第6話 比留間
朝海はガタガタと震えていた。
自身も月山と同じ道を辿ることを思うととても仕事どころではなかった。
「いや違う、殺されたんだ」
その時、社用携帯が振動し、彼は咄嗟に手を伸ばした。
直属の上司からの電話だった。
彼は激しい動悸を覚えた。
しかし、彼はその電話に出る必然があると自身に言い聞かせた。
深呼吸をし、息を整えてから電話に出た。
「お疲れ様です、朝海です。はい、ニュース観ました。はい、月山さんですか。いえ、心当たりはありません。確かに飲みにはいきましたが特に変わったところはありませんでした。はい、10時には出社しろと?ええ、月山さんの案件とお客様の引継ぎをして欲しいということですね。かしこまりました。そうですね。月山さんは尊敬できる先輩だったので残念です。事故にあったのも運が悪かったと思います。自分も気を付けます。はい、失礼します」
上司は努めて冷静を装って話していたが所々声が上ずっていた。朝海はなるべく動揺を見せまいとゆっくりと余裕を持って話すように心がけた。
上司は月山が昨日、電車に撥ねられて亡くなったこと、そのことに対して何か関係しているか、月山の仕事の引継ぎ、優秀なセールスが一人いなくなって残念なこと、朝海にはくれぐれも月山のようにならないことを抑揚のない声で言った。
朝海は当たり障りのない返事をして上司から電話を切られるのを待った。
月山のことで面倒に巻き込まれることは嫌だった。
そのため、前日に月山と飲みに行ったことを聞かれたとき、そのことに関して流した。
上司に邪推されて会社での立場を悪くしたくないという気持ちからの咄嗟の判断だった。
「本当に次は俺の番なのか?」
朝海は鏡の前で下着の上からクリーニングしたきれいなスーツを着きながら自問自答した。
ネクタイを締めたとき、彼は誰かに首を絞められたような錯覚を覚え、思わずえずいた。
ネクタイを外し、カバンに無造作に押し込んだ。
会社に入る前に付ければいいと彼は自身に言い聞かせながら歯を磨き始めた。
その途端、口の中に何か得体のしれない不吉なもやもやを感じた。
そして何度も歯ブラシで歯をこすって口をすすいでも一向にその口の中の違和感が消えなかった。
彼はやがてそれを消すことを諦め、カバンからボトルガムを取り出した。
ガムを3粒口の中に放り込み、噛み始めた。
そうすると多少、口の中の違和感が誤魔化されたのか気にならなく思えた。
ふと、スマホに目をやると時刻は8時を回っていた。
彼はいつもより早出だが時間に余裕を持って出勤しようと思った。
いつもと違ってその日は外に出ることに対して朝海は得体のしれない恐怖と不安を覚えていた。
しかし、それ以上に仕事を休んだり、ましてや仕事を辞めたりするということに対して明確な恐怖と不安を覚えていた。
降格もしくは失業、その果ての生活の破産。
彼は明確な恐怖と不安をぼんやりとした破滅と繋げて考えていた。
彼にとって今の天職とでもいうべき仕事を失うということは翼をもがれた鳥が崖から滑空しようと飛び降りるのと同じ意味を持っていた。
朝海は努めて自身の言動を正当化し、それでいて何とかなると楽観的に考えようと下手くそな歌を歌った。
「拳銃で盗みを働き、法律と俺は戦った。法律が俺に勝った。あの
朝海は自宅を飛び出すと後ろを振り返らずに最寄り駅を目指し歩いた。
普段はそれなりに距離があるので自転車を使うのだが車に轢かれたり、人を引っ掛けたりする妄想が湧いてとても自転車を使う気にはなれなかった。
自転車で10分、徒歩で20分の道を彼は早足で歩いた。
時折、振り向いて後ろを確認しようという衝動が襲った。
しかし、彼はその衝動を抑えて振り返りそうになると先ほど歌った下手くそな歌を口にしながら思った。
