種の保存もしくは25メートルについて。

たけすみ

本編

 スクール水着の濃紺と褐色の肌の背中から尻までが、まるで走る豹の背のように縦に波揺れしていた。水から引き抜かれた両腕がきれいな低い弧を描いて頭の先の水に割り入る。それが沈み込むと共に、はい上がるように一瞬だけ前傾に正面を向いた顔が出て息をつく。

 形の良いバタフライ泳法である。

 もっともこの小学校の水泳の授業はバタフライと背泳ぎの指導はしていない。校内の検定等級もクロールと平泳ぎと自由形だけである。自由形といっても競技としての水泳とは異なり、背泳ぎもバタフライも任意で認められている。

 他の子がバサバサとしぶきをあげてクロールで泳ぐ中、その子はひとり悠々と、その泳法で誰よりも速く25メートル先の壁を蹴った。

 戻りは体を裏返しての背泳ぎで途中まで泳いだが、隣のレーンの子の巻き上げる水しぶきを顔に浴びた途端、ぷはっと笑うように息を吹いた。それから転がるようにくるりと体を横に返し、クロールに切り替えた。

 これまた水から抜かれる手さばきが綺麗で、バタ足の足先のほかは余計なもののない優雅な動きだった。

 それを見つめる5年のショウは、ぽつりと「アシカみたい」と言った。その顔は色白が日焼けで真っ赤になっていて、首から下は水着と同じ濃紺のラッシュガードを着込んでいる。

 ――今年度からプール授業時、生徒の自由意志でのラッシュガードの着用が認められていた。この5年生6年生向けのプール開放日において、男子でラッシュガードを着ているのは5年生のショウだけだった。

 ラッシュガード着用は元々、校内の性別違和等を抱える生徒への配慮としての措置だったが『そういう生徒だけが着用するのは逆に悪目立ちする』という点を考慮して、『だれでも自由意志で着用可』という形に落ち着いたのだ。

 実際、既に女子は半分以上が着ている。理由も日焼けや露出が気になるなど様々だ。

 肌の色の濃い彼女の泳ぎ方をアシカと評したのは、なるほど上手いことを言っていた。

 きれいな泳ぎ方というのは、まるで水棲動物のように余計な動きが少なく、見る人の目にも悠々としたところがある。彼女の泳ぎはまさにそれだった。

 だがすぐ側に座った体が一回り大きな6年の生徒が、唇に指をたてた。そして、

「高崎さんにそんなこと言っちゃダメだ」

 と、とがめた。

 ショウはここで初めて、タカザキさん、という彼女の名を知った。

「なんでですか?」

 ショウがびっくりしてそうたずねると、6年はすこし面倒そうな顔で言った。

「アシカって黒いだろ。彼女のこと、黒いもので例えるのはよくないことだから」

 泳ぎ終えて、プールから這い上がる彼女の色の黒さは、日焼けではなかった。顔立ちも少し日本人離れしている。水泳キャップのうなじからこぼれて濡れたおくれ毛もツル植物のようにうねりが強く、いわゆる、アフリカ系の人種を思わせるところがあった。

 その顔を見て、ショウは察した。

「……わかりました」

 彼女の肌の色が他の子よりも褐色に濃いことは、6年生の間では触れてはいけない話題のようだった。よく言えば自主的ないじめの防止、悪く言えば腫れ物扱いである。

 さて、泳ぐ練習の順番は泳力順であった。このショウという5年生はかなり後の方になった。ビート板を使ってのバタ足である。飛び込みではなく、はじめから水中である。

 このくらいの技量の生徒の練習になると、もはや同レベルの生徒はわずかで、プールの半分は自由に泳いでよい開放状態になる。

 そして、先生や友達、あるいは指名された上級生などが、ほとんど泳げないショウのような子に世話をやく。

 ――ショウは、この小学5年から転入してきた。そして前の学校では、ほとんど水泳の授業に出たことがなかった。

 一応、クラスの子には、軽めの日光アレルギー体質だから、と言っている。だが、本当の理由は違う。人前で上半身裸の姿で、いや、ほかの男子と同じ姿になるのが、いやだったのだ。

 ショウはいわゆる性別違和を抱える身だった。実際、それについては病院からの診断書も出されているし、学校側も把握している。

 しかし、実生活として小学生が性的マイノリティとしていきるのは、中々に難しい。子供は変わったものに対する扱いが露骨な生き物だ。以前の学校では、それが原因でいじめ同然の扱いを受けてきた。

