ひるとよかぜ

ハヤシダノリカズ

第1話

「ちょっとー!おじさんのせいで逃げられちゃったじゃんか」

ジジジと鳴いて飛んで行った蝉を目で追いかけながら、僕は言っていた。

ドスンと音を立てて隣に立ったそのおじさんは、よく見ると何かがおかしかったけど、自分が蝉捕りの邪魔をしてしまった事を反省しているのか、顔を伏せ、頭をボリボリと掻いている。

「すまなかったな」

そう言いながら、おじさんは僕と目を合わせた。深い色の黒目だ。こんなに真っ黒な黒目は見たことがないな。

「まぁ、いいけど」

文句を言ってスッキリもしたし、また違う蝉を見つければいいや、と、僕は捕虫網をクルクルとまわした。

「一人、なのか?」

「そうだよ。一人だよ」

「こんな山の中に一人で来ているのか」

「そうだよ」

そう言われると、このおじさんはどうしてこんな山の中に一人でいるんだろう、どうしてドスンと音を立てて僕の横に現れたんだろうと、次々と疑問が湧いてくる。よくよく見ると、服装も随分おかしい。鍔の広い大きな帽子に皮のコートに皮製のダブダブのズボン。

「おじさんは何をしてる人なの?」

僕がそう聞くと、少し困ったような顔をしながら、少し時間を置いて、

「特に何もしていないんだ」と答えた。

「ふーん」と答えながら、こんなおじさんの事をついていっちゃいけない人って言うんだろうなと思った。


「僕は向こうに行ってみるよ」クルンと捕虫網をまわしながらそう言って、僕はそのおじさんから離れる事にした。

少し歩いてから振り返ってみると、おじさんは少し困ったような顔をしながら僕についてきた。草と葉っぱを踏む音が二つ小さく鳴っている。蝉を探すフリをしながら、どうしようかなと僕は考えていた。

大きな木があった。根っこが山をがっしりと掴んでいるようにその上辺を見せていて、歩いて近寄るのが大変だったけど、なんとなく近寄ってみようと思った。蝉の声はいたるところでしているから、この木にもいないことはないだろう。

でも、ちょっと疲れた。その大木に背中をもたれさせるように僕は座り込んだ。すると、目の前にはおじさんが立っていて、ぬっ、と僕の方へ身を寄せてきた。

僕は思わず目をつむった。でも、触られる様子もなかったので、恐る恐る目を開けてみると、僕の座ったすぐ横の木の洞のような部分におじさんは手を入れていた。おじさんは僕の方にチラリと目をくれたけど、すぐに手を抜いて立ち上がった。

「すまなかったな。怖がらせるつもりはなかったんだが」

おじさんはそう言った。

「この木に用があったの?」

「ああ。できれば、このことは内緒にしておいてくれるかい?」

僕はこくりと頷く。

「ありがとう、……えーっと少年、名前を聞いてもいいかな?」

「人に名前を聞く時は自分から名乗るんだよ?おじさん」

「そうだったな。私の名はひる。ひる、という」

変わった名前だなと思いながら、僕は「そうすけ」と答えていた。


僕はひるが手を突っ込んでいた洞を覗いてみた。カサカサに乾いた枯れ葉が積もっているだけで、特に何もないただの洞だった。振り返ってひるの方に顔を向けると、ひるは空を見上げていた。

「山は日が落ちるのが早い。そうすけも早く帰った方がいい」

ひるは空から僕に顔を戻してそう言った。

「うん。そうだね。そろそろ帰るよ」

そう言って、僕は小走り気味になだらかな坂道を下りていく。そういえば、と思って、

「ひるは、どうするの?」と言いながら振り返ると、大きな木から少し離れたところにいたひるは向こうを向いてグッと力を込めるように屈んでいた。と、思うと、ビュン、と跳ねた。素早いけど優雅に、ひるは空に向かっていた。木々の枝を綺麗に抜けて、青い空の中に小さくなっていくひるの影を僕は目で追っていた。


おとなってあんなにジャンプ出来るものなのかな、と一瞬思ったけど、そんな訳ない、何かの見間違えだろうか、でも、やっぱりあの影はひるに違いないと思いながら、僕はしばらく影の見えなくなった空を見上げていた。

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