第6話 事情聴取


 交番に用意されたパイプ椅子に腰かけて、出された冷たい麦茶に視線を落とす。警察官が二人。二人とも成人もしていない子どもに対して、笑顔を向けているが、僕は集団パニックの現場から逃げ出した人間だ。どんな風に思われていても仕方がないだろう。


「君、昨日もこの交差点にいたよね? どうして、平日の昼間に出歩いてるんだ? 学校は?」

「僕、高校に通っていないので」


 昨日、五味教授にも話した説明をする。警察官にこの説明をするのは何度目になるだろう。保険証を見せて、保護者に連絡をして、終わり。


 でも、今日はそんなにすぐに終わらないと思う。


「僕の保護者の電話番号を教えるので、聞いてくれれば、僕のことは分かると思います」


 僕に優しく声をかけてきた警察官がメモ用紙とボールペンを貸してくれたので、僕はそこに伯母さんの電話番号と名前を書いた。


 伯母さんは僕のお父さんの姉で、両親が亡くなってからは僕のことを引き取って、育ててくれている。一緒に暮らしていたのは去年までだ。今は海外出張が多い部署に勤めているせいでほとんど一緒に暮らしていないし、僕も一人暮らしに慣れておきたいと言い出して、一人暮らしを始めた。


 お金は全部伯母さんが払ってくれた。どうやら、僕のお父さんとお母さんが僕のためにお金を貯めていてくれたらしいのだが、詳しい金額は教えてもらっていない。


「糸魚川くん。君の伯母さんから話は聞いたよ」


 電話を終わらせた警察官は戻ってきた。見回りの時の帽子をとって、黒髪に短髪の男性は二十代後半ほどの若い男性だった。彼は僕の名前を聞いて、自分の名前も教えてくれた。彼の名前は古布晃こふあきらと言う。


「君が高校に行っていないのは本当のことだと分かった。君が出歩いていたことに対して、変な疑いをかけるのはやめることにするよ。ところで、君には警察に協力してほしいんだけど、いいかな?」


「……はい」


 警察に協力するのは一般市民の義務みたいなものだ。僕が断ろうと思って断れるものでもない。僕の言葉に古布さんはほっと胸を撫で下ろしていた。


 僕の歳は、十七歳。一般的には高校に通っている歳だ。反抗の対象を警察官に向ける十七歳もいるかもしれない。僕は素直な方だと自分でも思っている。ここまで聞き分けのいい十七歳もあまりいない方だろう。


「昨日、君はあの交差点にいたよね? たくさんの人がパニックになっている状態の時、君を見かけたはずなんだけど……逃げたよね?」


「はい。いました。逃げました」


 そして、警察官に声をかけられながらも僕は逃げた。反論の余地もない。こんなにもはっきりと逃げたと答えられた古布さんはびっくりしたようで、目を丸くしていた。


「そう、だよね? いたよね?」

「いましたね」

「どうして、逃げたんだい?」

「あの場にいたら、もっと怖いことが起こると思ったので」


 これは本当のことだ。


 あの場にいたら、集団パニック以上に怖いことに巻き込まれるかもしれない。そう思った。だから、逃げた。わざわざ五味教授やつばめさんの話をする必要はない。


「ああ、確かに……。あの集団パニックについては警察も調査をしていてね。巻き込まれた君にも話を聞きたかったんだ」


「あの時は本当に気が動転してて……よく覚えてないんですけど、答えられる範囲なら……」


「大丈夫だよ。答えられる範囲でいいから」


 晃さんは近くにいたもう一人の警察官を「釜下かましたさん」と呼び、釜下さんがメモをとり、古布さんが僕に質問をすることになったようだ。


 釜下さんはツンツンと跳ねた髪の毛の古布さんとは違い、撫でつけたような黒の短髪で、四十代後半に見える体格と顔だった。


「昨日はなんのために外出をしてたんだ?」


「買い出しのためですけど、昨日は集団パニックがあったので買い出しができなかったんです。それで今日、改めて買い出しをしようと思って」


「なるほど。昨日、集団パニックが起こる直前、なにか気になることはあった?」


「……」


 僕は首を捻った。深く考えて、記憶を漁る。昨日のことだから、一日置いて、落ち着いて、思い出せることも増えているだろうと思ったが、記憶は昨日と変わらず、集団パニックの直前のことは思い出せなかった。


「直前に何があったかどうかは思い出せないんです……。なにか起こったと思ったら、叫んでる人がいたり、近く死体があったりして……」


 死体のことはあまり思い出したくない。見たと思った途端、目を逸らしたからはっきりとその姿を記憶しているわけではないが、思い出そうとすると倒れた男性の見開いた瞳を思い出しそうになる。


 冷たい麦茶を一息に飲み干した。


「他になにか覚えていることはない? 君はこれ以上怖いことが起こると思ったんだろ? それなら、なにかその原因もあったはずだ」


「事故も起こっていたし、死体もあったから、次は自分が殺されるかもしれないと思ったんです」


「そうは言っても……」


 僕の言葉を完全否定することはできなかったみたいで古布さんは困った表情をして、頭を掻いた。交番のデスクに向かっていた釜下さんがパソコンで僕の受け答えをメモしていたのに、ひょいと顔を出したと思ったら「もう大丈夫だ」と言ってきた。


 幻覚の話はしていないが、それを抜くと僕は昨日の集団パニックについて話した。しかし、捜査をしている警察にとってはいまいちな証言だろう。もっと突っ込んで質問をしてくると思った。何度も同じ質問をして、必要のないことも聞かれると思っていたのに。


 釜下さんはデスクから立ち上がると僕の肩に手を置いた。


「一人で帰れるかい?」

「え、はい……帰れます」


 買い出しに来て、必要なものを買って、帰るだけだから問題はない。お金も伯母さんが作ってくれた僕の口座から月初めに生活費として引き出したお金を使う。


 伯母さんは一人暮らしをするために最初に約束をさせた。一ヶ月に使っていいお金をまとめて振り込むから、家賃や食費や水道代や電気代など諸々もそこから出して、家計簿をつけるようにと、久しぶりにあった時は家計簿を確認すると言われた。


 伯母さんは、僕の誕生日やクリスマスを祝ってやれないからと言っていた。言葉にはしていないが、生活費を払っても五万は余ってしまうのは伯母さんなりの僕への優しさだろう。


「それじゃあ、気をつけて帰るんだよ?」

「はい。買い出しをしおわったら、家に帰ります」


 古布さんはいい証言を聞けないまま僕を返すことに不服そうな顔をしていたが、年上の釜下さんの手前、なにも言わなかった。僕は笑顔の釜下さんに送り出されて、交番を出て、買い出しに向かうことになった。


「なんだったんだろう……」


 なんだか、妙な気分になって、釜下さんの笑顔が不気味に思えた。

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