 今の学校はそういう事情も理解している。だが、今回は表面上は男子として通学したい、つまり、可能な限り自分のセクシャリティを隠して学校生活を送りたいとしていた。

 だからショウはラッシュガードを着ながらプールサイドでは男子側の控えの列にいた。

 この日の泳ぎの指導には、タカザキさんがつくように、と先生から指示された。

 これをうけて互いに視線をあわせて、タカザキさんは笑みを、ショウは会釈を返した。

 さっそくざばざばと遊び始めるプールの半分を背景に、二人は水に入って、タカザキのほうからすいすいと泳いで寄ってきた。そしてすっと立つと、彼女はショウには見上げるように大きく見えた。

 タカザキさんの方が女子で二次性徴が早いせいもあって、頭一つは背が高い。

 お互い一応はじめましてということもあって、まずきちんと向き合った。

高崎たかざき白鵠ハコでーす」

笛吹うすい翔羽ショウです。よろしくおねがいします」

「よろしくねー、じゃ、早速やろっか」

 彼女は気さくにそういい、ショウはさっそくプールサイドに置いたビート板を取ろうとした。この肩を掴んで、ハコは「待った」と言った。

「君の泳ぎ方見てたけど、ビート板に必死に捕まりすぎ」

 そう言って、ハコはショウの両手を取った。爪と手のひらだけが淡い色をしたハコと対象的に、ショウの手は白魚のようだった。

「とりあえず、まっすぐ浮く練習からはじめようか」

 そういわれて、ショウはふっと鼻で笑うようにした。

「もう充分浮いてるんですけどね」

「なにそれ」

 軽くそう応えて、すぐに何か気づいたようにハコは手を叩いて指差す。

「ああ、君があの転校生の」

 とまで言ったところではたとして、自分の口を塞いであたりを見回す。

「……言わないほうがいいよね」

「ほとんど言ってるようなもんですよ、それ」

 そう指摘されてしょぼーんと背を丸くするハコ。

 対してショウはこの反応に少しほっとした顔をした。

「もういいです。……6年生にも広まってるんですか?」

 ハコはすこし口をとがらせて、困った顔でうなずいた。

「みんなデリカシーないよね。けど、そういう噂、みんな好きだから」

「そうですか……」

「まあ、浮いてるのは私もだから。お互い様ってことで」

 ショウは少し驚いたような顔をしてから、笑んでうなずいた。それから手をつなぐように、互いの両手を取り合う。そして、ショウはそっとうつぶせに寝そべるように水にうこうとした。

 両足を水底から離し、ゆっくり浮き上がる。

 だが、息継ぎの瞬間にまるで小舟が転覆するようにバランスを崩して足をついてしまう。

 ハコはああと何か納得したような顔をして、何度も顔の水を拭くショウを見た。

「体カチコチだね。水怖いでしょ」

「はい、怖いです」

 と、ショウも素直に答える。

「うん、じゃあ今度は背浮きしてみようか」

「背浮き、ですか」

「うん、ビート板もって、ラッコみたいにかかえて、仰向けに寝そべって」

 言われるままの姿勢を取る。

(こっちのほうが抱えるものがある分、安心する)

