一章
そのことを自覚したのは、実はつい最近のことだ。
時間にして遡れば、おおよそ2年ほど前になるだろう。
今現在の私の年齢が22歳なので、19もしくは20歳の時だと言える。
当時、私の性生活は乱れに乱れ、自他ともに認める『ふしだらな女』だった。
私は見た目のレベルの高さの割に、性格はひねくれていたため、ソコに自分の価値を見出していたのだと思う。
そのせいで……否、そのおかげというべきだろうか。
世の中を同級生たちよりも、ほんの少し多く知れた。
彼らよりも遥かに豊富な経験を積むということは、様々な人と関わるということでもある。
人との関わり方は多岐に渡り、正解があるとは限らない。
であるからこそ、柔軟性と呼ばれるものが必要になる。
あるいは、演技力と言ってもいいかもしれない。
そうして生み出されたものたちは、やがて私の心の中に巣喰う。
念のために述べておくが、私は『病んでいる人種』ではない。
なんらかの人格障害を患ったわけではなく、あくまで感覚としての話だ。
か
数多の性質を備えた私の中には、ちゃんと『私』が存在している。
しかし、そのことに気がついたのはつい最近。
そういうことを、冒頭で語っているのだ。
では、そのきっかけは何だったのか。
答えは単純明快。
今も寝台で寝息を立てている、派手な青髪の男。
状況から察せるように、この男と私は交際している。
なんともいえない不細工な寝顔を見つめたまま、私は溜め息を吐いた。
正直なところ、この男は人間としてどうかと思う。
酒癖。女癖。さらには浪費癖。
顔や体に特別な何かがあるわけでもない。
だが、それこそが私の気持ちを惹きつけたとも言える。
「どうしてこんな男と……。」
おそらく、数えきれないほど漏らしてきた言葉だ。
とはいえ、自分の心理に気がついていないわけではない。
その証拠に、私はさきの一言を漏らすと同時に、心拍数の上昇を感じる。
そう。マゾヒストだから。
こういう嗜好だからこそ、この男と交際できる。
たった一つの事柄を声に出し、自覚すれば、私の脳は被虐的快楽に期待し、切り替わる。
とはいえ、自分から誘うのは癪だ。
私はおもむろに立ち上がり、自らを慰めるべく、洗面台へ向かう。
洗面用具で大切なのは清潔さではないだろうか。
白い洗面台に、水垢一つない鏡。
歯ブラシや剃刀も、新品同様に保っていたい。
特に剃刀はそうだ。
これは私の大事な道具であり、ともすれば潔癖とも思えるほどの清潔さを保っている。
銀色の刃が光を弾き、煌めく。
理想を言うなら、抜き身の日本刀のように、角度次第では刃を認識できないほどに綺麗でいてほしい。
あれはあの美しさの中に、恐ろしいほどの殺傷能力を秘めている。
無闇に押すこともなく、ただ引くだけで、簡単に傷を与えられるのだ。
それに比べると、いくら綺麗に保たれているとは言え、剃刀は幾分か劣る。
現に、肌に押し当てた刃は未だ皮膚を切り裂くには至っていない。
こういう行為を繰り返している時には、よく「怖くないの?」と聞かれる。
はっきりと言ってしまえば、怖い。
炎に触れたような、熱さにも似た痛みが継続するといえば、うまく伝わるだろうか。
痛みを恐れるのは動物の本能であるし、反応として間違ってはいない筈だ。
それでも、私はその痛みを欲している。
少しだけ息を呑む。
ツッ、と皮膚が破れる感覚。
間髪いれずにやってくる痛みに、笑みが溢れた。
こんなことに耽る自分が哀れで仕方がない。
それでいて、痛みを感じられる自分が愛おしくて仕方ない。
流れ出る血液を見つめ、私の一部が失われていくことを尻目に、頭の中は自己愛によって満たされた。
このまま私は、数分間の悦楽に浸る。
不思議と頬を伝う涙も、拭うことはしない。
静かな部屋の細部にまで、血と涙と、すすり泣く声が染み込んでいく。
この時間はあまり長くは続かない、
なぜなら、あの男がいるからだ。
経験に基づいた推測をすると、もうそろそろ私の背中は温もりに包まれる。
ある一つの言葉。
その言葉とともに私は声をあげて泣いてしまうだろう。
「かわいそうに」
たった一言、文字にすれば六文字。
だが、それは予想とこれっぽっちもずれていない。
満点の答えだ。
そうして私は茶番のように泣き崩れる。
この男は、人の気持ちを読むのが上手だ。
