二章
名前を呼ばれたのはいつぶりのことだろう。
私達は、お互いの名を呼ぶことが極端に少ない。
必要に迫られなければ、名前というのは大して重要ではないというのが、私の持論だ。
また、男もそれほど名前に固執することがなく、だからこそ私達のやり方は成立しているのだろう。
では、必要に迫られるというのは、どういう時だろうか。
公的な場であったり、複数人で集った場合。
それから、物理的距離が離れている時。
一般的に、「迫られる」という前提のもとなら、この辺りが連想できるだろう。
ここからが、おそらくは私と男に限定される「迫られる」場合だ。
と言っても、この状況から鑑みて、答えは明白である。
そう。情事の……性行為の最中だ。
私も女であり、それなりに経験を積んできた以上、最中に迫られるということが、如何に歪かの認識はある。
しかし、そう認識しているにも関わらず、改めるつもりはない。
先にも述べたように、この男は、謂わば「こんな男」とも「あんな男」とも言える程度の男だ。
そのような存在を、私は認めきれていない。
『交際の事実はあれど、必ずしも現状を善しとはしない。』
そういう僅かな反抗の意思の表れとして、名前を口にしないのである。
だが、この男は、今なお私の名前を囁き続ける。
どこか気怠げな、それでいて支配欲に満ちた声で。「聖月。聖月。」と繰り返す。
一体、どの口で私の名を呼ぶのか。
私は決して口を開かぬよう、唇を噛む。
打ち付けられる体の衝撃に呻きこそするが、耐え続ける。
もちろん、声を上げてることをだが、それだけではない。
このどうしようもなく切ない快楽に。
私のナカを埋め尽くす、その甘ったるい執着に。
耐えて、耐えて、絶えず耐える。
迎えてはならない一瞬。
その予兆。
刻々と追い込まれてることを自覚する。
しかし、それは悟らせない。
この男は、そんな私の状態を知ってか知らずか、鼓膜に出来うる限り近づき、同じ言葉を繰り返す。
単調で規則的な衝撃。
肌の擦れももちろんのこと、呼吸に、発声もそうだ。
憎らしいほどに私のことを心得ている。
否、女という生き物を心得ているというべきだろうか。
いずれにせよ、これらの要素は、確実に快感を蓄積させる。
いつもと変わらないパターンだ。
私は徐々に抵抗することの無意味さと、虚しさを抱く。
快楽に呑まれる、とは、こういうことを言うのだろう。
自分でも意識できないうちに、私の腕は男の体に絡まっている。
『ああ、やっぱり私はダメだ』
くだらない考えが脳裏をよぎり、悔しさ混じりに、より強くこの男の体を抱き寄せた。
「…っ」
刹那にも満たないほどの短い動揺。
反射的に、私の声が漏れたのかと驚くが、そうではない。
完全なゼロ距離に置かれたこの状況下で、男の緊張が高まっていくようだ。
私は『しめた』とばかりに、脚も回し、強く抱きしめる。
規則的であった衝撃は乱れ、男ははっきりと声に出して呻く。
苦痛に喘ぐそれに近しい声を感じ取るや否や、男と私の間で、鼓動が同調した。
「あ。」と、何の感情もこもっていない声が、私の喉をついて出てしまう。
気持ちの悪い液体が、股から臀部に流れ落ちるのを感じた、その結果の一言だ。
男の体の重みを受け止めながら、私は思考を巡らせる。
この男はどんな気持ちになっているのか、延々と続くご機嫌取りの行為を失敗して、羞恥を感じているのかもしれない。
ああ、ご機嫌取りといえば、私も随分と安い女だ。
幾度かの絶頂を与えれば、それで気が済むと思われている。
厳密には、自棄になり思考を放棄するのだが、怒りを持ち続ける気力を失う以上、気が済んだと言ってもいいだろう。
なまじ否定できない分、憤りと呆れと悲しさを拭いきれない。
今回はたまたまこの男が勝手に果てたから、まだよかった。
いつもの流れでいえば、私はあのまま呑み込まれ、意識の殆どを失うまで犯されていた筈だ。
しかし、そうはならなかった。
どういう訳だか、私がこの男にしがみつくように抱き寄せた時に、明らかに様子が変わった。
模倣するように名前を呼んだりもしていなければ、言語化するのも嫌なような言葉を並べてはいない。
男という生き物はよくわからないものだ。
私は体を動かさないように静かにため息を漏らし、未だ男に纏わりつく四肢を解放する。
それを合図にしたように、ようやく私の体は重みから逃れた。
「ねえ、さっきのはズルじゃない?」
幾分疲れを帯びた声が降ってくる。
--ズル?どこがズルなのだろう?