「じゃあ、そのままゆっくり体ゆるめて、ビート板外そうか」

 ショウはえっと思わず顔をあげた。途端、腰がひけて、尻から沈没するように水に沈みかけて、慌てて足をついた。

「大丈夫、私がやって見せるから」

 そういって、ふわりと寝そべるように水に浮いて見せた。顔から胸元、肋骨の下端のあたりまでが水から浮き出ている。

「ほら、できるでしょ。リラックスすればこのくらいふわふわできるんだよ。人間だって」

「いや、先輩ができるからって自分には」

「ごめん、何言ってるか聞こえない。この姿勢、耳が水に入ってるから話してる声がきこえないのー」

「わたしには無理ですー」

 とショウは顔を覗き込んで少し大きな声で応えた。

 これに、ハコは笑顔でふるふるっと顔を横に振って、クリオネのように両腕を脇のあたりで動かしてショウの周りをゆっくり泳いで見せた。

 それからざぱっと起き上がり、軽く顔を拭った。

「大丈夫、怖がらなければ今日中にでもできるから」

「そうですか?」

 ショウは少し疑うような顔でそう言った。ハコは白い歯の鮮やかな笑顔で「大丈夫」とうなずいて見せる。


 夏休みが始まる丁度ひと月前、学校は授業参観日があった。

 どの教室でも後ろの方で親達がずらりと並び、携帯のカメラ機能を我が子に向けるなどしている。

 それが落ち着くのが昼休みだ。生徒は給食、授業を見守っていた家族達にもそれぞれ食事のためにランチルームという使用していない教室を改装した特別教室が開放される。

 そこに用意された紙コップとお茶は保護者が自由に飲める。

 流石に大人たちには給食の用意はないが、各自持ち込みの手弁当や軽食を取れるように長机とベンチが開放されている。

 ショウの母とショウの親友であるチヅルの母も、そこでコンビニのサンドイッチや家からもってきたおにぎりなどを食べている。

 談笑していると、チヅルの母が、誰かの視線に気づいてそちらを見る。

 小柄な角刈りの男性だった。仕事途中に抜け出してきたのか、ワイシャツにベストにネクタイという姿をしている。見るからにタクシーの運転手といった風体である。彼は持ち込んだ弁当を食べている。

 その男性とチヅルの母はしかと互いを見合って、それぞれを認識しあった上で改めて会釈を交わした。

 これにつられるように、ショウの母も振り返って、軽く頭をさげる。これに先方の男性もにこりと人の良さそうな笑顔で頭を下げ返した。

「だあれ?」

「うん、高崎さん。去年PTAで会長さんやってくれた人」

「そう……ご挨拶しといたほうがいいかな。ほら、去年はうち、別の学校でご縁なかったし」

「ああ、そんなことしなくても……たぶんそのうち会うと思うよ」

「そう?」

「うん」

 ショウとチヅルの母たちはそう言い合って、別の話題に移った。


 翌週、病院にて。

 受付のカウンターの中には亀山という名札をつけたチヅルの母が座っている。

 夏物のワンピース姿のショウとショウの母が待合室に座っており、他の患者も控えている。患者たちはいずれも、性別がよくわからない人ばかりだ。

 病院は雑居ビルで、3階に精神科クリニック、2階は内科、1階に処方薬局が入っている。

「笛吹さん、お入りください」

 そう呼ばれて母子が診察室に入る。医者がカルテの表示されたパソコン画面から顔を二人に向けて「どもー」と言う。

「はい、よろしくおねがいします」

「3週ぶりですね。その後、調子いかがですか? お薬の副作用とか」

 ショウは笑顔でこくりとうなずく。

「だいぶ楽になりました」

「変えて正解だった感じかな? 普段眠くなったりとかは?」

「うーん、給食の後の授業中とかは、ちょっと」

「それはーたぶん、不安を軽くするお薬のんでなくても眠いタイミングかなあ」

「それじゃあ普通です」

「そうだね、じゃあこのまま続けて良さそうだね。他に生活はどうですか」

 そう問われて、ショウは少し考えてから応える。

「プールの授業がはじまりました。けど、始まってみたら意外とみんな普通っていうか、嫌な感じはなかったです。心配するほどじゃなかったのかなって。あと、6年生の女の子の友達が出来ました」

「そっか、それはよかった」

「お母さんから見てどうですか」

「私も心配でしたが、本当に水泳の日は毎度けろっとした顔で帰ってきたので、多分大丈夫なのかなと、ただちょっとプールの日はお昼寝が長いかな」

「だって疲れるんだもん」

「ははは、そうかー、けど寝過ぎて夜寝れないとかは?」

「そこまではないです」

「うん、ちゃんと10時半までには寝てます」

「それなら結構。ほかにはどう?」

 ショウは少し考えてから

「大丈夫です」

 としっかりと応えた。母は少し目を伏せる。

(この子、6年生の間でアウティングされてること、先生に言わない気だな)

