第35話 線香
天馬さんが住んでいると教えてくれたのは、駅からバスに乗って、十分程の停留所を降りて、五分程歩いてやっとたどり着く二階建ての木造建築のマンションだった。
天馬さんはアパートの前でスマホを眺めながら僕のことを待っていてくれて、僕の姿を見つけると笑顔で近寄ってきた。
「道に迷わなかったか?」
「方向音痴ではないのでなんとか」
スマホの地図アプリを見ながら歩いてきたのでなんとか来ることはできたが、なかなか分かりにくいところに住んでいるな、と周りを見回す。住宅街の中にあり、ここまで来て見かけた道路も一方通行がいくつかあった。車でここまで来るとなるとカーナビの助けか、道をよく知っている人の助けが必要になるだろう。
天馬さんが住んでいるのは木造建築の二階の階段をあがってすぐの部屋で、隣の部屋に人はいるが、挨拶をしたことはなく、下への部屋には人が住んでいないと聞いた。
部屋に入るとすぐ傍にキッチンとダイニングがあり、奥の畳の間に仏壇があった。
「……綺麗な人ですね」
「ああ、そうだろ? この写真は姉さんが大学の卒業旅行に行った時に撮ってもらった写真なんだ」
仏壇に飾られていたのは、白いワンピース姿で砂浜に立ち、海を後ろに笑顔で手を振っている女性だった。黒く長い髪は風に揺れ、何かの映画のワンシーンと見紛う程だった。
こんな女性の死体が公園に綺麗に飾られていたら、写真を撮ってネット上にあげる人もいるのかもしれない。きっと写真や動画をあげた人達は死体だというよりも芸術品として、ネットに気軽に投稿した気分だったのだろう。だからと言って、許されるものではない。
僕は線香をあげて、しばらく仏壇に向かって手を合わせた。もし、運が悪かったら、僕も彼女のようにこうして、仏壇の前で手を合わせてもらう立場だったかもしれない。
「糸魚川くんは、五年前の事件に関して、ネットで調べたり、何か発言したりしたことはあるか?」
「実は、最近まではニュースも新聞にも触れてこなかったんです。ネットを利用したことはありましたが、SNSは全く……資格をとったり、勉強をしたりするために使う程度しか利用してないんです」
僕の言葉に隣で正座をしていた天馬さんが胸を撫で下ろした。その動作に思わず首を傾げる。
「いや、いいんだ。見てないのなら……。事件の後、あることないこと話したり、好き勝手に話したりする奴らが多かったから」
それこそ、あることないことを言われたのは死体の写真がネットにあげられていた淡田恵未子さんだろう。
昨日三鷹さんが夜中に話してくれた。他の事件では発見者がすぐに通報したり、一般人があまり入らない場所だったりと、人の目に触れることが少なかったが、五人目の被害者であった淡田恵未子さんの遺体は、誰でも入ることができる公園の敷地のモニュメントに飾られていたため、人目を引いたのだ。
通報よりも先に珍しいそれにスマホやカメラを向ける人がいたため、淡田恵未子さんの写真だけが他の被害者の写真よりも多くネットに出回ることになった。
そして、それは投稿者が投稿を削除したとしても写真や動画が保存され、どこかでアップされてはまた削除されることを繰り返しているという。
「事件の情報を見ないように僕の伯母さんがテレビを買わなかったりしてくれたので」
「その伯母さんは糸魚川くんによくしてくれるのか?」
「ええ、とっても。海外出張が多い人なので、今は別々に暮らしてます。僕も一人暮らしに慣れておきたかったので」
仏壇から離れてダイニングのテーブルに座ると「たいしたもてなしはできないけど」と天馬さんは麦茶を入れたコップを差し出してきた。
「実は、昨日、君たちが帰った後、話し合いの末に被害者の会は解散することになった」
「えっ」
思わず、大きな声が出てしまった。
被害者の会で井澤さんの言動に腹を立てて、言い返してしまったが、別に被害者の会の存在を否定しようと思っていたわけじゃなかった。むしろ、被害者遺族の人があの会に参加することにより、心が軽くなるのなら別にいいと思っていた。
僕は被害者の会に入るつもりはないけど、会を解散してほしいとは全く思わなかったのに。
「ぼ、僕のせいですか……?」
「糸魚川くんのせいではないな。もともと、どんどん人が抜けていたし、方針がブレてきてたんだ。そして、みんなの考えも食い違っていた」
