出ると同時によかぜが込めていた力が抜けたように見える。

「頼む、そこへ案内してくれ」

屈んだまま僕のほうへ向き直ったよかぜは、子供に対してするには丁寧すぎるくらいに、でも、なにか必死な感じでそう言ってきた。

「いいけど、うちに帰らなくっちゃ、おかあさんに怒られる」

おかあさんに怒られるのは毎日の事だからいいんだけど、ひるに「内緒にしておいてくれるかい?」と言われたことを思い出したから、断りたかった。

「時間は取らせない。帰りも家まで送り届ける。こんな風に」

と、言うが早いかよかぜは僕の体を抱えていた。次の瞬間、僕は山のふもとにいた。

「え?」

さっきまで僕とよかぜがいたところに捕虫網だけが立っているのが見える。あ、倒れた。たぶん、学校のグラウンドの端から端までよりも距離がある、あそこまで。

「え?」

そう言いながら僕は顔を横に向けた。そこにはよかぜの顔がある。抱えられたままの僕はよかぜの肩越しに遠くの、さっきまで握っていたはずの捕虫網を見ていたらしい。

「私は早く動く事が得意なんだ。キミがあのまま歩いて家に帰るくらいの時間で済ませてしまえると思う。だから、頼む」

「うん……。わかったよ。案内するよ」

気圧される、ってこういうことなんだ、なんて思いながら僕はよかぜの手をほどいて山の方へ向いた。

「このまま真っ直ぐあの木まで行って……」

言い終わらない内に、僕とよかぜはその木のまん前にいた。今度はよかぜと同じ方を向いたまま抱えられていた。

「それから、こっちで……」

よかぜに抱えられながら、その速さに目が慣れる事もないままに、僕とよかぜはあっという間にさっきの大木に辿り着いていた。

「この木か」

「うん。そうだよ。たしか……ほら、この穴だよ」

僕はただ枯れ葉が積もっているだけだった、あの洞を指した。

よかぜは無言でその洞に手を入れる。すると、暗い穴にほのかな明かりが生まれた。よかぜがそこから手を抜くと、よかぜの手のひらの上にはぼんやりとした明かりが乗っている。

「なに?それ?」

見た事もない光景に、僕は小さく呟いていた。ぶにぶにと柔らかくかたまりにした水の様なものが、よかぜの手のひらの上で光りながら揺れている。その光に照らされたよかぜの目はひると違って青い。少しだけ、寂し気な、目だ。

「ひると、私のみたま、だ」

「みたま?」

「幾つかに分けた魂、我々のエネルギー源、そういったものだ」

そう言いながら、よかぜはその手をまた木の洞に差し入れた。淡い光は穴の中に入って、すぐに消えた。僕はまた同じように覗き込んだけど、やっぱりただの木の洞にしか見えない。もう暗くて、昼間に見た枯れ葉を思い出しながら、明かりなんてないなと確認するくらいしかできなかった。

「ありがとう、助かった」

そう言いながら、よかぜは僕を抱えて屈んだ。

今度は、僕は、空にいた。


「よかぜはいったいなんなの?」

薄闇の空を僕は飛んでいる。よかぜに抱えられながら。遥か下の木々は次々と後ろへ流れていく。田んぼって真上っからみるときれいなんだな、とか、風が痛くて冷たいや、とか色んな思いが生まれたけど、口から出ていた叫びはそれだった。

上昇が下降に変わり、すごい勢いで地面が近づいてくる。僕は思わず目をつむる。ボッと音がした。落ちる速さが少し弛んだ気がして目を開ける。よかぜのダブダブのズボンが膝の下くらいから開いて昔のヨーロッパの貴族のスカートみたいに膨れている。コートも背中にたっぷりの空気を包んで丸く膨らんでいる。

ドスン、と音がして、僕は地面に立っていた。目の前に倒れている捕虫網を拾って僕が振り返るとよかぜは

「この国では、天狗、と呼ばれたこともある」

と言った。


この国?天狗?天狗ってあの鼻の長い赤ら顔の?と、考えがまとまらないまま目をパチパチして僕がよかぜを見つめていると、

「仙人と呼ばれたこともあるし、錬金術師とよばれたこともある。色んな国で、いろんな呼ばれ方をした」

と、よかぜは言った。

「この国の、天狗、というのは気に入っていたな」

そう言って、小さく息を吐いた。たぶん笑ったんだろう。目が少しだけ優しくなったように僕には思えた。

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