 医師もパソコンのカルテになにか手早く打ち込んでから、うんとうなずく。

「……はい、今日はこの後採血あるけど、大丈夫かな」

「はい」

「よし、それじゃあこのまま隣の処置室行っちゃってください。看護師さーん」

 そう促されて処置室に行くと、先に注射を受けている患者が居る。そこにいたのが先日と同じタクシー運転手の姿をしたタカザキ氏だった。

 タカザキ氏とショウの母は、互いに驚いた顔をした。それから、タカザキ氏は少し困ったような笑顔で頭を掻いて、そそくさと待合室へと出ていった。

 ショウも同じ処置室で採血を受ける用意をし母は待合室で待つようにと看護婦に指示されてしまう。

 ショウの母が待合室に出ると、空いている席はタカザキ氏の隣だけだった。

 気まずいながらも二人は並んで座る。

「ご挨拶おくれまして、高崎と申します」

「笛吹です」

「……お話したほうが、いいですかね」

「はい?」

「いや、こういう病院ですし」

 そういって、周囲のほかの患者を見渡す。普通に見える男性、普通に見える女性の他に、パス度(性別の外見的な区別の度合い)が低いトランスジェンダーの患者が散見される。

 この病院は、精神科と内科を併せて性同一性障害や性別違和に特化した病院、ジェンダークリニックとして運営されている病院だった。

「そうですね、けど、それならある意味必要なくないですか?」

「そうですか?」

 そういいながらタカザキ氏はスマホを出し、20年前の日付のデータフォルダを開く。画像ファイルの一つを開いて、ショウの母に見せる。古い画素数の粗い画面だが、そこにはベリーショートの髪型の女子高生が髪の長い女子高生達に並んでぎこちない笑顔で写っている。

「この髪の短いの、昔の私です」

「……あら、男前」

 ショウの母にさらりといわれて、タカザキ氏はまんざらでもなさそうにぶふと吹き笑った。

「うちの親は頑固で、小学校から制服のある学校でしてね。当時はこれでも結構もてました」

「ええ、そうでしょうとも」

「けど、『女の子』は大変ですよ。特に世の中の偏見も我々『男』より多いですから」

「……そうですね、そんな話をよく聞きます。けど、男の人は男の人で大変でしょう?」

「まあ、今は家庭もありますからね」

 そういって、タカザキ氏はスマホを更にいじる。

 自分と同じくらいの背丈の奥さんと思われる女性と、同じくらい背の高い色黒な女の子が3人で写っている。その女の子はハコだ。

「妻と娘です」

 その画像を見て、ショウははっという顔をして母を見上げた。

「知ってる子?」

「うん、プールでお世話になった先輩」

「あらこの子が」

 高崎家は両親ともに東洋人顔である。やや血の繋がりを感じない家族写真であった。


 UR賃貸っぽい家の玄関。

 ただいま、と返ってくるタカザキ氏、リビングではテレビを見ながら宿題をやっているハコ。

「お母さんは?」

「今日夜勤だって。ご飯、カレーだよー」

「そっかー」

 着替えを済ませて出てきて、カレー皿に炊飯器からご飯をよそうタカザキ氏。

「お父さん、病院どうだって?」

 勉強道具やゲーム機のひろがったテーブルを片付けるハコ。

「いつもどおりだよ。異常なし、ホルモン剤もいままで通り」

「そっか」

 そしてハコも一緒にカレーをついでくる。

「まだ食べてなかったのか」

「食べたけど、少なめにしたから」

「太るよ?」

「今日はクラブでたくさん泳いだから食べたい」

「そっか、それじゃ」

 父は発泡酒、娘はジュースの缶をぷしゅっとやる。

「いただきまーす」

 手を合せて声を揃える二人。

 冷蔵庫からコルクボードまで、家中には何枚もいろんな家族写真が貼ってある。浴衣を着て花火をしている様子や、冬にスキーに行った様子、温泉で卓球などもある。いろんな思い出を作り続けてきた家族の証のようだった。

 

 背浮きができたショウ。

「浮いてる、浮いてる」

 少し怯えた顔ながら、ゆっくりと仰向けでプールの水面に漂う。それにそっと寄り添い、背中に手を当ててフォローするハコ。その顔は嬉しそうな笑顔である。

 どぷん、と尻から沈んで再び立ち上がるショウ。

「浮けた! 浮いてたよ!」

 その肩口にハグをするハコ。

「できたじゃん、よくやったねー」


 高崎家の居間。

 タカザキ父と娘はテレビのニュースを見ながら娘の髪をブラッシングしている。

 テレビは『LGBTは生産性がない』という政治家の発言を扱ったニュースを流している。それを見ながら、タカザキ氏は少し寂しそうな顔でハコの髪にスプレーをかけ、ブラシで梳く。