確かに、井澤さんと天馬さんとは意見が合わないだろう。宇崎さんも彼女を嗜めていたと言っていたから、意見は違ったのだろう。
井澤さんの態度は被害者に寄り添うというよりは、自分の方が辛い思いをしているという印象を受けた。今まではそういう態度を感じていたとしても、表立った対立はなかったんだろうが、僕が現れ、井澤さんの態度を目の当たりにして、もう相容れないと思ったのかもしれない。
「被害者の会に所属しながら、あの女はやることをやっていたからな……」
天馬さんは大きくため息を吐いた。どうやら、天馬さんは井澤さんのことが嫌いらしい。僕もあの人のことは好きにはなれそうにない。
「やることって……?」
天馬さんは苦虫を噛み潰したような表情をした。僕に言うべき内容じゃないと思ったんだろう。しかし、口にしてしまったことは取り消せないと彼は重たい口を開いた。
「実は……あの女、ネットの匿名掲示板で五年前の事件のことをネタにしてたんだ」
「匿名掲示板で?」
「被害者の会で仕入れた被害者の名前や年齢、性格とか、ネットで手に入れた写真も使って、五年前の連続誘拐殺人事件の詳細掲示板って名前の掲示板でばんばん情報を出してたんだ」
そこまで言うと「忘れてた」と言い出して、天馬さんは戸棚の中から煎餅の詰め合わせの袋を出して、開いた。好きなのを食べろというように袋の口は僕の方に向けられていた。僕は海苔が巻かれた煎餅の小袋を手にした。
「ああ、安心してくれ。生き残りの情報は被害者の遺族にも警察が秘密にしていたから糸魚川くんの情報はなに一つ掲示板には載せられてなかったぞ」
「そう、ですか……」
よかったと僕が口にしていいものか分からなかった。僕の情報は出ていなかったが、天馬さんのお姉さんの情報もその掲示板には事細かに載せられていたらしい。
その掲示板は、昨日三鷹さんに見せてもらった。
亡くなった井澤さんの婚約者の園田さんについてはニュースでも言われるような内容と、とてもいい性格の人で友達も多かったという内容が書かれていたが、他の被害者について書かれていた内容は異色だった。
例えば、宇崎さんの娘の宇崎桃華さんは、学校でいじめに関わっていた可能性があると書かれていた。実際、いじめはあったかどうかという質問に三鷹さんは首を振っていた。最初、宇崎桃華さんの遺体が発見された時、彼女の身辺調査や彼女に恨みを持っている人物がいないかどうかが徹底的に調べられた。
まだ連続誘拐殺人事件だと判明していなかった頃だ。
もちろん、警察はその惨い死体の状況から怨恨の線で捜査を進めていた。宇崎さんも当然事情聴取を受けた。彼は娘の死体がジャングルジムに飾られたであろう時間にアリバイがあったため、早々に容疑者からは外れた。
掲示板に書かれた内容はでたらめなものが多かった。
むしろ、でたらめの度合いの方が多かった。
天馬さんの姉の恵未子さんについてもでたらめなことが書かれていた。何人もの男性と関係を持っていたとか。
「姉さんは恋愛にも、友情にも真剣に向き合ってた人だった。二人も三人も男性と付き合ってるわけなんてなかったのに、掲示板では何股もしてるって書かれていて驚いたよ」
「でも、その掲示板をどうして井澤さんが書きこんでいると思ったんですか?」
「被害者の会の誰かが書いていることは分かった。写真とかは遺族が遺影として使っているものが使われていたからな。それに、自分の婚約者だけいい人間みたいに書いていたからこいつだろうなと思ったんだ」
井澤さんの態度から自分の亡くなった婚約者と他の被害者では大きな差をつけているのは分かっていた。
そして、僕が井澤さんが匿名掲示板に書き込みをしていたと分かっているのは三鷹さんが確信していたからだ。井澤さんは亡くなった園田さんについて書き込んだ時に、彼女との待ち合わせをしていたのに現場に現れなかったという情報が書かれていた。その時、誘拐されたのだが、その待ち合わせのことを知っているのは当事者である井澤さんだけだったのだ。
だから、この書き込みをしたのは井澤さんだと分かり、次に狙われる人がいるとすれば、それは井澤さんだろうと思ったのだ。
「……スマホを少し見たんだ。あいつがトイレに行ってる間に。他のみんながちょうどいなくて、掲示板の犯人か特定するのは簡単だった。あいつはずっとスマホで掲示板を見ていたんだ。どんどん情報を追加して、自分の婚約者以外の人間は悪い人間だから殺されても文句は言えないだろうと言っていた」
