3.11 あの時を忘れない為の思い出ノート
那菜里 慈歌
2011.3.11 PM 2︰46
その日は、いつもと変わらない朝、いつもと変わらない昼休みのバレー遊び。
いつもと変わらない日で終わるはずでした。
こんにちは。那菜里 慈歌です。
今回は、私自身も忘れないために、あの震災の年の記憶を、書き綴りたいと思います。
あの日あの時、私は小学六年生で、卒業式を23日に控えていました。黒板脇の壁に、あと○○日など、卒業を比喩する言葉が貼られていました。卒業式の全体練習をしたり、浮き足立つような非日常で、私たちは卒業式日を待ち望んでいました。
2011年3月9日
理科の授業をしていた時でした。机の下に隠れるか迷う程度の、少し大きい地震がありました。先生の携帯の地震アラームが鳴り、「立ってる先生は気が付かない」程度の地震ではない非日常に、男子たちはふざけあって騒いでいました。直ぐに校内放送が入り、避難の必要は無い、という旨の説明がされました。私は胸を撫で下ろしました。先生も安全を確認すると、一応窓を開け放つように言い、授業を再開しました。
2011年3月11日 3時頃
その日の全ての授業を終え、帰りの学活をしている時間でした。クラスの皆が体操服から私服に着替え終わり、机の上にランドセルと体操服を用意し、先生の話を聞いている中、私はと言うと、机の上はまっさらで、まだ体操服のままで、集中力散漫で先生の話をぼーっと聞き流していました。
床が、揺れ始めました。横揺れではなく、縦揺れでした。いつもとは違う揺れ方に、皆天井を見渡したりしていました。ズドンと大きい衝撃の後、グラグラと教室が大きく揺れ始めました。先生が「早く机の下に」と叫びました。机の下に隠れると、みんなの机の上のランドセルと体操着袋が、ボトボトと落下しました。窓がきしみ、他の教室から悲鳴が聞こえ、自分のクラスでも泣き始める子達がいました。私の席は、1番廊下側の真ん中辺りで、隣に鉄製のロッカーがありました。そのロッカーが、ガツンガツンと激しく壁にぶつかっていました。先生が、揺れる中走ってきて、そのロッカーを必死に押えていたのを、鮮明に覚えています。揺れの騒音の中、校内放送が、緊迫した声で「机の下から出ないで」と繰り返し喋っていました。
異常非日常なんて空間ではありませんでした。
正直、死を覚悟しました。
学校は古かったし、天井が崩れてみんな潰されて死ぬんだと思いました。でも、自分より保育園に通う二人の弟のことが心配になりました。保育園はもっとボロいし、祖母がまだ迎えに行ってなければ、死んでしまうかもしれないと。
6分ほど揺れたでしょうか。揺れが収まっても、皆机の下から出れないでいました。
直ぐに再度校内放送が入り、避難を開始するように告げました。皆ランドセルと体操着袋を引っ掴み、避難を開始する中、私は焦っていました。何故なら、ランドセルも何も、手元に無いのですから。避難して、校庭に行ったあと、何も持ってない私だけが浮いてしまうのは目に見えていました。
避難の時は「戻るな」という言葉がありますが、この距離なら許されるだろうと、後ろのロッカーへ行き、ランドセルと体操着袋を取りました。そして異変に気づきます。
壁に固定されているように、何をしても動かなかったランドセルロッカー。壁とくっついてると、ずっと思っていました。そのロッカーが、大きく手前に動いていたのです。
こんな重たい物を、こんなにも動かしてしまうこの地震が、とても恐ろしくなりました。
廊下へ出ると、そこも悲惨でした。
避難訓練の甲斐が有り、避難自体は順調でした。しかし、天井のパネルがずれ、ところにより落下して、黒い土のような物が、廊下中へ散らばっていました。こんな状態で、持ちこたえてくれた校舎に、感謝をしました。
校庭へ出ると、すでに迎えに来た近所に住む親御さん達が、校庭の一角に集まっていました。私たちは訓練どうり、クラス別に並び、全員揃ってることを数え、全児童の安否が確認されると、引渡しが始まりました。先生が一人一人、迎えが来ている子達を呼び出しました。
私の家族は、来ていませんでした。
普通の曇り空のはずなのに、とても歪んだ色に見えました。校庭にいるうちも小さな余震が続いていました。
しばらくして、雪がふりはじめました。3月だと言うのに、とても寒かったのを覚えています。残ってる人数が人クラス分くらいになった頃、先生達に、プレハブで増設された図書室の軒下に行こうと言われました。
