第5話 久しぶりの悪夢


 折り畳まれた手足。こちらを見つめている瞳は瞬きをすることはない。そこには死体があった。


 死体が、こっちを見ている。


 自ら閉じることを知らない死体の目の視線に耐えることができずに後ずさろうとしても、足が動かない。顔を逸らそうと思っても顔が動かない。目を閉じようとしても瞼が動かない。


 死体と見つめ合う。周りに光源もなく、闇の中に、死体と二人きり。

 まごうことなき、悪夢だった。


 死体から目を逸らせずにいると、だんだんと背中に何かが刺さるような感覚に陥る。背中や胸や顔、全身のありとあらゆる箇所に視線という武器が突き刺さってくる。


 遮るものなどなにもないのに視線の物量に圧されて、息ができなくなる。


 僕は息苦しさに叩き起こされた。


 カーペットの敷かれていない剥き出しのフローリングに折り畳み式のベッドから羽毛布団ごとずり落ちた状態で僕は天井を見上げていた。


「……悪夢なんて久しぶりに見た」


 正確に言うなら、起きたのに夢の内容を覚えているのは久しぶりだ。


 死体と見つめ合っていた上に視線で息が詰まる夢を見るとは思わなかった。視線。無数の目。まさか、今日の集団パニックが関係しているのか。


 駅まで送ってもらう車の中で、僕は五味教授と連絡先を交換した。


 集団パニックに巻き込まれた人達は、まず病院に連れて行かれ、警察から話を聞かれる。五味教授が話しを聞くとしたら、その後になるので僕も現場にいた集団パニックの被害者に話を聞くのは数日後になる。話を聞くことができたら、連絡をするから待っていてほしいと言われた。


 黒いシンプルな机にはデスクトップパソコンと収納箱、そして、電子時計。今の時刻は午前八時。


 悪夢を見た今の状態で二度寝をするつもりにはなれない。昨日できなかった買い出しでもしようと起き上がる。


 洗面所に行って右目の義眼を外して、洗う。もう朝のルーティーンとして、慣れたものだ。洗った義眼を右目の中に入れ直す。初夏の日差しのことも考えて、半袖の地の色が白に青の線の入ったポロシャツを選ぶ。黒いリュックを背負って、荷物を確認して、家の鍵を握る。


 いつも通り、「いってきます」もなにもない静かな外出。


 十五階建てマンションの二階の一番西の部屋。それが僕が暮らしている部屋だ。マンションから歩きだして五分ほど経った時に、昨日、事件があった交差点に向かっていることに気づいた。昨日も買い出しのために出かけていたのだ。当然、今日も通るつもりだ。集団パニックが起きたのは昨日のことで、今日はもう危険なことはなにもないはずだ。


「あ、ちょっと君。話を聞かせてもらってもいいかい?」


 交差点で赤信号に足を止めていると横から声をかけられた。警察の制服が二つ並んでいる。実は、警察に声をかけられるのはこれが初めてじゃない。昨日、五味教授に「何故、昼間に出歩いていたのか」と質問された内容と同じようなことを警察には聞かれることになる。たいてい、保険証を出して事細かに説明して、保護者に連絡をとってもらうことになる。


 その保護者というのが家にいないことを警察の人には同情されて、見送られることが多い。


「はい。大丈夫です、けど……」


 警察官の顔に見覚えがあって、言葉を止めて、すぐに思い出す。昨日、集団パニックの現場に駆け付けた警察官二人だ。


「じゃあ、ちょっと交番まで来てもらってもいいかな?」

「はい。大丈夫です」


 悪いことをした覚えがないとはいえ、昨日僕が集団パニックの現場から逃げたのは事実だ。話を聞かせてほしいと言われるのは当たり前のことだろう。


 五味教授の話によると、集団パニックの現場にいて、正気を保っていた人間は僕以外にはいないらしい。となると、僕は集団パニックの現場についてまともに証言できる唯一の人間ということになるだろう。


 果たして、無数の目に見られているような幻覚を見たという話をする証言者はまともなのかどうか、僕には分からない。

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