第9話 一人目の証言


 三隅涼花さんが集団パニックの現場に巻き込まれたのは先月の六月十六日のことだった。


 集団パニックが起こったのは午後五時の駅のホーム。まだ帰宅ラッシュに重なっていないが、早く用事を終わらせた人などがいて、閑散という言葉も合わない程度の駅のホームで彼女はぼーっとしていた。


『そしたら、なんかいきなりチカチカと視界が眩しくなって……気づいたら、頭ががんがん痛かったんです。隣の男の人とかは悲鳴をあげて線路に落ちてましたし、主婦みたいな見た目の人は泣き喚いてました。私は何がなんだか分からずに、とりあえず、警察に通報しようと思ったんですけど、スマホがつかなくって……画面にヒビも入っていたし、あとから確認したら、壊れていたのでつかないのは当たり前だったんですけど、その時の私は理解できずに何度もスマホをつけようと……地面に叩きつけてました』


『叩きつけていた?』


『意味が分かりませんよね。私も意味が分からないです。自分がどうして、あんなことをしたのか……。本当はあの時点ではスマホはまだ生きていて、私の手がおぼつかなくて電源が入らなかっただけかもしれないけど、私が叩きつけたことで壊れたのかもしれないです』


 彼女もパニックになっていたのだろう。今思えば、どうしてあのような行為をしたのか覚えていないと彼女は断言する。


 警察を呼ぼうと思ってスマホを手にしたまでは分かる。電源がつかなかったから地面に叩きつけたのは分からない。パニック中の彼女はそれが異常だと気づかなかったのだろう。


 彼女は首を横に振った。


『私がスマホを地面に叩きつけるのをやめたのは、近くの警察官が駆けつけて、私に声をかけて、私の腕を掴んで無理やりやめさせた時です。スマホのガラスとかが手に刺さってましたし、アスファルトを殴りつけていたので擦りむいた傷もいくつもありました』


 そう言って、彼女はカメラの前に自分の右の拳を突き出した。もうほとんど塞がっていて、綺麗な手だが、えぐれた後みたいなへこんだ部分がいくつかあったり、皮膚の色が他の部分と違う場所もあった。


『痛かったろうね』

『パニック中は痛みさえも忘れてました。その後、病院に連れて行かれて、色々聞かれたんですけど、なにを答えたのかもうろ覚えです。こんなに落ち着いて、外で話すのは本当に久しぶりです』


 涼花さんは集団パニックを目撃しただけの一般人と言われても疑えないほど、はっきりとした口調で話していた。


 五味教授は集団パニックに巻き込まれた人達は、僕以外、外出への恐怖を覚えると言っていたが、涼花さんを見る限り、そうは見えない。


 一ヶ月という期間が経っているからか、涼花さん自体、外出への恐怖が薄かったのかは分からない。


『集団パニック中に……なにか不思議なものを見た覚えはないかい?』


『不思議なもの、ですか?』


『私が話を聞いた子がもう一人いてね。その子が言うには、集団パニックが起こった時に無数の目に見られている幻覚を見たと言っていたんだ。三隅さんはそんな感覚はなかったかい?』


 僕の話だ。涼花さんは五味教授に幻覚の話をされて、考え込むように眉間に皺を寄せた。集団パニックだけでも信じられないのに、幻覚を見たかと言われれば、困惑するのも当たり前だ。


『幻覚剤みたいなものが散布された可能性がある……と五味教授は言いたいんですか?』


『もしかしたら、の話だよ。証言には一つ一つ真摯に向き合うべきだと思ってね』


 幻覚を見ていないかという質問を涼花さんは難しい質問だと受け取ったらしい。幻覚剤なんて、僕は思いもしなかった。幻覚が見えるような薬を人がいる場所でまき散らして、集団パニックを引き起こす。意味は分かる。〝ハイダー〟なんて化け物よりもよっぽどそっちの意見の方が、現実らしい。


『無数の目に見られている、という幻覚は分からなかったんですけど……今思うと、見られてる感じはしましたね。もしかしたら、気のせいかもしれないですけど』


 僕はつばめさんの方を見た。


「どこから見られていたのか聞いてもらってもいい?」


 僕は無数の視線に見られていたと感じていただけで、それがどこからの視線だったか覚えていない。もしかしたら、涼花さんなら、どこから見られていたのか思い出せるのかもしれない。


「お父さん、どこから見られていると感じたのか分かるか聞いてって」


 つばめさんはマイクの電源らしいスイッチを押して、マイクの向こうの五味教授に指示を出した。


『どこから見られていると感じたんだい?』

『どこから……』


 彼女はもう一度、考えこんでから、自分の右手をあげて、左手で指さした。


『手に持っていたスマホ、だと思います……。私……本当にあの状況で通報しようと思ったんでしょうか? 本当は見られてると思ったから、スマホを地面に叩きつけたんじゃ……』


『あまり深く考え込まない方がいい。気がするだけだったんだろう? 君もようやく落ち着いてきたんだ。それに事件に積極的に関わったわけじゃないのなら、もうこのことは忘れた方がいい』


 証言なんてさせて申し訳ないという五味教授の言葉に涼花さんは首を縦に振った。縦に振り下ろしたまま、顔をあげない。


『私、ニュースを見たんです。教授。どうしましょう。私、目の前にあったと思うんです。人が死んでたらしいんです』


 こちらが心配になるほど青ざめてしまった涼花さんをカラオケ店の駐車場で待機してもらっていた彼女の両親に引き渡すと五味教授は僕とつばめさんがいる部屋へとやってきた。


「行きにはカラオケをしようと言っていたけど、予定は変更しようか」


 僕もつばめさんも涼花さんのあの表情を見てから楽しむ気にもなれずに家に帰ることにした。

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