不愉快なまでに、心の内を読んでくる。
『かわいそうに』
言われたいか、言われたくないかで言えば、言われたくなかった言葉だ。
私は私を哀れんでいたが、他人に哀れまれたいかと言うと、それはまた別の話のように思う。
それでも、そこに悦楽を覚えてしまう。
こういう時、私は決まって一言告げる。
「……何もわからないくせに。」
怨嗟を孕み。
しかし、良い様に翻弄される陶酔感を帯びて、喉から声が僅かに溢れる。
この男に、それは伝わったのだろうか。
無言のままにこの場を立ち去ったかと思えば、消毒液と、ガーゼを持って戻ってきた。
私は不安と諦観の念を抱えたまま、腕を差し出す。
刺す様な冷たさの後、液体が染み込み、一時的に痛みを助長する。
男の顔に、表情はない。
私は苦悶の表情を浮かべているだろうに、この男は、それに対しての反応すらしないのだ。
ひょっとすると、私は人として見られていないのではないだろうか。
この処置も、思いやりなどではなく、人間である義務として行なっているのではないだろうか。
不安は疑念を呼び、疑念は怒りに様変わりする。
どう処理していいかわからない感情を前に、噛み付く。
この男の肩に。
男は「っぅ」と小さく声を漏らた。
かなりの力で噛んでいるのだから、相当な痛みのはずだ。
柔らかであった筋肉に力が入り、私の歯の侵入を拒む。
内心、「ざまあみろ」と嘲笑ってやる。
その心中を知ってか知らずか、この男は「ごめん」と謝罪の言葉を吐き出す。
私はあえて、問いたださない。
そのかわりに、もう1段階強く顎を閉じる。
『ギリ』と捻れる様な感触。
少しの間をおいて、鉄の味が口に広がり、男の出血を悟る。
そこで私はようやく解放する。
男は顔を顰め、それでも私を責めようとはせず、また一言「ごめん」とだけ呟いた。
「知ったようなこと、言わないで。」
これは八つ当たりだ。
自覚はある。
そもそも私が勝手に不安を持ち、疑っただけであり、根拠などないに等しい。
むしろ、施しに感謝をするべきだ。
けれど私はそうしない。否、出来ないと言うべきか。
男の体をおしのけ、寝台に戻る。
あの男に対する苛立ちと、自己嫌悪が混ざり合い、酷く嫌な気分だ。
つくづく可愛げのない女だと自嘲する。
男は自分の肩を消毒してきたのだろう、服を着替えて、私のそばに戻ってきた。
「さっきは、ごめん。」
開口一番にこれだ。
先刻爆発していなければ、想像できない程怒り狂っていたに違いない。
少しだけ落ち着きを取り戻している私は、何も言わずに背中を向ける。
この男はそれでも構わず言葉を続ける。
「憶測で話して、嫌な気持ちにさせたよね。何もわかっていないくせに、それっぽいことを言って、機嫌を取ろうとしてごめん。」
ようやく具体的な謝罪をした。
そう言わんばかりにため息をついた私は、男の目を見据えて、逸らし、体から力を抜く。
「このやりとり、もう何回目?」
力の抜けきっているであろう声で、私は問う。
「…数えきれないよ。」
短い言葉に「そうだろうね」と返した私を見て、男は怒りの消失を受け取り、少し安堵したようだ。
先ほどよりも幾分軽いトーンで「でも、1番初めは覚えてるよ」と切り返す。
私は……覚えていない。
微妙な様子を察した男は、自身の携帯を取り出し、私に写真を見せた。
画面に写っているのは、まだ髪を染めていなかったころの男と、幾分幼い私のツーショット。
確か、初めて二人で遊びに行った日に撮影したものだったはずだ。
「……会って遊んだその日のうちにってこと?」
私の質問を、男は頷くことで肯定する。
何が原因だったかを思い出そうとするが、思い出せない。
見かねた男が、その日のことを説明しはじめる。
「この日揉めたのは、やっぱり俺の一言がきっかけだったよ。」
少し長めに時間をかけた、この男の話はこうだ。
この当時、男が電車の遅延により、待ち合わせに遅れたことから、不穏な空気が漂う。
時間がずれ込んだことにより、一部のスケジュールを組み直す必要が生まれた。
問題はリスケジュールの内容にある。
訪れる予定だった商業施設は、時間借りという形になっていて、3つのうち、1つだけを切り捨てる必要があった。
だが、その時の私はどこであろうと切り捨てるのは嫌だったらしい。