「誰かが俺の後をつけている?誰かが俺の命を狙っている?誰かが俺を殺そうと…。そんなバカげたことがあってたまるか。俺は誰かに恨まれるほどのことはしていない。そりゃあ、強引に案件をぶち込んだり、針小棒大に言ったりした。ある時は不安を煽り、ある時は希望を持たせたがそもそもそんなものは主観であって現実じゃない。人は具体的、客観的な絶望でなく、人は抽象的、主観的な希望を求めている。俺はそれを指示したに過ぎないんだ。そうだ。俺は別に悪いことはしていない。例えそれが悪だと決め付けても俺のしたことは悪ではなく、ただの希望的観測を指し示したに過ぎない」
彼は口にこそしなかったが自分をひたすら正当化しながら最寄り駅にたどり着いた。
彼の最寄り駅は無人駅で駅員というものがいない。
彼は駅に置いてある発券機を横目で見てから駅を見渡した。
既に電車を待っている客が5人いる。
その1人1人に目をやった。
1人は腰が曲がり杖をついた老人で眼鏡をかけ目深に帽子を被っている。
1人は大学生風の男で五分刈りの頭にヘッドセットをしてスマホゲームに夢中になっている。
1人は女子高校生で長い黒髪をいじりながら電話で誰かと話している。
1人はスーツを着て髪をワックスで七三に分けた男で営業マンなのか「絶対売れる営業マンの教え」なぞというビジネスハウツー本に顔を突っ込んでみる。
1人は小太りの中年女で今時珍しくガラケーの小さな画面を凝視して何か考え事をしている。
電車が来るまであと少し時間があることを時間表を見て確認する。
彼はポケットティッシュを出し、そこに向かって勢いよく鼻をかんだ。
鼻水の中に微量の血が混じっている。
噛んでいたガムをその上に吐き出し、グシャグシャと丸めて小さな塊にした後、ゴミ箱に向かって投げ捨てた。
その瞬間、風がどうっと吹き、塊が線路の方に飛ばされた。
朝海はそれを眺めていた。
やがて塊は線路に落ち、ころころと音を立てるように転がってやがて止まる。
朝海は塊から視線を外し、カバンから緩慢な動作でボトルガムを取り出すと一粒手に取って口に入れた。
相変わらず口の中の違和感は残っていた。
彼は時計を見ながら電車が来るのを待った。
遮断機が下りる音が聞こえる。
朝海は自身の乗るはずの電車がもうすぐ到着することを知り、再びあたりを見渡した。
電車を待つ客の人数に変化はなかった。朝海は念には念と思い、先頭車両が止まる場所まで歩いて行こうとした。
次の瞬間、腰の曲がった老人に話しかけられた。
老人は掠れた声で何かを訪ねてきたがその声があまりにもか細く朝海は老人の背の高さまでしゃがみこんだ。
老人が再び何かを言う。
しかし、老人は歯がないのか、声がもごもごとしている。
言葉がはっきりと聞こえないため朝海は片方の耳を老人に向けてその声を聞こうとした。
今度は老人の声がはっきり聞こえた。
「年齢20代半ば。男性。エリートエージェントの営業。第二新卒で転職。オフィスにてナンバーワンセールス。先日、同部署の先輩社員に飲みに誘われ、割り勘する。翌日先輩社員の死を知る。そして今ここで仕事に行くための電車を待っている」
それは明らかに自身のことを示していた。朝海はその言葉を聞いて恐怖から固まってしまった。
「あんたはいったい……」
朝海の怯え引き攣った顔に老人の手が伸びた。
その手はまだ若く、少なくとも自身と同じ20代半ばの青年の手だった。
「うわぁー」
朝海がその手を振り払おうとした際、彼の手は老人の帽子を跳ね飛ばした。
そして危ないというどこかで聞き覚えのある声が老人の口から発せられた。
朝海の目に見覚えのある先日電話で話していた青年の顔が映った。
次の瞬間、彼は駅のホームから線路に転がり落ちた。
杖を持ったその男はその杖を伸ばした。
しかし、その杖は偶然か、故意かは分からないが朝海の額の真ん中を強く打った。
その力はとても老人のものとは思えない強さで朝海はその瞬間、自らの死を悟った。
「
その瞬間、電車が通過し彼の肉体は痛みを感じる間もなく生命活動を終了した。
朝海は最後に思ったことも口に出せないままその思考が途切れ、彼の意識は無となった。
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