三章



どれほどの時が過ぎたのか、今の私にはわからない。


幾度となく繰り返される快感の渦に揉まれ、私は躰を震わせ、浅い呼吸を反復し続けた。


それも今となっては、淡い意識を保ち、天井を見つめることしか出来ない。



行為は、おそらく終わりを迎えた。

外的要因による視点のブレがなくなったことで、私は何となくそれを察する。



--どうして。


そう思ったのは、行為の終了についてではない。


あれほどの快楽を感じた原因、それから、与えることが出来る理由。


今の私は、うまく考えることが出来ない。

だから、おそらくは答えを知るであろう人を探すように、瞳を左右させる。




時が進んだのか、それとも私の意識の問題なのか、いつもよりも暗い視界に、その影が捉えられた。


今の視界では、こちらを見ているのかの区別がつかない。


それも相まって、私は遠慮がちに「遼一…」と問う。



疲労を携えた私の声は、もしかすると小さすぎたかもしれない。

遼一は、特になにか反応するでもなく、沈黙の時が流れ行くのみだ。


「……」


景観故に想像力を掻き立てられたのだろう。

私は底知れぬ不安に襲われ、体を押し潰そうとする重力に抗い、無言で彼のもとへ這い寄る。


スーっと、独特な香りが私の鼻を撫でた。

なるほど、たばこを吸っていたのか。



たばこを吸う人は、よく「一服する」と言う。

それは彼らにとって、とても大事な時間であり、時、ところ次第で、どのように過ごすのかも変化していく。



察するに、遼一は現在、肉体的疲労を感じ入っているのではないだろうか。


疲れている時とは、声を発するのも嫌になるものだ。

彼の座る位置から、少し離れた場所にうずくまる。


無論、声をかけることはない。


触れることもしなくていい。

今はそういう時間なのだから。



私は耳を澄ませて、遼一の呼吸の音に聞き耳を立てる。


時折、たばこを焦がす火が「ち…」と聞こえたかと思えば、普段よりも少し大きい吐息の音に掻き消される。



実のところ、こういう状況は過去に何度でもあった。


一夜を過ごしたその後、夕焼けとも区別がつかない窓の外の陽にあてられ、どこか満ち足りた気持ちを得る。

それから彼はたばこをふかし、私にはお決まりのように熱いコーヒーが用意され、生まれた姿のまま、それを嗜む。


あと数回喫煙すれば、きっと遼一はそのように動き出す筈だ。


気がかりがあるとすれば、私が見ている景色は暗すぎることくらいだろうか。



元来、彼は饒舌ではない。

だから言葉がないことについては、特になにも感じない。


ただ、暗闇が演出するこの部屋は、その無言を『無関心の現れ』として昇華してしまうようだ。



先程「そういう時間なのだから」と割り切ったはずの私は、一体どうしたというのだろう。


鼻の付け根のあたりに、鋭い痺れを自覚しながら、彼の腰に腕を回す。



それでようやく遼一は私に意識を向けたようだ。

言葉はないままに、大きな手が私の頬を包む。



数回撫でるように揺れ動いたその手は、しかし突然動きを止めてしまった。


すると、唐突に彼が口を開く。


「聖月…泣かないでよ。」


私は思いがけない台詞に「え……?」と声を漏らす。



『泣かないで』とはどういうことだろう。

私が不安に駆られたことに気がついているという喩えだろうか。

それとも、彼は何か勘違いをしてしまったのだろうか。


言葉の意図と意味を探る私の頬から、遼一の手が離れた。


「あ」と惜しむが、彼は気にかけない。



代わりに、私の方を向き直り、その目で私を見据えて、もう一度「泣かないでよ」と言う。


じ……とした視線に引き込まれる。

彼の黒い瞳の中に、私がいた。


私は、涙を流していた。

間違いない、私は泣いている。



理由はわからなくとも、それが事実だ。

堪えていた涙が、静かに勢いを増す。



音もなく、声もなく、堪えていたはずなのに。


私は心の中で何度もそう嘆き、ついには彼に縋り付いた。


当の遼一は、戸惑い半分といった風情で、今度は私を見つめながら頬を撫でる。


『申し訳ない。』

『ごめんなさい。』


これらの言葉たちは、声に出そうとすれば、嗚咽となってしまい、伝わらない。


するとどうだろう?