この男は私の主張について「気持ちはわかる。だから、次以降に埋め合わせをさせて欲しい」と主張したそうだ。
ここで私が噛み付いた言葉は「気持ちはわかる。」という一語だ。
私ではない人間が、ここにいたわけでもない人間が、なぜ、どうして気持ちを理解できるというのか。
そういった趣旨の発言をし、男の肩を突き飛ばしたという。
いかにも私らしいし、直後の男の行動も、ある意味ではとても驚くべきものだった。
この男は、なんとまたしても「ごめん」と言ったそうではないか。
私はさらに激昂し、2回3回は掌で殴ったらしい。
「何に対して謝っているんだ」と。
「何も知らないくせに」と。
叫び声と表現しても差し支えない勢いで。
後になってわかったことだが、口内を切っていたそうだ。
その後は、つい今しがたと殆ど変わらない流れだ。
一通りの説明を聞き終えた私は、うんざりするような倦怠感を伴い、笑みを浮かべてしまう。
『何回目』どころか、初めからそうだった。
男が数を覚えていないのも無理はない。
この調子だと、多分、毎日同じようなことをしている。
一日のうちに、何度も何度も気分が入れ替わっているのだろう。
そしてそれは現在進行形だ。
先程までの怒りはどこへやら、ものの数分で、私の胸中に悲しみが満ちてしまった。
すると、異変を察知した男は「すっ」と立ち上がり、何やら探し物を始める。
怒りの疲労か、悲しみの所為か、私はそれを気にすることはない。
一方の男も、私からの声を待っているわけではないようだ。
しばらくの沈黙を経て、男は「あったあった」と声をあげ、再び私の隣に戻る。
この男の探し物は、手の中に収まるほどの小さなものだったらしい。
私は反射的に身を寄せ、手の中のソレを見ようとする。
「覚えてるかどうかわからないけど……。」
そんな私の様子を見た男は、少しばかり不安げな表情を浮かべて、手を開いた。
握られていたものは、キーホルダーのついた小さな鍵。
『覚えているか分からない』という言葉から、おそらくは大事なものなのだろう。
しかし私はいまいちピンと来ない。
記憶をどれだけ遡ってみても、こういう類のものは登場していない。
男は「やっぱり、そうだよね。けど気にしないで。」と笑う。
と、おかしなことに気づく。
普通、何事かを忘れられていたとすれば、落胆や悲哀の念が表れるものだ。
しかし、この男はどうだろう。
どこか気恥ずかしげな、そんな表情をしているではないか。
私の記憶は辿れるだけは辿った。
であるならば、交際を始めたそれよりも、遥か前か、私が朦朧としていた時が候補に上がる。
しかし前者はありえない。
それは男も同じ事だが、そもそも私達は地元が離れており、あの日もどちらかが引っ越しをした直後だったはずだ。
消去法によって、残されたのは私に異変があった時のことになる。
異変の最中のことなど覚えているはずもないので、「それ、いつのやつ?」と問う。
「それは言えないけど、多分、思い出せるよ。」
はぐらかすように微笑みながら言ったかと思えば、この男は、持っていた鍵を私の手に握らせた。
想像よりも少し重いそれは、男の体温で、僅かに温かい。
私は、しばらくの間、ぼぅっと手を見つめ、ふと我に帰る。
思い出せる?
男は確かにそう言った。
何を企んでいるのかはわからないが、その発言の意図は、おそらくは……予告。
考えが整うが早いか、私は男の顔を見る。
そこに男の顔はない。
確かな重みと、僅かな衝撃を認識するよりも早く、私は天井を見つめている。
瞬間的に寝台に押し倒されたことを察知した私は、視線をやや足元へ巡らせ、今度こそ、その顔を捉えた。
ニ、と釣り上がった口角と、青い髪の間から覗く、野生を彷彿とさせる瞳。
ともすれば、命の危険をも抱くほどの表情を前に、私は身をすくめた。
反射的に胸の前で組み合わせた手を、男の手が覆う。
この光景を、私は知っている。
そして、起きることも。
この男が、何を言うかも。
耳を塞ぎたくなるが、それは叶わない。
かわりに男の唇が耳元へ這い寄る。
すっ、と息を吸う音の後に、男は一言だけ、囁く。
明らかに、けれど小さな小さな声で「…聖月(みづき)」と、私の名前を口にした。
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