どんどん迎えが来て、顔見知りが居なくなっていきます。一向に迎えにこない両親や祖父母の安否が心配になり始めました。心配と寒さと寂しさで、頭がおかしくなりそうでした。
しばらくして、やっと父方の祖父が迎えに来ました。「ばあちゃん達は?」と聞くと、怪我もなんもして無いから大丈夫と言われました。安心感で、思わず泣いてしまいました。
母親からの電話で、曾祖母を助けていたから、直ぐに小学校に行けない、と言う旨の電話があったようです。曾祖母の家は床が大きく傾いていて、確かに助けに行かなければいけないな、と思いました。悲報が入らないあたり、曾祖母も大丈夫なのだろうと思いました。
祖父母宅に着きました。お向かいの家の方と、祖母が話をしていました。とりあえず見知った人は安全なようで、本当に良かったと思いました。
家の中に入ると、異様な光景が拡がっていました。
落ちて割れたのか、床に伏せられてるパズルを飾った額縁。大きくズレた玄関マット。祖母の趣味で植木鉢が複数飾られていたのですが、その土と思われるものが、あちらこちらに山になっていました。寒さを防ぎたくて中に入ったのですが、いつもとは違う違和感と、また地震が来るかもしれない恐怖で、玄関より先には行けませんでした。
やっと母が迎えに来ました。曾祖母の所に行ったあと、母方の祖父母の家にも行っていたようです。とりあえず、父も曾祖母も祖父母もみんな大丈夫と聞いて、やっと心の底から安心出来ました。
とりあえず自宅に行こうという話になりました。その帰る道すがら、母は泣きそうになりながら喋り始めました。
「ヨシクラのおばあちゃん、大丈夫だったんだけど、びっくりするくらい真っ青になってて、助っ席に乗せてる間も、ずっとブルブル震えてて、何回も手をさすりながら、「大丈夫だよ」って何回も声をかけて、ばぁばんちに届けてきたんだ」
曾祖母は90ウン歳の高齢で、その話を聞いて、よく生きていてくれたと、あとから震えが止まりませんでした。
家に着いて、潰れてない事を確認し、お気に入りのぬいぐるみ達は大丈夫と思いました。
危ないから、とりあえず自分だけ行ってくると、母親は家の中の様子を見に行きました。
数分経って、数枚の毛布を抱えながら、「とりあえず大丈夫だけど、余震が怖いから車で過ごす」と話しました。奇跡的に、食器棚が倒れて割れた物が散乱…ということは無かったようです。ただ、壁紙などにヒビが入り、次大きい地震が来た時が分からないため、車の中で過ごすことに決めたようでした。
車に毛布や簡単に食べれるスナック等を積み終わった頃、父親が帰ってきました。父親の務める会社は、鉄を溶かして製品を作る会社で、電気炉を安全に停止させ終わり、やっとこ帰ってきたようでした。今になって思うことですが、爆発や工場建家の大火災等にならなくて、本当に良かったと、心の底から思います。
家族みんなが揃い、とりあえず近所のコンビニへ行く事になりました。食料を確保するためです。コンビニへ着く無いなや、父母は走るように店内へ行きました。長くかかって買ってきたものは、1、2個のお菓子と、数本の様々な種類の飲み物、助六寿司弁当が2、3個と納豆巻きのパックが1つだけでした。それ以外の、パンなどの食料は、驚くほど空っぽだったと言っていました。家から持ってきた食料もあった為、ガソリンの温存のためにも、今はこれで十分だろうという話になりました。
コンビニの道向かいの、真っ暗なお店の駐車場で、夜を明かす事になりました。トイレに困らない様にです。暗くなってもコンビニの明かりで、大きく安心できていたと思います。最初のうちはニュースを見ていましたが、何度も地震速報の音が流れ、安心して過ごせない為、寝る頃には私たちの見たいDVDになっていました。この時は、まだ津波の映像の記憶は残っていませんでした。と言うより、地震の時の記憶が今でも鮮明すぎて、安心したこの頃の記憶は、少し曖昧なものです。
翌日、父はまた会社へ向かったようでした。残った私と母と弟2人は、家の中へ入りました。とりあえず歩けるように道を確保し、靴のままで部屋を歩きました。電気は何とか通っていましたが、水道はまるっきり出ませんでした。少し落ち着いたところで、テレビをつけました。何度も何度も、繰り返し津波の映像が流れていました。親しんだ水族館も、いつか旅行したことがある海沿いの街も、真っ黒な、泥水のような海水に流されていました。津波と高波の違いをわかっていなかった私は、そのおぞましい光景に、釘付けにされました。テレビの右下には常に津波警報の日本地図が映し出され、上部は何度も余震の情報が流れ、何度も何度も、狂ったように、津波の映像を流していました。
