第3話 芥川
「ウナギの蒲焼きなんてここ2~3年は食べていませんよ僕」
朝海は席に座っている月山に対して笑いかけて向かい側に座った。
「誰がウナギの蒲焼きをご馳走するといった。あれは俺のウナギだ」
月山はそういうと微笑を浮かべながら挙手をした。
「へい。今行きやすんで」
しばらくして小さくそれでいて嗄れた声が聞こえた。
それから時間をかけてカラカラと下駄を鳴らしてやってきたのは腰がくの字に曲がった顔中シミとシワだらけの小柄な
「ご注文は何になさいますか」
老爺は上目遣いで月山と朝海を見て陰気な笑みを浮かべた。
「今日はご友人と一緒なんですね?」
老爺はニヤニヤと笑みを浮かべながら忙しく揉み手をする。
朝海にはそれが蠅のやる仕草に見えて気味悪かった。
老爺から目を離し月山を見たが月山はまったく気にしていない様子だった。
月山は人差し指を振って否定を示しながら老爺と同じ陰気な笑みを浮かべた。
「そういや私、また髪が減りまして河童みたくなりました。歳は取りたくないもんですな」
老爺は頭をポリポリと搔きながらにへら笑いをした。
「そんなことより注文いいかな」
月山は老爺に冷たく言うと老爺は微苦笑を浮かべて「はい」と短く言った。
朝海は再び老爺を見た。
そして思わず叫びそうになった。
「たしかに河童だ!」
朝海が心の中で絶叫していることに月山もその老爺も気づいていない素振りだった。
月山が注文を始めると老爺は震える手でメモに鉛筆で小さく何か書き始めた。
そ朝海は何を注文しているのか全く聞こえなかった。
それよりも老爺の異様さに全意識が持ってかれた。
老爺の頭は円形脱毛症、俗にいう河童ハゲでそれも見事に取り皿一枚くらいのサイズ見事に毛がなかった。
そしてその皿のような露出した肌は汗なのか脂なのかテカテカと光っており病的に黄色かった。
顔は細長くそれでいて頬がコケており栄養不良かと思うほどだった。
朝海が再び顔を上げると復唱する老爺の口元が目に入った。
歯が一本もなくおちょぼ口だったそれはまるであの吸引力の変わらないただ一つの掃除機の吸い込み口のように感じた。
身体を置いて魂、生気だけ吸い込まれるようなそんな恐怖を覚えた。
朝海はぞっとしてこんなところに連れてきた月山を再び呪い、先ほどまで賞賛していた自身を蹴殺したいような衝動に囚われた。
そして人ではなくどう見ても河童にしか見えないその老爺を彼は心の中で「河童」と呼ぶことにした。
頭を抱えた朝海に月山はそれを気にもせずナチュラルな口調で「俺は羅生門を飲むけど何が飲みたい?」と聞いた。
「
河童でなく月山に向かって朝海は蚊の鳴くような弱弱しい声で聞いた。
「ん?鍛高譚?俺より若いくせにずいぶん渋いもん飲むじゃねえか。芥川のおやじ、この店にそんな酒あるか?」
河童は月山に聞かれて少し間をおいてから首を縦に振った。
朝海はそれを見ていなかった。それよりも河童の本名が「芥川」ということに何か底知れぬ因縁のようなものを感じた。
「事実は小説より奇なり」
朝海は心の中でそう呟くと顔を上げて恐る恐る河童の顔に目を向けた。
藪の中、河童、羅生門と芥川龍之介の作品タイトルが次々に頭を駆け巡る。
「この河童は芥川龍之介の亡霊かもしくは彼が生きていた裸あり得たであろう成れの果てなのかもしれない」
朝海は内心で呟きながら月山に視線を向けた。
月山は朝海の視線に気づこうともせず河童の方を向いて言った。
「鍛高譚ロックでいいか?」
普段は水割りを頼むのだが朝海はさっさと酔って何も考えず楽になりたいという気持ちから大きく頷いて見せた。
「じゃあ、俺もその鍛高譚ってやつをロックで」
月山が言うと「かしこまりました」と抑揚のない声で河童は呟くように言い、スローモーな動作でその場を去った。
「そんなに不気味か。この店が」
月山は眉をしかめて低い声で囁いた。
「いえ、そんなことはありませんが……」
朝海は明らかにうろたえた様子で月山の言葉を否定した。
「いいんだ。この店もといあの芥川のおやじの異様さには未だに俺も慣れていない。そんなことよりも今日は俺の話をしっかり聞いてほしいんだ」
月山は努めて優しい口調で朝海に語りかけた。
「そんなことならこんな気味の悪い店チョイスせずにファミレスでもチェーンの居酒屋にしてくれ」
朝海はそう言いたいのをぐっとこらえ「は、はあ」と曖昧な返事をした。
「そんなに心配するな。味はちゃんと保証するから。この店は安い、旨い、人が少ないの三拍子そろっているから俺は結構気に入ってるんだ」
月山は明るく言ったが朝海の気持ちは晴れなかった。
「最後の人が少ないっていいことなのか?そりゃあ静かに飲み食いできる穴場という意味ではいいことなのかもしれないが人によってはお客さんでいっぱいの活気ある飲み屋がいいってケースもあるじゃねえか」
心の中で毒づいて月山に愛想笑いを見せた。
「ここのウナギも旨いらしいんだが焼き鳥も味がいいんだ。何より安いしな。だから今日は焼き鳥尽くしだ。焼き鳥は嫌いか?」
月山は壁に並んでいるお品書きを眺めながら
朝海は「いえ、好きです」とだけ答えて同じようにお品書きを眺めた。
「俺はウナギの蒲焼きをここでは始めて食べるがそれはあくまでもう二度とオレが生きてウナギを食べられる気がしないからなんだ。つまりこれが俺にとって最後の晩餐てやつさ。お前にはウナギより安いが同じくらい安いナマズの蒲焼きをご馳走してやる」
月山は急に低くそれでいてゆっくりとした調子で言った。
朝海は不意を食らって思わず「えっ?」と間抜けな声を出した。
「そうだこれが最後の晩餐だ」
もう一度、月山が今度は朝海でなく自分自身に言い聞かせるようにゆっくり言うとポケットから煙草を取り出して口にくわえた。
ライターで火をつけ、煙を大きく吸い込み、ゆっくりと上を向いて吐き出した。
朝海は思わず顔をしかめ、下を向いた。
彼は煙草の臭いと煙が嫌いだった。
そして月山が煙草を吸うことを知らなかった彼はタバコを吸うなら一言いうのが礼儀じゃないかと思う一方、月山の「最後の晩餐」という言葉に只ならぬ不穏を感じた。
月山はしばらく黙って煙草を吸った。
朝海には下を向き、月山が沈黙を破るのをひたすら耐えるしかできなかった。
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