第35話 おかえりあゆちゃん



「あっ、おかえりあゆちゃん」


 庭で植木蜂をいじりながら出迎える幼児思考の母の手元に目を止めて歩人が問う。


「何植えてんだ母さん?」

「これぇ? これはねえアサガオの種だよぉー、ママには分かるもん、麻ちゃんは絶対アサガオの絵が描きたいんだもんね、だから本物見ながらならきっと巧く描けるよぉ」


 幼い笑顔で楽しそうに作業を進める母に、息子が呟く。


「今から植えて間に合うっけ?」

「えっ?」


 なずなの手と表情が固まった。


(やっぱ母さんじゃ駄目だな、となれば……)





「っで、あたしかい?」


 大学から帰ってくるなり部屋で缶ビールをすでに三本も飲み干した蓮華は四本目の缶に手をのばしながら考える。


「そうだねえ、ぶっちゃけ母さんと歩人の予想は当たってるよ、麻香麻の奴は描きたいモノ、自分の高校美術生活の総決算にするに相応しいやつをもう決めている」


 ビールをぐいっと飲み干して、蓮華は大きく息を吐き出す。


「だけどできずにいる、描くのに躊躇(ためら)いがある。どうせ歩人はその原因も自分がどうしたらいいのかも解ってるんだろ? 何であたしのとこに来たんだ?」

「それは……」


 歩人が言葉に困ると蓮華はニヤリと怪しい笑みを見せて歩人を抱き寄せそのままベッドにダイブした。


 思わず近くにあったビールの空き缶で背中を叩くがそんなものが効く蓮華ではない。


 蓮華の部屋はそこら中にビールの空き缶や酒瓶が転がり、脱ぎ散らかした服や下着が平気で床の上に落ちている。


 壁際にはスケボーやインラインスケート、その他運動道具が立てかけてある。


 唯一綺麗になっているのはコンポとドラムセットの周りぐらいだ。


 母や眞由美が定期的に掃除しているが三日にもとに戻るらしい。


 などどいう説明はおいといて、今の歩人はランニングシャツに短パンという標準装備の蓮華に襲われ、先ほどから額や頬をキス責めにされている。


「聞いたぞ歩人、美術部の小玉織江に抱きつかれたんだってな、麻香麻の相談は口実で本当はあたしに口直しならぬ肌直しして欲しいんじゃないのか?」

「ばっ、馬鹿、人が真剣に悩んでいるのに何を言って……」

「姉さん、晩御飯ができ――」


 眞由美の声に二人は同じ方向に顔を向けた。

 そこにいたのは口をパクパクとさせたまま、みるみる顔を紅くしていく南城家次女。


「何してるの姉さん!」


 かつてない迫力と勢いで無理矢理蓮華から歩人をむしり取って眞由美は目を吊り上げる。


「エッチなのはダメっていつも言ってるでしょ! もう蓮華姉さんにあーくんは任せられない、これからは私があーくんを清く正しく誠実な人間に育てるからね」


 などと言っている眞由美も歩人の顔を自分の豊満な胸に押し付けている。


「何言ってんの、あんたなんかに歩人任せてたら一生童貞じゃん、あんたのは清らかなんじゃなくてただガキっぽいだけなんだよ」

「そんな事ありません、あーくんは私が大切に大切に育てて、それで、それで……」


 眞由美の顔の赤さが別の種類に変わる。

 擬態語で表すならば、今までがカァアアだったのが、今度はポッ、という感じだ。


「眞由美! てんめぇ歩人のガキ生むとか言ったらブッ殺すぞ! 結局てめぇもあたしと五十歩百歩だろが!」

「私と姉さんは違うの! 姉さんはただエッチな事がしたいだけでしょ! 私のとは根本から違うの!」

「眞由美、あんたそれあたしが歩人以外の男には胸触らせた事が無いっていうのを知って言ってんのか!?」


 怒喝を飛ばして眞由美と歩人の取り合いをしていた蓮華が眞由美を突き飛ばすと眞由美は歩人を左腕で抱えたまま右手で蓮華のシャツを掴み、三人揃って床に転んだ。


 ドサッ!


「痛つつ……」

「痛ったーい」

「………………」


 一応は三人とも転ばないようにと抵抗して、体勢に変化があってか、まあ、過程はこのさい考えないとして、下から順に仰向けの蓮華、腹這いの歩人、腹這いの眞由美の順で弟を具材とした見事な姉弟サンドイッチの完成であった。


 ただし、具を挟むパンにボリュームがあり過ぎるのと柔らかすぎるのが問題だが……


「二人とも大丈夫か?」

「うん、もう、姉さんが押すから」


 そんな会話も肉に覆われた耳ではさほど聞こえない。

 顔を蓮華の、後頭部を眞由美の成長し過ぎた胸で包まれて、歩人は色々とギリギリな状態で顔を火照らせた。


(俺、いつかマジで刑務所に送られるかも……)


 後(のち)に、この体勢のまま蓮華と眞由美の言い争いが一五分も続くとは知らない歩人であった。


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