単純に、何を言っているのか理解できない私は「何が?」と短く問い返す。
男は逡巡の後に「抱きついたり、したことなかったじゃん」と、照れ臭そうに答えた。
なるほど。
合点が行った私は、視線だけ男に送り、同時に意地の悪いことを思いつく。
「遼一」
短くだがはっきりと、この男の名を呼ぶ。
するとどうだろう。男の…遼一の顔には、驚きと、嬉しさが入り混じった、複雑な表情が張り付いたではないか。
私もそうである以上、過剰に嘲笑うことはできないが、遼一もやはりただの男に過ぎない。
「こういうの、パブロフの犬って言うんだっけ。」
私は口元を吊り上げながら、続ける。
遼一はしどろもどろになりながらも「それは条件に対して…」などと宣うが、私にとってはどうだっていい。
ただ、この男を手玉にできたその事実が、爽快で仕方ないのだ。
「結構かわいいとこもあるんだね、遼一。」
あからさまに馬鹿にした態度で、更に更にと名前を呼ぶ。
決して言いまいと思っていた2単語だが、こういう風にもて遊べるのであれば、存外悪くないものだ。
私は何度も「どうしたの?遼一。」「遼一、どこか辛いの?」と接した。
その度にこの男は困ったように笑いながら「もういいから」「大丈夫だから」など私を制する。
しかし、それも次第に薄い反応に変わっていき、飽きた私は寝台から立ち上がった。
『チャリ』と小さな鍵を落とした音がする。
刹那、言い表せないほどのなにかが、私を貫いた。
達さなかったはずの躰はじくじくと痺れ出し、驚くほど短時間だった行為にもかかわらず、腿がカタカタと揺れ始める。
「…遼一……?」
私は自身のからだの異変に、男の方を振り返った。
遼一は、何かを否定するかのようにかぶりを振り、歩み寄る。
混乱となにかを抱えた私にではなく、寝台のそばのカーテンに、だ。
「パブロフの犬」
無機質な声が部屋にこだました気がした。
覚えている。つい先程私が口にした単語に違いない。
「聖月は、強情だよね。……いつまでたってもさ。」
続け様に言葉を紡ぐ男の声に、私は『言い表せないほどのなにか』の正体が隠されていることに気づく。
「パブロフの犬っていうのはね、ある実験を指し示すものだよ。それでさ、その実験がなんの実験だったか、わかる?」
ゆっくりと、柔和な笑みを携えた遼一が、今度こそ私に歩み寄る。
私は、その表情を目にして、再度『言い表せないほどのなにか』を感じた。
同時に男の問いかけへの答えも、理解する。
「その実験が、何を世に知らしめたか。……それはね、条件反射、って言うんだよ。」
そうだ。
男の言葉に、私は心底納得する。
条件反射とは、訓練、あるいは経験によって、獲得される反射行動のこと。
そうでもなければ、日常のどこでも起こりうることに、これだけ反応することはありえない。
もちろん、性的絶頂を感じられなかったストレスが、なんらかの作用を起こしていることにも、疑う余地はない。
「なんでそんなこ--」
なんでそんなことを私に仕込んだの?
