第2話 月山
「朝海今日飲みに行かないか?」
定時になり事務員が返り始めた頃のことだった。
月山が朝海の肩を叩き優しく言った。
多くの営業マンは目標未達のため企業に営業をかけたり求職者に仕事を紹介したり忙しくしている中、月山は退勤する準備をしていた。
「すいません。まだ仕事が残っていますので」
朝海は申し訳なさそうな顔で頭をぺこぺこと下げた。
「仕事だって?お前はもう今月の目標とっくにクリアしてるじゃねえか。そんなに働きアリみたいに働いて楽しいのかよ。数字さえとっていれば誰も文句は言わないさ。俺のおごりだ。飲みに行こう。お前にだけ話したいことがあるんだ。なあ、いいだろ?」
月山は笑いながら朝海の肩を叩きながら言った。
朝海が周りを見回すと他の営業マンが驚きと羨望の眼差しを向けている。
「わかりました。少しだけなら」
苦笑して朝海は退勤の準備をし始めた。
先輩の誘いを断ってまで仕事を続けるほどの勇気が彼にはなかった。
また、誘いを断ることで今後仕事に支障が出ては困るという危惧もあった。
そして、「お前にだけ話したいことがある」という月山の意味深な言葉に興味を覚えていた。
「実はもう居酒屋予約取ってあるんだ。俺のお気に入りだ。行くぞ」
月山は朝海を誘導するように手でジェスチャーをした。
「始めからそのつもりだったんですね。分かりました。ありがとうございます」
朝海は月山に笑いかけると月山もうなずいて笑った。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
月山はそう言って足早にオフィスを出た。
すぐさま朝海も同じように言ってオフィスを出た。
朝海が勤めるエリートエージェントは完全実力主義で年功序列がなく、営業であれば数字さえ出れば定時で帰っても何も言われない。
しかし、そんな余裕のある営業マンはオフィスにいる10名の営業マンのうち朝海と月山くらいしかいない。
残りは目標未達か達成するのにぎりぎりで休日の土日以外はほぼ毎日午前9時から午後21時まで電話や対面での営業活動をしている。
そして残業代は毎月の固定残業に入っているとみなされ特に支払われることはない。
それでも月の基本給が営業職の中でも平均より1~2万円は多いため続けている社員は多い。
黙って前を歩く月山の後ろを付いて行きながら朝海は異様さを感じた。
月山はオフィスで見せた先ほどの明るい表情と打って変わって眉間にしわを寄せて深刻そうな、それでいて険しい表情に変わっていた。
「僕、月山さんてこういうことあまりしない人だと思っていました」
その重苦しく暗いオーラに耐えられず朝海は努めて明るく笑いかけた。
月山は朝海をその表情のまま一瞥して言った。
「普段はあまりどころかこんなことはしない。職場の人間と仕事以外のプライベートでどこかに行くことなんてしない。今日は特別だ。言っただろ。お前にだけ話したいことがあると。ただそれだけだ」
月山の発する声は低く抑揚のない、まるで死にかけの中年が発するものだった。
朝海は怒りを覚えた。
「なんだよ。オフィスではいい感じで誘ったのに感じ悪いな。職場と外で態度や性格がガラッと変わるタイプの人間だったのかよ」
とは言えなかった。
その代わりに自然と追従笑いを浮かべて「ははっ。すいません」と口だけで心のこもっていない謝罪が出るだけだった。
月山はそれを無視して足早に横断歩道を渡った。歩行者側の信号がちかちかと点滅していた。
青信号が赤に変わる。その瞬間に月山は既に横断歩道を渡り切っていた。
取り残された朝海は横断歩道で待っている月山の様子を観察していた。
月山は体をふらふらと動かしそれでいて肩や首が凝っているかのように首を忙しなく左右上下に振っており朝海は異様に感じた。
誰の目から見ても不審者に見えてもおかしくない。
「月山は何か深刻な問題を抱えているんだ。普通の精神状態とは思えない」
朝海はそう悟った。
「だからと言って新人の俺に何ができるんだ。普通こういうのはもっと親しい身内とか友人、恋人、上司に相談する者なんじゃないか。俺にはとても出ないが荷が重過ぎる」
朝海は自身が選ばれた運命を呪った。
「いつまでもこの信号が変わらなければいいのに」
朝海は半ば興味本位で付いてきてしまった自分を嘲笑った。
信号が変わり朝海は駆け足で月山に並んだ。
「すいません。付いてこれなくて」
少しオーバーに息を切らせて朝海は言ってみた。
月山がどんなリアクションをするのかに興味を持っていた。
「別にいい。俺の方こそ先走ってすまない。目的地はもう、すぐそこだ」
朝海に向かって再び低く抑揚のない声で謝罪の言葉を言って軽く頭を下げた。
朝海は不意打ちされたように「ええ、いえいえ」と上ずった声で手を振ってリアクションを返してしまった。
言葉にならない声が出て少し恥ずかしく思った。
月山はすぐに朝海に背を向け歩き始めた。
その足取りはゆっくりとなっていた。
朝海は不思議に思った。
「俺が走って追いついたことに意外とまともな反応をするし、さっきまで早足だったのがゆっくりとした足取りになっているし、いったいどうしたんだ月山は」
混乱した頭を搔きながら月山の背を追った。
やがて月山は人目につかない暗く細い路地に入っていった。
朝海は不気味に思いながらその後に続いた。
スマホのライト機能で足元を照らしながら朝海は自身の歩く場所を探しながら歩いた。
月山は慣れているのか全く明かりのないその一本道を普段オフィスで歩いているかのような自然な足取りで歩いている。
路地は所どころごみが落ちており、なぜか雨が降っていないのに地面は湿ってところどころぬかるんでいる。そして時々水溜まりもある。
朝海は奇妙に感じながら足元が汚れたり、濡れたりしないよう、注意深く見ながら歩く。
一方の月山はズボンや靴が濡れ、汚れることに一切お構いなしでごみを蹴飛ばし、ぬかるみで靴を汚し、水溜まりで靴とズボンを濡らした。
朝海は自分の足元を見ることに精一杯で月山の様子を全く知らなかった。
しばらくして手前に小さなほったて小屋のような居酒屋が現れた。
ほの暗いその建物に吸い込まれるように入っていく月山の後を追うように朝海は少しだけ歩幅を広げた。
朝海が居酒屋の前で顔を見上げると年季の入った薄汚い暖簾に明朝体で文字が入っている。
「藪の中」
朝海は暖簾の文字を思わず口にしていた。
どこかで聞いたことがある言葉だと思ったがすぐにその答えは出てこなかった。
「まあいいや」と心で呟き、「藪の中」に入った月山を追って暖簾をくぐった。
瞬間、朝海の鼻をウナギの皮と脂が焼ける香ばしい匂いが刺激した。
朝海は口の中で唾液が溢れてくる感覚に気づき、不安を覚えながらも逃げずに月山の後を付いてきて良かったと自身を称賛するのであった。
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