もうその映像を見るのが嫌で、私は読書をして気を紛らわしていました。母親の驚いた、悲鳴のような声が聞こえ、はね起きるように顔を見ました。母親の顔は、恐怖のような、強ばった表情をしていました。テレビを見ると、福島第一原子力発電が、爆発する映像が流れていました。その頃、原子力のげの字すら知らなかった私は、ただ建物が爆発してるとしか、思いませんでした。でもニュースは狂ったように放射能が〜と放送していて、母親が「もう福島ダメかもしれない…」と呟いていました。なにか、よく分からないけどヤバいんだと、その様子を見て理解しました。
その頃の食事は、洗わなくていいように、ラップに食材を包んでレンジで火を通し、何とか食べれるようにした物ばかりでした。
トイレはと言うと、尿程度ならば何回分か貯めて、近所の人の井戸水を貰い、タンクに水を入れて流すという、限られたものでした。
昼過ぎ頃、父方の祖父母宅に行くと、おにぎりを振舞ってくれました。母は、その時のおにぎりの味を、一生忘れないといつも言います。
次の日、早朝から私たちはガソリンスタンドへ向かいました。ガソリンが空になり、全く動けなくなることを危惧したのです。震災の前に、母親が偶然満タンのガソリンをいれていたおかげで、余裕はかなりありました。
でもガソリンを求める列は、通りの端から端を埋めるほどの長蛇の列で、早朝から向かったのに、ガソリンを入れられたのは昼過ぎでした。何度も、ガソリンのタンク車が行き来していました。
昼ご飯を食べ終わると、スーパー巡りに行きました。近所のスーパー2箇所は、駐車場の半分に店の商品を並べ、空の下で販売するという、異様な光景でした。多くの人でごった返しになっていたのを思い出します。お菓子でもなんでもいいから、食べたいもの持ってきなと言われ、魚のスナックと、レンチンで美味しかったナスをカゴに入れました。
次の日、給水車が支所に来たという事で、水をもらいに行きました。スーパーで買う水の容器があったので、それを何個も持っていきました。支所に着いた時には、給水車は新しい水を汲みに行っていて、そこにはいませんでした。母に待てる?と聞かれ、私たち姉弟は待てると頷き、近くのスペースに車を停め、待つことにしました。ずっと篭もりっぱなしで、運動する機会がなかったから、縄跳びで遊ぶ事にしました。その時、口酸っぱく言われたのが、「雑草が生えてたり、土があるところには近寄らないで」でした。放射能問題を恐れての発言でした。目に見えない物の問題なので、肩身が狭い思いでした。
そんな時、少しだけ事件がありました。
支所の建物内で走り回っていた上の弟が、大量の水が入った丸型ペールにぶつかり、全てこぼしてしまったのです。持ち主のおじいさんは快く許してくれましたが、今でもこの事件は、震災の事が話題になると、必ず出る話の1つです。
しばらくして、水道が復旧されました。しかし、出せど出せど泥水で、飲めるほどの綺麗な水になったのは、一週間以上経ってからでした。
後になって、父方の祖母達は、川の水を使ってたと聞いて、灯台もと暗しだなぁと思いました。私たちの家は、同じ川沿いだったのです。
放射能を懸念し、家に籠る日が続きました。
学校から、中止になった卒業式の埋め合わせの会の話と、学校に残ってる荷物を引き取りに来る人は来るようにという連絡が届きました。大きな洗濯物袋に、教科書や道具箱等をパンパンに詰め込み、持ち帰りました。震災の日にちゃんと帰りの準備をしておけば、この荷物は少なかったのだなと、猛省した日でした。
卒業式の代わりの会は、教室で行われました。授業参観のように、教室をコの字に囲うように立つ父母たちに見守られ、卒業証書を受け取り、「旅立ちの日に」を歌いました。
この頃、私たちは「地震酔い」にあっていました。常に船の上にいるように、揺れて感じるのです。グラッとして、今揺れた?と確認すると、皆揺れてないというのです。この症状は、大人になるまで付き纏いました。
日はすぎ、中学校の入学式
これも、普通の入学式とは行きませんでした。体育館のステージはボロボロになっていて、入学式ではステージに背中を向けて、体育館後方で行われました。