「……天馬さんは、井澤さんのことを恨んでるんですか?」
僕の問いに天馬さんは目を丸くした。しかし、彼は僕の質問に方を竦めて答えた。
「恨んでるというよりは怒ってるさ。死んでも尚、大切な家族の名誉を傷つけられてるんだ。当たり前だろ?」
「……殺したいと、思ったりしますか?」
「思うよ」
彼は醤油味の煎餅を手に取ると二口で食べてしまった。
「姉さんのことを馬鹿にした奴や晒した奴は全員殺してやりたい」
「でも、殺しは……」
「いけないことだ。そんなこと分かってる。もしもの話だよ」
まさか本気にしたのか、と彼はけらけらと笑ってみせた。僕は彼の目を見ながら、ゆっくりと言葉を吐いた。
「僕は、四つ目と五つ目の集団パニックに巻き込まれました」
天馬さんの目がすっと細められた。笑顔がその顔から消える。
「……晃はそんなこと言ってなかったぞ」
「警察が事件の情報を漏らすわけがないでしょう」
「……それもそうか」
天馬さんは椅子に深く腰かけるとため息を吐いた。
「じゃあ、もしかして、分かってるのか?」
「五つの集団パニックで亡くなっている人が五年前の連続誘拐殺人事件に関係していて、全員が天馬さんのお姉さんの死体の写真を雑誌やネットに投稿していることですか?」
目を丸くした天馬さんは「驚いたな」と素直に感嘆の声を漏らした。
「まさか、子供にバレるとは思わなかった。いや、君だからこそ、分かったのか……。調べたってことは、五年前の被害者の写真や動画を奴らがどう扱っていたのかも知ったんだろ? 少なくとも被害者の君が見ていいものじゃなかった」
彼はテーブルの上に両肘を置いて、組んだ両手の甲に額を押し付けた。
「辛くなかったのか?」
「目を逸らし続けることはできますけど、僕は、もう一人じゃないので」
「じゃあ、頼みがある。もう一回。もう一回だけ、目を瞑ってくれ」
顔をあげた天馬さんの表情は悲痛な色が浮かんでいた。彼がテーブルの上の僕の手に自分の手を添える。
「それは、井澤さんのことですか」
「詳しいことは聞かないでくれ。あと一回。それで終わらせる。もう五年前の事件のことを蒸し返さないと約束する」
「僕がここを出て警察に行くとは思わなかったんですか?」
「それはやめてくれ」
彼はきつく、僕の手を握った。
「関係ない人間をこれ以上、殺したくない」
「……分かりました」
僕は目を逸らした。了承しないと彼は今にも僕をここで殺してしまうだろう。それだけは嫌だ。
「警察には行きません。気になるのなら、僕が家に帰るまで後をつけてもいいです」
僕の言葉に天馬さんは安心したように笑みを浮かべた。
「聞き分けが良くてよかった」
「このことは、もしかして、古布さんも知ってるんですか?」
これ以上、事件について質問されると思わなかったのだろう。唐突な質問に天馬さんは目を丸くして、すぐに視線を落とす。まるで後ろ暗いことでもあるように。
「……あいつは、関係ない。関係ないんだ」
「そうですか」
僕には彼の言葉がどちらかは分からない。
今、五味教授が作戦を考えてくれている。だから、僕はとりあえず、ここで天馬さんの足止めをしておく役目がある。彼が僕に釘付けになっている間、集団パニックは起こらないだろう。
三鷹さんは井澤さんのことを遠目から見ているみたいで、今日は仕事で彼女の仕事は午後五時に終わり、そのまま帰宅するらしい。彼女の仕事場と天馬さんが住んでいるこのアパートは一時間ほどかかる。だから、四時半頃まで足止めをしてほしいと頼まれた。
「……もしよかったら、もう少し、天馬さんのお姉さんの話を聞かせてもらえませんか?」
「姉さんの?」
「ネットで得た情報だけで知ったつもりになるのは嫌なので。生きていた頃の天馬さんのお姉さんのことを聞きたいです」
彼は嬉しそうに微笑むと、自分の姉が生きていたことのことを騙りだした。
共働きの両親の元に産まれ、天馬さんが生まれ、小学生になる頃にはほとんどの家事を姉である恵未子さんが担当していたらしい。天馬さんに勉強を教えていたのも恵未子さんで、両親と姉と弟の四人家族で幸せに生きていた。
自分の姉について嬉しそうに話す天馬さんを見て、僕はそっと瞼を下ろした。
本当にこの人が集団パニックを引き起こして、人を殺していたなんて、考えたくもなかった。
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