第10話 集団パニック事件の資料
僕たちが五味宅につくとまたリンゴジュースが出てきた。つばめさんは家の中でも黒い革手袋をしているみたいだった。どうして、いつも革手袋をしているんだろう。もうすぐ夏も本格的に始まるのに。こんな質問はいつでもできるだろうから、わざわざ今聞く必要もないだろう。
五味宅ではすでにテーブルの上に紙の束が紐でまとめられた資料が三つほどあった。
日にちと場所が最初の紙には書かれている。六月十六日の文字を見て、その資料が集団パニックをまとめたものだというのが分かった。
手に取って、ページを捲ると、集団パニックの現場にいた人物のリストが出てきた。いくら五味教授だからといって、こんなデータを集めることは可能なんだろうか。
このリストを持っているとしたら、それこそ、警察の人間くらいじゃないんだろうか。
次のページからはリストに載っていた人間の一人一人のデータがあった。本当にこのデータを五味教授が集めたんだろうか。警察にコネでも持っているんだろうか。僕の考えすぎかもしれない。
「事件の詳しい状況を知り合いに頼んで教えてもらったんです。糸魚川くんが事件の情報を見ても辛くないと言うのなら、是非見てもらいたいんですが……」
「……なるほど」
僕に事件の情報を見せて、そこからなにか分からないかと思ったんだろう。リストに載った人物のデータには簡単な経歴と、どうして現場にいたのかという経緯と顔写真と身長や体重や年齢などの基本的なデータがあった。
これが事件の資料というなら、もしかして、現場の凄惨な写真があるかもしれない。
「あの、五味教授……現場の写真とか載ってますか?」
「ああ、載ってます。見たくないのなら、ページから抜いておきますね」
そう言って、テーブルの上に置いてあった資料を五味教授が手に取り、紙をまとめていた麻紐を解いてページを抜き取っていく。ちらりと不可抗力で見てしまったが、ページを埋めるように三枚ほど写真が載せられていて、その中にモザイク処理もしていない肉片が見えた。線路の上に転がったそれは明らかにスーパーの精肉コーナーに転がっているものではないということだけは分かる。
「うっ」
「あ、すみません。目を瞑っていてください」
五味教授にそう言われた瞬間にソファーの後ろから出てきた手が僕の視界を覆った。目の周りの肌に触れる革の感触から、僕の両目を覆っているのだろうが、実際、左の目だけ覆ってくれれば、それだけで僕は見ることができなくなるので、右手は必要ない。
「これで見えなくなった?」
「……見えなくなったね」
右手は必要ないけれど。
しばらくして「もう大丈夫です」という五味教授の言葉と共に、僕の目の上からつばめさんの手が離れた。
僕がやるべきことは当時の状況を思い出すことだから、集団パニックの状況写真を見るべきなのは明らかではあるけど、僕にもう一度現場の死体を見る勇気はない。
五味教授も自分の娘と同い年の人間に死体を無理やり見せるような人間ではないから僕のワガママを受け入れてくれたのだろう。
「そういえば、つばめさんは一昨日どうして僕のことを追ってきたの?」
ソファーの後ろから背もたれに肘をかけていたつばめさんを振り返ってそう聞くと彼女はポケットからスマホを取り出した。そのスマホには太ったひよこのマスコットキャラクターのストラップが垂れ下がっていた。
「交差点のところにゲームセンターがあったでしょ? そこでこれをとってたの。そしたら、外が騒がしくなって、ゲームセンターから出たら、交差点がすごいことになってて……そこから逃げ出す響くんを見つけたって感じ!」
「ああ、なるほど……」
つばめさんは集団パニックが起こった直後に現場を見て、その後僕のことを追ってきた。集団パニックが起こった時のことは全く知らないというわけだ。
「最初の事件は先月の六月十六日の駅のホームです。その次は今月の七月一日にショッピングセンターです。その次が七月十四日に商店街です。そして、四回目の集団パニックが一昨日の七月二十五日になります」
僕が巻き込まれた四回目は交差点で起こった。赤信号の交差点で集団パニックが起こったせいで、事故も起こっていたのを覚えている。阿鼻叫喚という文字がぴったり当てはまる現場だった。
先月のことを忘れると、一ヶ月に三回も集団パニックが起こっている。阿鼻叫喚の状況が一ヶ月に三回も起こるとなると、安心して外を歩くことができなくなる。
「そういえば、三隅涼花さんの話を聞いている時に話に出てきましたけど、幻覚剤が使われたとか、そういう薬が使われたとか、可能性はあるんですか?」
「否定はできません」
五味教授は断言した。
もしも、僕が見たものが幻覚剤による幻覚だとすると〝ハイダー〟が人間の視覚に影響を与えて、その場にいる人にパニックを引き起こした可能性は薄くなってしまう。
「しかし、幻覚剤を使われたとすると糸魚川くんがここまで正気を保っているのは不思議ですし、糸魚川くん以外のほとんどの人間が外出への恐怖を覚えるのはおかしいことです」
五味教授は手元の資料を持ち上げた。
「例えば、紙にトラウマを持った人がいるとしましょう」
紙にトラウマを持つ。どのような状況で紙にトラウマを持つことがあるんだろうか。紙ができることといえば、指先を切るぐらいのことだが。
「複数人の人が紙へトラウマを抱えるような現象にあったとします。しかし、紙が原因だとしても、ある人は白いものを見ると怖いと反応し、またある人は紙ほど薄いものを怖いと反応し、またある人は紙の見た目に見えなくても「それは紙だ」と人に言われて初めてそれに怖いと反応する人もいれば、紙という言葉の響き自体を怖いと反応する人もいると思います」
紙が怖いとは微塵も思わないけど、五味教授の言いたいことは少しだけ分かった気がする。
「同じ事件に巻き込まれたとしても、全員が全員同じことを怖がることはありえないということですか?」
「その通りです。例えば、地震にトラウマがある人間の大半が地面の揺れに恐怖するのは自然でしょう。しかし、全員が全員、災害の時に流れるアラームに極度の恐怖心を覚えるわけではありません。何事にも度合いがあるんですよ。百パーセント、全員が同じものを怖がることはない」
しかし、集団パニックの事件では僕以外の人間が外出への恐怖を覚えていた。涼花さんも大丈夫そうに見えていたが、あれでもだいぶ克服した方だろう。もう彼女が体験した事件から一ヶ月は経っている。克服できていると言っても不思議なことではない。
もしかしたら、一ヶ月経ったところで克服できない人もいるかもしれない。心の問題なんて、そう簡単に克服できるものでもないのだから。
「それに幻覚剤が使われていたのなら、全員から薬の反応などがでるはずです。しかし、全員、病院で検査を受けていますが、ほとんどの人間からは薬の反応は出ませんでした」
僕の隣に自分のリンゴジュースをいれてきたつばめさんが座った。彼女はコップをテーブルの上に置いて、二件目の集団パニックについての資料を捲り始めた。
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