後に、体育館天井の水銀燈が数個落ちたのだと、新担任に聞かされました。卒業式用に並べられたバイプイスが潰れたらしいです。それを聞いてから、今でも天井を見て、蛍光灯や危ないものの場所を確認するようになりました。
新担任は、本来なら他校へ転任するはずの先生でした。震災の影響で転任の手続きか何かがストップしたのか、一学期中だけの担任のようでした。理科の先生で、とても面白い先生でした。ある理由から、短い期間でしたが、私の大切な恩師の1人です。
全校集会は教室から校内放送で聞き、運動部の激励会等は、中庭を囲むように校舎の廊下に立ち、行われました。
放射能の影響で、プールは禁止でした。後に入れるようになったのは、3年生の頃でした。それでも強制ではなく、両親の許可が必要でした。
親指サイズのモニタリングの機械を渡され、常に携帯するように言われました。
中学2、3年の頃には、甲状腺検査と言って、鎖骨から喉辺りでエコー検査をしたり、全身の放射能検査もしました。
震災の年の初夏頃から、曾祖母の体調が芳しくない状況が続いていました。口から水分が取れないという事で、入院し、常に点滴を受けていました。特に病名と言える病名はありませんでした。母は、それでも曾祖母に何か食べて欲しくて、バニラアイスの爽や、カットスイカを持って行ってました。
曾祖母の腕は点滴の痣で痛々しく、もう血管がボロボロで、打つ場所が無いんだと言っていました。
8月の夏、曾祖母は脱水症で、息を引き取りました。母達は、震災の時のショックかもしれないなど言っていました。
曾祖母は、遊びに行くといつも100円を、お小遣いとして渡してくれていました。最後のお見舞いだった日、曾祖母は私たち姉弟3人に、それぞれ500円を握らせました。今思えば、曾祖母は悟っていたのかもしれません。
お葬式の時、曾祖母に旅装束を着せる時、濡れガーゼで手や足を拭いました。500円を握らせてきた、あの暖かい手からは想像がつかないほど、ひんやりと冷たく、ゴム人形を触っているようでした。初めて、人の死に直面し、津波で亡くなった方たちと言うのは、こういう感じで、これよりも酷いのだと、初めて知りました。
これが、「震災の記憶」として、私の中に強く残っている物です。
実は、今でも夢で見るのです。
学校にいる夢なのですが、勉強してる事自体は、おそらく私の願望でしょう。しかし、学校の椅子机に座っていると、前後に激しく、つよく揺れるのです。踏ん張っても揺れが止まることはなく、周りに「いつものやつだから気にしないで」と、それが起きる度に、夢の中で声をかけています。
2021年2月13日に起きた地震の、大きく揺れた感覚で、夢の揺れの正体を思い出しました。それはあの日、机の下で死を覚悟した揺れだということを。10年以上経った今も、私の中で震災の記憶は、大きな傷として残っているのです。
今年は、東日本大震災から、11年目です。
浜の方はかなり復興が進みました。ただ、今でも、津波で流され、土台だけとなった家の跡地が残っている地域があります。
原発事故の影響で、避難地域指定されてる場所が今もまだあります。
福島県では、一部の天気予報では、未だに放射能の計測値が放送されます。
学校や市役所など、様々な施設に、放射能をモニタリングする機械が立っています。
福島県産の肉、野菜、魚などは、全て放射能検査をしています。
今でも、年齢別に甲状腺検査を行っています。
おそらく津波に会った地域は、何かしらの爪痕や、元に戻らない場所が未だにあるのです。
ニュースで見た事ありませんか?
今、原発の処理水問題で、処理水を海に流すという計画なのを。
安全だとしても、どんなに検査をクリアしても、そんな事をすれば、福島沖で取れる「常盤もの」と謳われた魚たちは、激しい風評被害に揉まれることでしょう。
11年経っても、私たちの震災は終わらないのです。
それでも私たちは、愛したこの故郷で生きていきます。
支援しろとは言いません。ただ、少しだけ、津波の被害者達に、原発事故で住まいをおわれた人に、農業や水産業を営む人に、思いを馳せて欲しいのです。
また、今年も3月11日を迎えます。
3月11日 14時46分に、しばしの黙祷をお願いします。
3.11 あの時を忘れない為の思い出ノート 那菜里 慈歌 @sekainohazamade
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