 アフリカ系とのダブルであるハコの髪質は生まれつき毛のうねりが強く、朝と寝る前はこまめな手入れが必要だった。朝の手入れは自分でするが、寝る前の手入れは両親のいずれかが毎晩やるのが高崎家の習慣だった。

 リモコンを掴んでテレビを消してしまうハコ。

「ちょっと、見てたんだけど、なあ」

 そういう父に、むすっとした顔で腕組みをするハコ。

「あんなクソみたいな話、見なくていい!」

「ハコ! 言葉が汚いよ」

「あの政治家はもっと酷いことを言ってるじゃん! 私本気で嫌い。なんにも知らないでさ」

「それは、まあ、そうだけどさ」

 そういいながら、ふくれっ面になる娘と、それを見てすこしうれしそうな父としてのタカザキ氏。

 この顔をみて、ハコはキッと目を鋭くする。

「なに笑ってんのさ!」

「いや、なんでもないよぉ」

「うそつけ!」

「ほんとだよぉ」

 

 12年前。

 特別養子縁組のリーフレットが立てかけられたマガジンラック、『育ての親になるために』という赤ん坊のポスターなどが置かれている待合室のような場所。

 そこにいる若いタカザキ氏とタカザキ氏の奥さん。

 そこに赤ん坊を抱いて現れる女性、タカザキ氏の奥さんとタカザキ氏はこれを見て抱擁を交わし、色黒な赤ん坊を引き取る。

 渡されるなり、泣き始める赤ん坊、これに困った顔をしながらよしよしとする奥さんと、その顔を見ながらタカザキ氏も涙をこぼしながら、笑顔を子供に向けている。

 自分たちだけでは決して叶わなかった小さな家族を、初めて迎えた瞬間だった。

 しばらくして、落ち着いてすやすやと眠る赤ん坊。

 養子縁組のマッチングの担当者と、それが見える少し離れたところで話をするタカザキ氏。

「……本当にいいんですね」

「ええ、私は元がアレですから。その事をいずれ子供に話すのなら、はじめから血がつながっていないことがはっきりわかる親子関係の方が、うちの場合うまくいくと思うんです」

「名前は決めているんですか?」

「ええ、箱入り娘でハコ。字は、縁起のいいものをいくつか考えてます」

「そうですか。箱入り娘で」

「それに、この子との家庭をもつことで、はっきりと意識したいんです」

「なにを?」

「血がつながっていなくたって、家族なんだって」

「……」

 微笑むマッチング担当者、二人は握手を交わし、タカザキ夫妻はハコをつれて家へと帰っていく。


 プール開放の終盤、一通りの練習が終わってからの自由時間になる。

 その時間になると、ようやく女子側の列にいる同じクラスのチヅルと合流できる。

 そこに先生から指示が出る。

「波のプールをやるぞ!」

 プールに浸かった生徒たちからおおうという歓声があがり、チヅルとショウが手を繋ぐ。チヅルは別の子と手をつなぎ、ショウが相手を探して迷っていると、ハコが同級生の仲間を連れてやってくる。