そう言おうとした口は、遼一の唇によって塞がれる。
まるで、答えはここにあると言わんばかりに、厚い舌が唾液を注ぎ込む。
私は、というと、拒む気持ちになれなかった。
なぜそうしたのかを知りたいという好奇心。
次いでそれよりも大きく、強い高揚感が、私から拒絶という概念を奪い去ったのだ。
男の舌は優しく、それでいて力強く、私を愛でる。
嫌悪感と、心地良さの均衡が崩されていくのが、自分でも分かった。
先刻までならどうにか抗っていたかもしれない。
だが今はどうだ。
私の体からは、力という力が抜けていっている。
身を委ねようとする意思が、何処からともなくやってきているのだろうか。
否、何処からともなくというのは間違っている。
内なる私。
もしくは、私の一面。
どう呼ぶかは、この際無視しよう。
兎にも角にも、明らかに私の中に潜んでいたそれらが、ついには鎌首をもたげた。
『パブロフの犬』
即ち、条件付けをされた犬。
ある音を鳴らした後に、食事を与えることで、犬は音を鳴らすだけで、食事をもらえると思い、涎を垂らすようになった。
私は、理解こそしていたが、どうやらあの鍵の音で条件付けを実行されたらしい。
あの音色に呼応し、今の私がここにある。
遼一は、力の抜けた私から、唇を離すつもりはないようだ。
気持ちのいい窒息感に、脳が震えるような錯覚を覚える。
条件付けというものは、恐ろしい。
このような私を、誰が予想できただろう。
頭の片隅ではそんなことを思いながらも、体がいうことをきかない。
というよりは、体の方に刷り込まれた感覚が、頭を置いてけぼりにし、遼一を求める。
からかうことでのみ呼んでいた彼の名前を、何か違う感情のもとで、繰り返し呼ぶ。
「遼一、遼一。遼一。」と。
しかし遼一は私の名前を呼ぼうとしない。
悲しいような、寂しいような、もどかしい気持ちになってしまう。
ただただ遼一の唾液が流し込まれ、私は進んでそれを嚥下する。
きもちいい。
けれど、やはりどうしても物足りないのだ。
『名前を呼んでほしい。私を見てほしい。』
脳裏にふつふつと湧き上がるその願いは、果たして彼の心に届いただろか。
遼一はようやく私を見つめて、口を動かす。
しかし、その動きに、音は付随していない。
確かに『聖月』という動きなのに、声を出してくれないのだ。
母音で言うならば「いうい」と読む言葉は、数え切れないほどある。
そうであるからこそ、私は不安に襲われた。
彼は、私を見ていないかもしれない。
気がつくと、私は小さく「いや」と呟いていた。
微笑むだけの遼一の瞳を見据え、何度も何度も首を振る。
どうしたら名前を呼んでくれるだろうか。
とんな手法を用いたのかは思い出せないが、条件付けを成功させた男性だ。
それは、予測しうる限りでは、サディズムによるものというのが、もっともしっくりくる。
私の「いや」という声は、「お願い」という要求に変わる。
私がマゾヒストであるからこそ、遼一がサディストであるからこそ、そういう変化が起きたと言っても過言ではない。
証拠に、柔らかだった笑顔は消え失せ、かわりにその表情は、どこか猟奇的な雰囲気さえ感じるほど、無邪気な笑みに変わっている。
私はどんな表情をしているのだろうか。
自分では、わからない。
調子に乗っていたことを謝罪するような、申し訳なさげな顔かもしれないし、ただただ無力に媚びへつらう、そんな顔かも知れない。
ただ事実として「お願い。お願い。」と繰り返していることだけが分かる。
そんな私に対し、遼一は「いいよ」と、口パクではあるが言ってくれた。
これを待っていたとばかりに、私は大きく脚を開き、待つ。
ゆっくりと彼の体が私に重なり、耳元に口が寄せられる。
ほんの数瞬。
本当に僅かなズレだが、先に感じたのは、彼のソレが私を押し広げる感覚であった。
ついで、左耳では、鍵とキーホルダーが打ち合う音。
右耳には、私が切望した彼の声。
「聖月」
一切耐えることはできず、私は声をあげているかもわからないほどの快感に襲われる。
頭の中が真っ白に、視界は真っ黒に染まってしまう。
またしても、鍵の音。
止めることはできないし、止まることもない。
「聖月。聖月。聖月。」
『ちり、ちり』
私は、私は理解する。
このひとに逆らってはいけないこと。
このひとに従うことが、イイこと。
働くことが出来なくなった頭でではなく、もっと深い、深層心理で。
強引にねじ込まれる言葉と快感を前に、私の一番深いところに、それが刻まれる。
感じたわけではないが……いや、感じたのだろうか。
刻まれたであろうその瞬間、私は意識を手放す。
ただ一つ
「聖月」
という言葉だけを、耳にしながら。
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