この男は、ひょっとすると人ではないのかもしれない。

もしくは、認めたくはないが、私のことを大事に考えているか。

「何も心配はいらないよ。」

と宣うのだ。


思いがけない一言に、霞んでいた視界が変貌を遂げた。


丁度大雨の時、窓ガラス越しに外を眺めたことがある人なら、きっとわかるはずだ。


ぼやけるだとか、揺らめくだとか、そのような生半可なものではなく、もっと強烈且つ曖昧な様子。


先刻とは違い、自覚のできる涙。


今日、馬鹿らしいほどに涙を流している私。

この状況までもが、どうしようもなく感情を掻き回し、混沌を濾過するかの如く、瞳から溢れ出す。


『わからない。もう、何も考えられない。』


喉を絞り、嗚咽の端々に並べた言葉を、果たして遼一は掴みきれただろうか。


私の頬を撫でる手の温もりは、無機質と錯覚しても仕方がないほどに恒温である。


視界が晴れれば、きっと彼の表情を伺えたはずだ。

それは安堵を得られる可能性もあるし、逆に知らなくていいことを知ることになる可能性もある。



嫌な予感を感じながらも、事実を知りたいと思ったことがある人は、きっと少なくない。


今の私はまさにそういう心境で、不安と疑念。それから、僅かばかりの安堵を根拠に、嗚咽を漏らす。



遼一というだらしのない男は、こうして私に条件を仕組んでいったのかもしれない。



混ざり乱れた感情の濁流の中で、彼の無機質な温もりだけはその渦中にとどまり、皮肉なことに、一つの目印のようなものになっている。




何度も、あるいはより勢いをもってその流れを作り出すことによって、条件を仕組んだように思えてくるのだ。


きっとそれはどんな人間でも抗い難く、私もその例に漏れない。



遼一は、どうも悪趣味のように思う。

触れていた手を引くと、私と目線を合わせるようにし、こんなことを囁く。


「知りたいんでしょう?何が聖月をそうしたか。」



図星だ。

私は間髪入れずに頷く。


その様子は、少々滑稽に見えたらしく、彼は苦笑といった表情を見せたようだ。

しかしそれは決して不快なものではない。

視線が、馬鹿にしているわけではないと語るような慈しみを帯びている。



考えを肯定するように、遼一の手が私の髪を幾度か撫でた。



「一目惚れ、だったんだよ。」


手の動きの優しさをそのまま体現したように、彼は口を開いた。


少々の羞恥から、次に声を発するのには、やや間が開く。


その隙に……と言うのは今ひとつ相応しくないが、言葉の間と間で、私は当時の--2年前に出会った時のことを思い返すことにしよう。



それは『ナンパ』というにはあまりにも親切心に満ちた事案だった。


発展した都市というものは、得てして混沌としているものである。


私が遼一と出会った時は、特にそうだったように思う。


駅の近場は常に人で溢れかえり、奇声をあげる者や、アスファルトに横たわる者。

あえて"ひと"とは言わない。


"ひと"の形をした何かは、そうして集い、彷徨い、薄汚れた痕跡のみを残して、どこかへ姿をくらます。


私もそのうちの1人だった。


わけもなく酒に溺れて、毎晩のように遊び歩いていた。


時には記憶をなくすこともあり、お店で眠り、朝を迎えたこともある。

なんだったら、そこに知らない男がいることも、一度やニ度でない。



思い出そうとすれば、顔から火が出るほど恥ずかしいことばかりをしてきたと思う。


そして彼との出会いも、そういう数多の"恥のエピソード"とともにある。



いつものごとく遊び歩いていた私は、その日に限って家の鍵を紛失してしまったのだ。


帰宅してからそれに気がついた私は、外泊するにせよ、どうするにせよ、もう一度繁華街の方面に向かう必要があった。



そうして来た道を引き返し、店のドアを開けた時に残っていた一人の男。

それが遼一だ。



不審そうに視線を向ける私に対しての第一声は


『これ、届けようと思ってたんだけど……』


回想の中の彼の声は、現実のそれと重なる。


あまりにタイミングがよかったため、私は虚をつかれ、遼一の方に目を向けた。