 そしてハコとショウは手をつなぐ。

 そして、はっきりと言う。

「行くよ」

 どきっとした顔をして、嬉しそうにうなずくショウ。

「はい!」

 生徒たちがプールの真ん中に一列に並んで、笛の合図と共に前へ後ろへ歩く。

 水の中を歩く生徒達の体が水を押して揺らし、水の起伏を25メートルいっぱいに動く波を作るのである。

「水は慣れれば怖いものじゃないよ。それに、学校のプールくらい、楽しんだほうがいいよ」

 ハコがショウに言う。

「え?」

 とぷん、とまだ低い波。

「まだまだ!」

 そういいながら、ぐいぐいと水を押して歩くハコ。

 せーのという声とともに往復が続く、たぷん、と波の高さが飛び込み台より高いくらいになる。

 そこまで行ったところでぴーっと笛がなり、笑顔で一斉に遊び始める子どもたち。

 その中で繋いだ手を離す前に、ハコはショウを引き寄せた。

「私ね、パパと市営プールに行ったことが一度もないの。あんたは、まだここがある。今のうちに楽しみなよ。じゃあまた後で」

 顔をみてはっきりとそういい、わかれる。

 びっくりした顔をするショウ。その側で小首をかしげるチヅル。

「どうしたの?」

「ううん」

 ショウとチヅルはきゃっきゃと波にのって遊び始める。

 波の中ゆうゆうと泳ぐハコ。

 それぞれに夏休みの一日を楽しむ。

 プールから上がると、ショウは水着のまま校舎を走り、職員室前の男女共用トイレに入る。

 そのひたひたという足音を見送る、ハコとチヅル。

 2人は女子更衣室に入る。

 男女共用トイレから出てくるのを待っているチヅル、ショウとチヅルは一緒に下校する。

 その途中で、待ち構えていたかのようにハコがいる。

「ジュース、おごってやるよ」

 二人はどきりとして、顔を見合わせる。

 近くのコンビニ、3人はジュースを選んでいる。チヅルが決めるのを待つ間に、ショウとハコが話をする。

「あんたさ、なんで学校で男の子のかっこうしてんの?」

「え……」

「いや、女の子でしょ、ここは」

 そういって指でつくったハートを胸元に置く。

「それは……」

 言いよどむショウに、ハコは「あ、そうだ」と言葉を重ねる。

「変なやつから聞かされる前に、私から話しておきたいんだ」

「は、はい」

「私と私の両親、血がつながってないの」

 え、という顔をするショウ。

「そんな重い話されても……」

 にやっといたずらっぽく笑うハコ。

「ううん、あんたには知っといてほしいんだ。あんたとうちのパパ、きっと同類だから」

「え?」

「私のパパ、昔は女だったんだよ」

 ぎょっとした顔をするショウ。

 そして何かいいかけて、手のひらを見せるハコ。

「あんたは別に言わなくていい。無理矢理話してほしいとも思わないし」

「けど……」

「この辺だと●☓病院でしょ。ほら、ホルモン剤とか取り扱ってる病院。そのうち病院でパパと会うかもしれないから」

 顔からうろたえた色が消えるショウ。

「そういうことなら、実はもう会いました」

 これを聞くなり、ふーっと安堵した顔で体の力を抜くハコ。そのままだらーんとショウに寄りかかるように肩を抱く。

「なんだ、知ってたのかー。私はあんたの味方だからね」

 ショウはにこりとしてうなずいた。

「じゃあ、先輩の分、私がおごります」

「ふぇ? いや、いいよ」

 急に顔を赤くするハコ。

「いいですって、二人分出してもらうんですから、お返しさせてください」

「そう? それじゃあ、ありがとね」 

 そういってチルドタイプのタピオカミルクティーを差し出す。

 それをもってレジに行くショウ。


 特別養子縁組制度とは――子供の福祉の増進を目的として、生みの親との親子関係を解消し、養親を法的の実の親子関係とする制度のことである。

 この制度を受けるには4つの条件がある。まず生みの親の同意があること、次に養親側は片親が25才以上の法律上の夫婦でなければならない。そして子は家庭裁判所に請求する時点で15才未満でなければならない。そして縁組成立には養親が養子を6ヶ月以上監護する、つまり親子として一緒に暮らしている必要がある。その監護状況などを家庭裁判所が考慮し、特別養子縁組の成立の有無を決定する。

 ――ハコは生まれてまもなく、生みの母親から引き渡された。

 父親は外国人で、ハコの生みの母親が妊娠に気づく前に別れたきり、音信不通だった。そして実の母親はハコを産んだ時点ではまだ10代で専門学校の学生だった。

 ハコが10歳の時、1度だけ生みの母親に会おうかという話があった。

 ――高崎家の親子関係は試練の連続だった。幼い頃から血の繋がりがないことを直感的に理解していたハコは、両親の愛情を試すかのように頻繁にいたずらやカンシャクを起こした。

 性教育を知った10歳の時『本物の親に会いたい』といい出したのも、きっとそうしたことの一つだった。

 高崎夫妻はこれをそれまで乗り越えてきた試練と同じように受け入れた。

 その準備はマッチングを担当したNPOを介してぎりぎりまで準備された。

 NPOとの連絡は、ハコが生まれたときから取り続けてきていた。例えばハコが小さい頃から、特別養子縁組による家庭同士の交流サークルのような形でである。自分たちの境遇が特別に奇妙なものではないと経験的に知っておくための場であり、出生について『不幸なことではない』と肌身で理解してもらうための交流である。