「本当に、ただの直感だったけど、暗示とか、そういうのに振られやすいのかなって思ってた。」


彼は少し申し訳なさそうにしながら、手に持っていた鍵を揺らす。


それは、あの日と寸分違わぬ仕草。

私は幾分気分を害されたが、今はなにも言及せず、次に続くであろう言葉を待つ。


「見た目もそうだったんだけど、それ以上に、なんとなく合いそうって、あるじゃん?」



言いたいことは理解できる。

一目見ただけで「ああ、この人は無理だ」と判断することの逆の感じだろう。


遼一は「だから、試してみたんだよ。はなっから交際は無理だろうから、会う度に、反応を伺いながら。」と繋ぎ、再び煙草に火をつける。




思えば、たしかに彼は鍵を振り回す癖があった。


少し前に「初めて二人で遊んだ時に」と語ったのを思い出す。


確かにあれは初めてのことだったが、実際には、それまでにお店や共通の知人を交えて遊んだこともある。


その時ですらその癖は発揮されていて、まさかそんな理由の元に行われていた行為だったとは、思いもしなかった。



私が彼に恋するよりも前に、彼は自分自身を私に擦り込んだということだろう。


私は遼一の言葉に「そう……。音と遼一をリンクさせて、私に覚えさせたんだね。」と確認する。



彼は無言のままに、しかし瞳には憂いの色を浮かべ、頷いた。


察するに、後悔というか、私を怒らせたと思っているに違いない。


だけど、私はどうだろう。

何も感じていないような気もするし、腑に落ちたと安堵している気もする。


少なくとも、不快ではないようだ。


全てを事細かに教えられたわけではないが、多分、行為の最中にも、どこかしらで音を立てたり、あるいは後から私に見せつけていたのだと思う。



遼一は「なんとなく合いそう」と言っていたか。


言い得て妙だなと、私は苦笑する。


まさか、性癖においてまでギブアンドテイクの関係でいられるとは思わなかったはずだ。


それがどうだろう。

サディスティックな彼と、マゾヒズムを嗜む私。


お似合いだ。

笑わずにはいられない。



彼もおそらくは似たようなことを考えたはずだ。

でなければ、今同じように苦笑いしているわけがない。



吹っ切れた。すっきりした。


そう言うのが正しいかどうかはわからない。

しかし、疑問が解決した今、限りなくそういう感情を抱いている。



狙い澄ました銃口で、獲物を仕留める。


銃口は彼の言葉で、獲物は私。

だらしのない男だが、私はある意味飼われているのだ。



そうだ。そうに決まっている。

だから遼一は、私に対して義務にも似た思いやりを示す。


私の中に蔓延っていた疑念やそれに等しい何かの数々は、連鎖的に解消されていく。



それはどうしようもなく心地良く、どうしようもなく滑稽なさまだ。


私はいくつかの顔をもっていたはずだが、彼には通用しなかった。


考えてもみてほしい。


飼い犬がいたとして、飼い主だったとして、構ってもらえなくて不機嫌そうになる様子を「可愛い」と感じたことはないだろうか。



きっと似たようなことはあるだろう。

つまり彼にとって、私のそういう入れ替わりは、愛でるべきものであるということだ。



そして困ったことに、遼一はすぐそこに鍵を置いている。


餌を与える前に鈴を鳴らしたのが、あの実験だ。

その鍵は、私にとっての鈴である。



私は私がマゾヒストであることを嬉しく思う。



抗う術のない現状に、性的興奮を覚えられるのだ。

事実を知り理解したことにより、殊更その欲求を強く感じることができる。



遼一は、雰囲気の変わった私の顎を持ち上げ「何か言うことは?」と問いかける。



この状況を、第三者的視点で想像してしまった私は、もう堪えることができない。



不安もなにも必要ないのだ。

彼は私をきちんと可愛がってくれる。


そして彼の一言に背中を押された私は


「だいて、ください」


そうお願いすることが出来てしまったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る