 生みの父とは連絡が取れなかった。だが生みの母とはどうにか面会の予定をこぎつけることができた。何月何日に会う、そこまで予定することができた。

 だが、最後の最後で生みの母親は面会の現場に現れなかった。

 先方からの謝罪の連絡はNPO経由で高崎家に届いた。

 理由は、彼女は既に結婚しており、子供をふくめた家庭をすでにもっていた。そちらの家庭環境がこの面会によってこじれることを不安がったのだ。

「私は、捨て子なの?」

 断られた理由を聞いて、ハコは、自分の出生についてネガティブなことを言った。

 そしてその時、ハコの母ははじめて彼女の頬を叩いた。


「ハコは白いコウノトリが運んできてくれたから、白鵠(ハコ)なんだよ」

 両親は幼い頃からそう話して育ててきた。そして必ず「うちに来たハコがたまたまそういう髪や肌をした子だっただけで、私達はハコを娘にしてよかったと思ってる。ずっとハッピーだったよ。それはこれから先もきっとそう」と話し続けてきた。

 それで家族3人納得し続けてきた。


 タカザキ氏は初めて母にせっかんされて泣く娘を夜の公園に連れ出し、一緒にアイスを食べながら自分のことを話した。女性に生まれて、性転換をして男性になったことだ。

「元々男の人の魂をもって生まれたのに、体が女性だった。それがずっと苦しくて恥ずかしくて、悲しくて、お金をためて、体をサイボーグみたいに改造手術して男になったんだ」と。

「サイボーグなら、空とか飛べるの? 手から光線だしたり」

「うーん、あれば欲しかった。パパが改造した時代はそういう機能は実装前だった」

 そういうとハコは笑った。その笑顔に少し笑んで、タカザキ氏は続けた。

「あのさ、パパとママは夫婦じゃん?」

「うん」

「夫婦って不思議なんだよ。兄弟や姉妹や生みの親子と違って、血がつながってないんだ」

 そういうと、ハコはすこし考えて意外そうな顔をした。

「うん、言われてみれば、そうだね」

「そうだよ。親友だって血はつながってないだろ」

 これにはハコは笑いながら、

「あたりまえじゃん」と答える。

「家族だって人間ひとりひとりは別のものだ。別人格っていうのかな。その家族から一人ずつ離れて、新しく家族をつくる。そのひとつの形が結婚だ」

 ハコは少し真面目な顔になって、うなずいた。

「パパとママは結婚して幸せだった。夫婦が血の繋がりもないのに幸せなら、きっと子供も血がつながってなくても幸せにやっていけるんじゃないか、って思ったんだ。この感覚、わかるかな」

 ハコは少し考えて、うなずいた。

「うん、わかる。パパとママがじーたんばーたんの家族を離れて、結婚したのと同じように、私も生んでくれた、お母さん? から離れて、パパとママのところに来た」

「そのとおり。パパとママはね、そういうつもりでハコのパパとママになったんだよ」

「うん」

「ママがなんでぶったか、わかるかい?」

 少し黙って考えてから、小さくうなずく。

「……うん」

「ほんとにわかってる?」

「……ハッピーな家族なのに、私は自分は違うっていったから」

「……ハコはパパとママのこと、嫌いか?」

 ハコは少し考えた。

「パパのトイレの後は嫌い」

 これにタカザキ氏は大きな声をたてて笑う。

「そっかー臭いから嫌いかー」

 ハコは恥ずかしそうにすこしうつむいて首を横にふる。

「ううん。臭いのはしかたないよ。長いのがイヤ」

「そっかートイレのあと嫌われてたかー、ショックだー」

「んもう、大げさだってば」

「……コウノトリにね、どの子にしましょうか、って聞かれたことがあるんだ。その時、ハコにしようよ、って先にママに言ったの、パパなんだよ。ママはパパのこともハコのことも大好きでいてくれてる」

「うん、知ってる。私も愛してる」

「ああ、愛してる。パパもずっと愛してる」

 これに、ハコは少し照れる。

「ちょっときもい」

 これにはタカザキ氏、すこし落ち込んで背中を丸くする。

「そうかーきもいかー」

「きもいけど、いいよ、べつに」

「けどきもいってー」

「ごめんて」

「うんーゆるすー。ママはね、パパもハコも愛してるから、どうしていいかわからなくて怒ったんだと思う」

「そんなことあるの?」

「ああ、ハコのことはずっとうちの子だと思って来たからね。よその子じゃなくて、うちの子だって」

「わたしが、自分はよその子だ、みたいに言ったと思っちゃったのかな」

「そうかもしれない」

「ママ、悲しんでるかな」

「悲しくて我慢できなくて叩いちゃった、ってのはあるかもなあ。けど、いまごろ後悔してると思うよ?」

「なんで? 私が悪いこと言ったのに?」

「ううん、ハコを叩いて、嫌われたらどうしようって」

 これに、ハコは少し沈黙する。

「ママと似てないのが、時々かなしい」

「どのへんが?」

「肌とか、髪とか、鼻とか」

 いずれもハコの実父とおぼしきアフリカ系の血が色濃くでている部位である。

 タカザキ氏はだまって娘の肩を抱いた。

「パパも、こうしてると時々かなしくなる」

「なんで?」

「だってもうすぐハコのほうがパパより背が高くなるじゃん。パパがチビなのはかっこ悪いもん」

「えーべつにいいよそんなのー」

「オトコにとっては大事なことだよー。けど肌や髪や鼻のことも、そういうことだよ」

「それはちがうよ」

 それをきいて父はすっと真顔になる。

「なんだ、学校でなんか言われるのか」

「ずっと言われてる」

 うつむきがちに父にもたれかかって言う娘の頭を抱いて、もさもさと撫でる。

「……差別的な子たちだなあ。パパは嫌いだ。そういう子、無視してやれ」

「もうしてる」

「ははは、さすが我が子、天才だな」

「んふふ、大げさ」

「仲良くしてくれる子や、仲良くなれそうな子とだけ遊びなさい」

「うん」

「その方が人生楽しいから」

「うん」

「パパは?」

「ん?」

「女の子だった時、仲良くしてくれる子、いた?」

「小学校の頃か? 男の子にまざってバスケばかりしてたからよくわからん」

「そっか」

「……さて、アイスも食べ終えたことだし、そろそろ帰るか」

 そういって、立ち上がる空は月が出ている。

 ――この日を境に、ハコはそれまでほど両親の愛情を試すようなワガママは言わなくなった。


 日曜日、市営プール。

 この日のショウは女の子の服を着ている。これをかわいーとほめそやすチヅルとハコ。

 ハコの父は門前までで母親やショウ達とわかれる。

「やっぱり、一緒には来ないんだね」

「およげないんだってさ、うちのパパ。いつものことだから、いこいこ」

 そういって、女性側入場ゲートまで行く。券売所で係員に母親たちが「性的マイノリティの子供が来てるんですけど、どう対応したらいいですか?」

「お子様はおいくつで?」

「11歳です」

「一人で着替えることは可能ですか?」

「はい」

「それでは入場券を心の性別でお買い求め頂いてかまいません、通用口を開けますので、着替えだけ多機能トイレをつかってください。ロッカーはプールサイドに設置のものをご利用ください。ご退場の際は最寄りのスタッフにいってくだされば同じ対応をしますので」

「ありがとうございます」

「入れるって」

 これにハイタッチをするショウとチヅル。そこにふたりまとめてハグするハコ。

 そして着替えを終えてプールサイド、あらわれた恥じらう姿のショウ、サーフパンツタイプの下半身水着にラッシュガードはかわいいフリルつきである。

「さっそくウォータースライダーいくぞー!」

 ショウの手をつかんで元気よく走るハコ、手足はすらりと長い。髪はブレイズにまとめて、スポーツタイプのビキニを着ている。これに続くチヅル。

 近所の食堂でビールを飲みながら、流しっぱなしの甲子園中継を見てまったりと時間をつぶすタカザキ氏。その携帯が震える。妻からのメッセージで、そこに楽しそうな娘たちの画像がはりつけられている。

『あなたも来ればよかったのに』

『みっともないビール腹をみられたくない』

『そんなこと言って、どうせ飲んでるんでしょ』

『正解。帰りは運転よろしく』

『はいはい』

 ハコからもメッセージが来る。

 ウォータースライダーの直前の、高所からプールを見下ろした自撮り画像がある。

『今年は海に行きたい』

『わかった』

 そう返信する携帯画面が待受にもどる。そこには家族3人で餃子作りをしている画像が写っている。

 夏の日差しはまだ高い。

                              (了)

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種の保存もしくは25メートルについて。 たけすみ @takesmithkaku

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